第10話・覚醒
隠居したとされる前王の実態を知る者は少なかった。
彼は一日の大半を東塔の上の小部屋で過ごしていたが、晴れた日の夕方には決まって、付き合いの長い近衛兵を一人従えて、愛する妻カーシャと娘マリアの眠る陵墓に足を運んでいた。
しかし実際には、カルダス王とその母スズ妃によって、事実上の軟禁生活を強いられていたのである。
前王が健在である事は王宮内の誰もが把握していたことだが、むやみにのその話題を口にすることは禁じられた。
それどころか、同じ王宮内に住む身内でありながら、マリエル王女と前王はその面会を厳しく制限されていたのである。
その仕打ちにアリナ妃が異を唱えた事もあったが、息子エミリオ王子が強く反対した。マリアを深く愛していた兄エミリオは、今でも父の犯した罪が許せなかったのである。
一方、父カルダスとの距離感に悩んでいたマリエル王女は、極稀にしか会う事を許されぬ祖父の存在に、微かな絆を感じるようになっていた。二人が言葉を交わせたのはわずかな時間ではあったが、勘の鋭い姫君は、祖父と自分の間にある血の繋がりを感じ取ったのかもしれない。
いつしかマリエルは、無茶を承知でメアリに頼み、父の目を盗んでは夕暮れ時に陵墓に向かう祖父の後を付いて歩くようになっていた。
陵墓への参拝は往復でわずか1時間程度のものだったが、彼女には一日の内で最も貴重な時間となった。
前王はマリエルの手を握り、歩きながら王家について色々な話をして聞かせた。孫娘に昔話を読み聞かせるように―――。
* * *
ある日、陵墓にて参拝をしていた前王は、墓室の奥からある物を取り出してきた。
それは古ぼけた木箱に入れられた金属製の横笛で、その精巧な造りから、旧世界の遺物ではないかと言われている王家の家宝であった。
「この笛は元々私のお爺様が所蔵していた物だが、亡くなられた時に一緒にここに納められたのだ。だが、もはやこんなところにあっても何の意味もなかろう―――。」
前王はそういって、その横笛をマリエルに手渡した。
「お前は眼が見えぬ―――かといって、そのまま何もしないままでは身体は弱るばかりだ。だがこの横笛であれば、腕や肺臓を鍛える事にもなるだろう。お前はこれからのイベリアにとって、大事な身体だ。それに―――」
その笛はズシリと重く、涼しくなり始めた夕暮れの風でひんやりとしていた。
「音楽は良いぞ・・・心を豊かにする。お前もこれから色々と大変だろうが、辛くなった時は、この笛を吹いて気を紛らわせなさい。マリエル―――私はお前とは頻繁に会う事を許されぬ身だが・・・城の何処にいても、その笛の音はきっと私の耳にも届く筈だ。」
「お祖父様・・・なぜお父様やお祖母様は、私がお祖父様と会うのを邪魔なさるの?」
「それはな・・・私がカルダスやエミリオ、そしてスズやアリナにとっても、酷い父親であり、夫だったからだよ。私は、家族全員から恨まれても当然の男なのだ。だからみんな、お前を私に会わせたくないのだよ。」
「でも、お祖父様は・・・」
「マリエル・・・今のお前が辛い思いをしているのも、元はと言えば私のせいなのだよ。お前の父カルダスがこのように怒ってしまったのも―――」
(私がお前の母マリアを―――。)
前王はそう言いかけて、止めた。
余計な事は知らない方がこの子の為だ。
この先のイベリアの未来・・・続けるも止めるも、マリアがこの子に託したのだ。
何も知らぬまま、この子が決めればよい―――。
「その笛の吹き方は城の楽師から習うといい。お前は眼が見えぬ分、手先の感覚は我らの何倍も良い・・・きっと、良い奏者になる事だろうて。」
そう言って、祖父は孫娘の頭を優しく撫でた。
「そろそろお体に障ります、戻りましょう。」
メアリに促され、前王は再びマリエルの手を握り帰路についた。
風に鳴く草の音と蜩の声が、季節の移り変わりを告げようとしていた。
* * *
それからしばらくの後、マリエルは暇さえあれば祖父から貰った横笛の練習に明け暮れるようになっていた。
前王の予想した通り、常人よりも優れた聴覚と手指感覚を持つ姫君は、急速にその楽才を開花させていった。繊細にして奥深い音色・・・陵墓に眠っていた家宝たる銀色の笛は、聴く者の心を揺るがすかのような美しい音を奏でた。
