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 ギレリスは自宅で着替えてから、大屋敷に出勤した。執務室で国家検察局からグルジア・マフィアの顧問弁護士が「ヴィシネフスキー事件の捜査担当者にお会いしたい」と申し込んだという電話を受けると、早朝の不機嫌でリュトヴィッツをヤクーボーヴィカ通りに送り出した。

 駐車場で自分のジグリをリュトヴィッツに渡した後、ギレリスが刑事部屋に入った。ラザレフとクリコフが待っていた。クリコフの口許が誇らしげに緩む。

「電話の聞き込みで手がかりをつかみました」ラザレフが言った。

「どんな手がかりだ?」

 クリコフが答える。

「先日、発見された遺体を覚えてますか?トーリャという男の」

「アイロンの火傷の痕があったやつだな」

「イギリスとの合弁企業に勤めてたんです。本名はアナトリー・ロマネンコ。アングロ・ソユートザム運輸という会社に、トラック運転手として働いてました。核廃棄物の運搬をしている会社です」

「ほう」

「あと・・・放射線生物学。この言葉は、原子炉と何か関係があるんでしょうか?」

 ギレリスは肩をすくめると、受話器を取り上げた。交換手に、科学技術部へ取り次いでくれるよう頼んだ。しばらくして繋がったので、タルタコヴァに質問をぶつけてみる。

《放射線生物学?それは生物学の一分野で、放射性物質が生体に及ぼす影響について研究するものです。なぜ、お聞きになるの?》

 ギレリスはクリコフの方を見た。

「なぜ、知りたいんだ?」

「偶然の一致かもしれないんですが、あのトーリャという男がアングロ・ソユートザム運輸で働いてることが分かって・・・それで、ヴィシネフスキーのメモ帳の住所録にあったデミトヴァ博士という女性のことを思い出したんです。彼女はパブロフ医科大学に勤めてて、電話をかけた時には休暇中でした。それで、何を専攻してる人か聞いてみたら、放射線生物学という答えが返って来まして」

「聞こえましたか?」ギレリスはタルタコヴァに言った。

《ええ、だいたいは。その新米刑事さんに、大事なことを伝えてくださいませんか?犯罪捜査で、事実と事実の繋がりを偶然の一致として退けるような過ちは犯さないように。偶然の一致を見つけるのが、刑事の仕事なのですから》

 助言を終えると、タルタコヴァは電話を切った。

「放射線生物学は、放射線の生体への影響を調べる学問だそうだ。それから、偶然の一致を見つけるのが刑事の仕事だと、君に伝えてくれとさ」

 クリコフが顔を赤らめる。

「運輸会社の人間が、彼女を知ってるかもしれませんね」ラザレフが言った。

 ギレリスはタバコに火を付け、クリコフがタルタコヴァからの情報をメモ帳に書きとめるのを見守った。

「アングロ・ソユートザムというのは、どこにあるんだ?」

「ソスノヴィ原発に向かう湾岸道路を、西へ75キロほど行ったところです」

 ルージンとの面談を終えると、昼前になっていた。リュトヴィッツは伯父を昼食に誘った。フェデュニンスキーの勧めで、リュトヴィッツはバクーニン大通り沿いに建つレストラン・スタニスラフスキに向かった。

 伯父はこのレストランの常連らしく、ウェイターから八人掛けのテーブルが置いてある個室に案内されると、大目にチップを渡して「別のお客を入れないでくれ」と頼んだ。

 料理が運ばれてくると、2人は食事を始めた。前菜はニシンの塩漬けと茹でたてのジャガイモ、キノコのマリネ、メインに陶器の壺で煮込んだ羊のシチュー。こんな贅沢な食事が出来るのは、伯父が著した法律の凡例書やチェスの教本の印税のおかげだった。

 フェデュニンスキーはウォッカをちびちびやりながら言った。

「お前はちょっと困ったことをしたそうだな。プロらしくない振る舞いを。おかげで身分証と銃を取り上げられそうになったそうじゃないか」

「ギレリスからはきつい叱責を食らいました」

 リュトヴィッツが驚いたことに、フェデュニンスキーが大声で笑い出した。

「飲まないのか?」

「アルコールは今やめてるんです。思ったよりも頭が動かなくなるので」

「いつから医者の言うことを聞くようになったんだね」

「今でも人の言うことは聞きませんね」

「やはり親子だな」

「実はまた、ひとつヒントを貰いたいと思いましてね」リュトヴィッツは切り出した。「だから、食事にお誘いしたんです」

 フェデュニンスキーはウォッカをグラスに注いだ。

「《カイーサ》というのは知ってますか?」

「チェスの女神だろう」

「10年ほど前、ユスポフのチェスクラブで、ヴァレリーがチェスをしていた相手です。ご存じありませんか?」

「知らないなぁ・・・待て、だいたい君が今追っているのはヴァシレフスキーの事件だろう?なぜ、ヴァレリー・サカシュヴィリの事件にも取り組むのだ?」

「ヴァシレフスキーと一緒に殺されてたのは、ヴァレリーの兄のオレグです。わずか2日の間に、兄弟そろって殺されてるんです」

 フェデュニンスキーは背広から葉巻を1本出し、両手ではさんで転がした。ひとしきりそれをやるうちに、葉巻のことなど念頭から消えたようだった。

「私は謎が嫌いなんだが」とようやくそう言った。

 リュトヴィッツは話を変えた。

「親父の遺書の内容を知ってますか?」

「六行の詩だったな」

「この前、読んでいて気が付いたんです。詩の行の最初の文字をつなげると、名前になるんです。《カイーサ》と」

 両手の間で葉巻を転がしながら、フェデュニンスキーは眼を閉じ、息を深く吸った。葉巻の匂いだけでなく、滑らかな葉の冷たさも鼻腔で味わっているように見えた。結局、伯父は火を付かずに葉巻を背広へしまった。

「いま思い出したんだが・・・それは、お前の父さんの最後の通信チェスの相手はじゃないのかね?」

「通信チェス、ですか」

「お前のお父さんはチェス狂いだった。ユスポフだけじゃあきたらず、雑誌に投稿して相手を募集してた。自殺した間際まで、そうだった」

 たしかにリュトヴィッツの父グレゴリーは、昼はユスポフで常連の相手に打ち、夜は自宅でチェスの専門誌を片手に定石の研究と、人生をチェスに捧げていた。

「相手に心あたりはありますか?」

「いや・・・だが、その相手はとても強かったようだ。どんな手を打っても袋小路に追い込まれるようで、『息子の気持ちがようやく分かったよ』と私にぼやいていた」

「・・・」

「負けを認めたくなかったんだろ。おそらく次の手を打つと、自分のキングを倒すしかなかった」

 フェデュニンスキーはプラスチック製の青い櫛を背広から出して、灰色の頭髪に入れ始めた。キザ者らしい伯父の身だしなみを整える癖だった。リュトヴィッツはあることに気づいた。伯父はリュトヴィッツの母である妹のガリーナから金製の櫛をもらっていた。柄の部分に彫金文字で『GからFへ 愛のたけを込めて』と書かれていた。

「金の櫛はどうしたんです?」

「ああ・・・ヴィシネフスキーの《金の子牛》じゃないが、このご時世に金色のものを持ち歩くのもどうかと思ってね。今のロシアでまともに機能してるのは、マフィアだけ。ギレリスもそう言ってるだろ?」

「地獄の沙汰も金次第というのが、昨今の流行だから」

 フェデュニンスキーは力なく笑った。

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