[16]
午後4時10分前、ギレリスとリュトヴィッツが大屋敷に戻った。2階の刑事課のオフィスでスヴェトラーノフとラザレフが報告書をまとめているところだった。ラザレフがタイプを打っているそばで、スヴェトラーノフが殺されたサカシュヴィリのアパートで起きたことを聞かせてくれた。
オレグ・サカシュヴィリが住んでいたのは、市街地の北西部にあるヴァシリエフスキー島に建つ超大型集合住宅の17階だった。フィンランド湾から見ると、この灰色の高層建造物は巨大な断崖を思わせる。
サカシュヴィリの部屋のベルを鳴らす。黒い絹のガウンをまとった20歳前後の厚化粧をした女がしかめっ面をして出てきた。靴底のゴムがきゅっと鳴る音を聞いただけで、警察が来たことが分かる根っからの商売女のようだった。
「オレグはいないよ」
女はそう言うと、豊かな胸の前でガウンをかき合わせ、挑発するようにガムを噛んでみせた。
「それくらいは、こっちも分かってる」
スヴェトラーノフは女を押しのけ、ずんずんと部屋に入った。部屋の家具はかなり豪華だった。新しい電化製品がそこら中に置かれ、まだ箱に入ったままのものもあった。窓辺には木の三脚に乗せた大型望遠鏡が海へ向けられていた。後から入ってきたラザレフが賞賛の声を上げる。
「なんとまあ、だいぶいい暮らしをしてるようですね」
女はタバコに火をつける。真っ赤に塗った口から憤然と紫煙を吐き出した。
「捜索令状は持ってるの?」
「家宅捜索に来たんじゃない」スヴェトラーノフが言った。
「じゃ、これはいったい何の騒ぎ?」
女が模造皮革のソファに腰を下ろす。ソファが大木の倒れるような音を立てた。ガウンの前がはだけて、すらりと伸びた白い太腿がのぞいた。尻の位置をずらし、ガウンをさらにすべらせて、薄い下着が相手に見えるようにした。
「お前さん、オレグのガールフレンドか?」スヴェトラーノフがCDプレーヤーの前にしゃがみ込んで機械をいじり始める。「それとも、ただの仕事仲間か?」
「おかかえの占い師かもしれないよ。でもそんなこと、あんたに関係ないでしょ」
スヴェトラーノフは女の股間にあからさまな侮蔑の視線を投げた。
「やつの運勢に、もっと注意を払っといてやるべきだったな。あいつの星座は、ブラックホールに飲み込まれちまったみたいだ」
女はけげんな顔付きになった。どうやら勝手が違うと感じたのか、ガウンの前をかき合わせ始めた。
「ねぇ、オレグが何か揉め事でも起こしたの?」
「警察とは揉めてない」
ラザレフは台所に入った。
「実は死んだんだよ、お嬢さん」
スヴェトラーノフが告げる。女はふうっと息を吐き、胸の前で十字を切った。スヴェトラーノフは酒の並んだワゴンからウォッカの瓶を取り、女の鼻先で振ってみせる。女はうなずいた。四角いグラスに酒を注いで、スヴェトラーノフはそれを渡した。
キッチンでラザレフが流しの上に渡された短い物干し綱を見つけた。洗ったコンドームが3個、不揃いの靴下みたいに干してある。高価そうな皮のバッグが口を開けたまま、テーブルの上に置いてあった。バッグの中をかき回す。女の身分証明書が出てきた。居間に戻ったラザレフはそれをスヴェトラーノフに手渡した。
「ニーナ・ペトローヴナ・ソトニコヴァ」スヴェトラーノフは身分証から顔を上げた。「ニーナか、おれのおふくろの名前だ」
「そのおふくろさんにゃ、いっぱい名前があるんでしょ」
スヴェトラーノフは辛抱強い笑みで受け止めた。
「いくらでも憎まれ口を叩くといい。それで気が済むんならな」
またウォッカを少し飲んでから、ニーナは2人の刑事をにらみ返す。
「で、どんなふうに死んだの?」