ところが、笛の噂がスズ妃の耳に入るようになると、その笛の出処が追及される事となり、前王と姫君の面会を手引きしていたメアリは、スズ王妃から咎めを受けることとなってしまった。
処分は数日の謹慎ではあったものの、マリエル王女はこの対応に激怒した。
姫君はもう11歳になっており、情動的に不安定な時期を迎え始めていたのである。
* * *
それは壮絶な修羅場であった。
王の寝室にまで殴り込んでいった姫君は、もの凄い剣幕で抗議し始めた。
「メアリは何も悪くないわ!何故メアリにだけ罰を与えるの!?私が無理を承知でメアリに頼んだのよ!罰を与えるなら私になさい!」
何事かと目を白黒とさせていたカルダス王だったが、直ぐに事情を察したのか、強い口調でマリエルを諭し始めた。
「聞き分けなさい、マリエル。お前をそうさせてしまったメアリにも責任があるのだよ。もちろん、お前自身にもな。」
「私をそうさせたのはお父様―――あなたの方でしょう!何故お祖父さまと私が会ってはいけないの?血を分けた家族なのに!私はただ、家族に会いたかっただけよ!」
「言葉を慎め!マリエル!」
「嫌よ!お父様こそ言葉を慎みなさい!誰のおかげで今この平穏な毎日が過ごせていられると思っているの?精霊との契約をお受けになったお祖父様のお陰じゃない!」
奥歯に電撃が走るような感覚だった。
言ってはいけない言葉だと解っていた。
だが―――抑えきれなかった。
「お父様なんて・・・お父様なんて何もできなかっただけの―――」
パシン!!
鋭い平手打ちがマリエルの頬を打った。
「カルダス!」
二人とも止めなさい!とばかりに、スズ妃が部屋に駆け込んできた。
騒ぎを聴きつけた侍女数人が、不安そうに部屋の外から様子を窺っていた。
ワナワナと震えるカルダス王は、忌々しげにマリエルを睨みつけていた。
最も触れてはならぬコンプレックスに、彼女は触れてしまった。
「そんなに―――そんなに祖父の元へ行きたいなら、行くがいい!!おま・・・お前は明日から、東塔で寝泊まりするのだ!」
カルダス王は激高していた。大きな大きな権力の上にある、固く重いプライドを支えていた柱の一つが、たった一突きの正拳でへし折れ、瓦解したかのような狼狽っぷりであった。
そして、カルダスの母スズがここで口を出し始める。
「マリエル、今のはあなたが悪いわ。あなたは言ってはいけない事を父上に向かって言ったのよ。」
そして―――
「お父上に謝りなさい!!」
緩急をつけるように、スズ妃は急に強い語気でマリエルを責め立てた。
マリエルはビクリと委縮し、その心は氷のように冷え切っていて、底の見えぬ深い淵に沈むような絶望感に包まれていた。
・・・・・・・・
しばしの沈黙後、異変は起きた。
「もういい・・・もう・・・沢山よ。」
盲目の瞳からは大粒の涙が溢れ、瞼を真っ赤に腫らしながら彼女が口を開いたその時―――。
ピシ・・・ピシ・・・
部屋の隅にあった花瓶がヒビを立てて震え始め・・・
パリン!
ひとりでに割れたのである。
「マリエル・・・お前・・・今・・・」
カルダス王とスズ妃はその光景を目の当たりにし、恐怖した。
青ざめた表情で立ち尽くし、怒りに狂った姫君の動向を、ただ見守る事しかできなかった。
彼女の中に眠る濃い王家の血が、いよいよ覚醒の時を迎えようとしていたのである。
「お父様・・・言い過ぎた事は謝ります。お言葉通り、私はこれから東塔に入ります。」
声が乱れぬよう・・・精一杯の様子で、姫君は二人に言った。
「その代わり、メアリには酷い事はしないでください。もしそんな事をしたら―――」
パリン!
今度は窓ガラスが粉々に砕け散る。
「キャーッ!」
外からは一斉に冷えた風が吹き込み、その修羅場を見守っていた侍女達が一斉に悲鳴を上げた。カルダス王とスズ妃は、腰を抜かし、その場にへたり込んでしまった。
「私―――今日の事は絶対に忘れませんから。」
肩を震わせながら、そう吐き捨てたマリエルは王の寝室を後にした。
この日から3年間―――彼女は東塔の小部屋に幽閉される事となる。
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