第8章:汚染

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 フィンランド湾に沿った白樺林の中に立つアングロ・ソユートザム運輸は、周りを囲む高い金網のフェンスを除けば、外観のどこにも原子力産業との関わりを感じさせるものはなかった。

 本社を形成する小さな建物群は、どれも革命前に造られたものであり、一番大きな棟はこの一帯がロシア領になる前にフィンランドの貴族が所有していた洋館を別荘に改築したものだった。

 建物の中の様子も、外観に劣らずギレリスとラザレフの注意を引いた。床の全面に敷かれた厚いウールのカーペット、硬材で作られた高級な家具。戸口の近くに、よく磨かれた胡桃の机が置かれ、その上にコンピュータが鎮座している。モニタを覗きこんでいるのは、20歳前後のはっとする美女で、その後ろに縁なし眼鏡を掛けた、ひげの剃り跡の濃い学者風の男が、上体をかがめて立っていた。2人の刑事の姿を見て、その男が背中を伸ばす。

「何か、ご用でしょうか?」

「ここが、アングロ・ソユートザム運輸・・・?」ギレリスの声は頼りなげだった。予想した雰囲気とまるで違っている。

「そうですよ。私は輸送管理部長のマルティン・ポターニンです」

 ギレリスは身分証を出し、じっくりと相手を見た。

「中央内務局刑事部のギレリス大佐です。こちらは、ラザレフ少尉」

 ラザレフが軽く会釈する。

「トーリャのことで来ました」ギレリスが説明した。「アナトリー・レオーノヴィチ・ロマネンコ。ここで働いてたと思うんですが」

 ポターニンの顔に不快な表情がよぎる。

「はい。たしか、今朝がた、おたくの少尉さんとお話ししましたね。まぁ、私の部屋へお入りになりませんか」

 秘書に「電話は取り次がないように」と指示して、ポターニンは刑事たちをつややかな松材でできたドアの方へ導いた。

 ギレリスの眼が天井と壁をぐるっと見渡す。

「こういう会社だとは、思っておられなかったでしょう。大佐?」ドアを開けながら、ポターニンが言った。

「ええ。まったく」

「ここは以前、ある政治局員の持ち物でしてね。実を言うと、今でも敷地内の小さな客用の離れに、その人物が住んでるんです。追い出すためには、不法に住んでることを証明しなくちゃいけないんですが、どちらの側にも、証拠となる書類がありません」

「書類があっても、信用できんことが多い」ギレリスが口をはさむ。

「不便を被ってるわけでもないですよ」ポターニンが後ろ手にドアを閉める。「それに、ここの人物は快適に生きるということを心得ていたようで。敷地内には、サウナにビリヤード場、屋内プール、映写室、6面のテニスコートがありました。今は映写室を講堂に使って、テニスコートはとりあえずトラックの駐車場にしております。我が社はここを、200万ドルで政府から買い上げました」

 ラザレフが低く口笛を吹いた。ギレリスは広い部屋に敷き詰められたカーペットの上を静かに突っ切り、大きな机の横を回って、窓の前まで行った。きれいに並んだ木立ちの手前にテニスコートがあり、そのうちの一面に、今まで見たことがないようなデザインをしたトラックが留まっている。

「足りないものは何もないという感じですな」ギレリスは言った。「あれが、おたくの営業用トラックですか?」

「はい。たいしたもんでしょう?1台100万ドルで、同じものがあと4台ございます」

 ポターニンが机からウィンストンの箱を取り、タバコに火を付けた。

「トーリャも、あの型のトラックを運転していたんですか?」

「はい、そうです。トーリャは、うちで一番腕のいい運転手のひとりでした。10か月前の創業時から働いてもらってます。その前は国営の運輸会社にいて、アフガニスタンやイラン、インドへ行ってたようです。うちの運転手は皆そうですが、折り紙付きで入社してきました。こういう職種の人選が厳しいことになるのは、お分かりでしょう?」

 ギレリスはうなづいた。

「ところが、ひと月前ほどから、トーリャは仕事ぶりが荒れてきました。家族と何かトラブルがあったようです。大酒を飲むようになりましてね。いえ、それが運転に影響するというわけじゃありませんが、仕事にときどき遅れて来るんです。実は、辞めさせようかと考えてたんですよ。ですが、その矢先にぱたっと出勤してこなくなりました。1台が輸送隊から外れて、ここに居残っているのは、そういう事情なんです。もちろん、トーリャの身に不幸が起こったなどとは、夢にも思いませんでしたよ。電話もかけましたし、一度は住まいを訪ねてみました」

 ポターニンは肩をすくめる。

「正直に言いますとね、1日じゅう飲み歩いてるんじゃないかと思いましたよ」ため息を吐いて、首を振った。「かわいそうなトーリャ。死因は分かってるんですか?」

「殺されたんですよ」ギレリスは言った。「頭を撃たれてね。しかし、その前にアイロンで拷問を受けてます」

「なんと」ポターニンが息をのむ。「でも、何の為に・・・」

「それを突き止めようとしてるんです。おたくの業務内容について、もう少し話していただけると、助かるんですが」

「うちの仕事とつながりがあるとお考えなんじゃないでしょうね、大佐」そわそわと、タバコを吸う。「そんなわけがありません」

「あらゆる場合を想定しなくてはならんのです。どんなに可能性が薄くとも」

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