「実を言うとな、おれたちにもよく分からないんだ。ゼレノゴルスキーの民警が今朝はやく、森の中でやつを発見した。どうやら質のよくない輩と一緒だったらしくてな。そいつらがオレグに歯で鉛を受け止めさせようとした」
「オレグはどうやらタレコミ屋だと思われたらしい」ラザレフが言った。
ニーナは残りのウォッカをぐいっと飲み干す。
「それはないわ。そんなの、あいつのやりかたじゃない」
「だが、オレグをタレコミ屋だと思ったやつはいるんだ」スヴェトラーノフが言った。「犯人は歯医者を喜ばすために、オレグの歯を吹っ飛ばしたわけじゃない。それは確かだろう?」
「グルジア人の仲間うちで、オレグに敵はいなかったのかい?」ラザレフが聞いた。
ニーナは新しいタバコに火をつけた。眼をすぼめて強く1回吸ってから、首を振る。
「もしかすると、オレグは仲間のかみさんか情婦に手をつけたかもしれない」スヴェトラーノフは別の可能性を示した。「グルジアの男どもは、どいつもこいつも色好みだからなぁ。それとも、血族間の古い揉め事か?グルジア人の執念深さというのも、並大抵のもんじゃない」
「違うわ」ガリーナはタバコの灰を少し落とした。
「オレグを最後に見たのはいつだ?」
「夕べよ。7時ごろ。それから、あたしは出かけたの」
「どこへ出かけたんだい?」ラザレフが言った。
「外よ。友だちに会いに」
ウォッカをまた少し飲む。ニーナは顔をしかめた。
「オレグに知り合いの男から電話がかかってきたの。そいつ、名前は言わなかった。日本人の観光客からまきあげた上等の腕時計があるけど、興味はないかって」
「で、オレグは興味を示したのか?」
「グルジアの男は、欲深な黄金虫よ。光るものに眼がないの。金、銀、ダイヤモンド。何でもためこむの。オレグはその男と会う約束してた」
「時間や場所は?」
ニーナは首を横に振った。
「彼の口から、ドミトリ・ヴィシネフスキーの名前を聞いたことはないか?」ラザレフが聞いた。
「ジャーナリストの?どうして、ここでその人の名前が出てくんの?」
「彼とオレグは、一緒に殺害されていたんだ」スヴェトラーノフが言った。
「それ、ほんと?あら、やだ。あの人の書く記事、好きだったのに」
「オレグはどうだった?彼もファンだったのか?」
ニーナは哀れむような顔をした。
「オレグが?いい男だったけど、ちょっと頭は弱かったわ。あいつが読み書きできる言葉といえば、金と力と女だけ」
「ルスタヴェリ通りの他の連中は?」
ルスタヴェリはグルジアの首都トビリシの中心街にある通りの名前だった。ラザレフはグルジア・マフィアを表わす符牒に使っていた。
「どこに行けば、会える?」
「たいていはそこの角を曲がったとこに、雁首そろってるよ」ニーナが窓に顎をしゃくる。「ホテル・プリバルチスカヤにね。午後はジムでせっせと身体を鍛えてる。夜はレストランで酒飲んで、バカ騒ぎしてるわ」
スヴェトラーノフは立ち上がった。
「観光客から腕時計を奪ったというその盗人野郎だが、もし名前を思い出したら・・・」
「分かってるって」ニーナも立ち上がる。頭がスヴェトラーノフの胸ぐらいまでしか届かなかった。「伝書鳩で知らせるよ」
三人並んで玄関まで行き、ニーナがドアを開けた。
「ねぇ、犯人を必ず捕まえるって約束してくれたら、すぐに役立つ情報を教えてあげる」
「もちろん、捕まえるつもりだよ」ラザレフが胸を張る。
ニーナはスヴェトラーノフに言った。
「約束する?」
「約束する」
「降りる時は階段を使いなさい。おデブさん」
ニーナは刑事たちの顔の前でドアを蹴って閉めた。
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