37 三条玄司と逃走と赤い津波

 三条玄司は、ひたすら夜の森のなかを走っていた。

 刑事として、彼は肉体の鍛錬を忘れたことがない。

 それでも寄る年波には勝てず、いつしか足がもつれそうになっていた。

 息は荒く、あごは上がり、冷や汗とも脂汗ともつかないものがしたたり落ち、走るフォームも泳ぐカワウソ染みた有様だった。

 それでも玄司は走り続ける。


(あの社に)


 だんだんと酸欠で白く染まる脳みそで、それでも彼は茫洋と考える。


(あの社に、残ればよかったんですかねぇ……?)


 一可と玄司は、社で別れていた。

 あの謎の老人――近衞継嗣に誘われた一可は、そのまま社のなかへ――闇のなかへと踏み入り、姿を消した。

 彼は姿が見えなくなる寸前、一度玄司の方を振り向いて、


「刑事さん、ありがとうございました。きっと、生き延びてください」


 それだけを言って、にっこりと笑ったのだった。

 それが、玄司の頭からは離れない。

 一可の脳裏にひとりの女性の寂しげな笑みが残り続けたように、玄司の脳髄にも、一可の笑みが焼き付いて剥がれないのだ。

 さながら情報が水平に伝達されたようなその現象に衝き動かされ、玄司は走り続けている。

 玄司が最後に見た一可の表情、それは。


(あれは、生きてる人間が浮かべちゃいけない顔でした。あんな顔は、見せちゃダメだ。ありゃあ、死にゆく人間だけが見せる、顔だから)


 職業柄、幾度となくそんな表情を見てきた玄司だから理解できた。

 そして、一可のその笑みと、かつて久世悠莉が浮かべた笑みが同種のものであることを、誰も気が付けずにいるのだった。

 玄司は走る。

 背後にちらりと視線を向ければ、揺れる焔が木々の向う側に透けて見えている。

 松明の灯り。


(追手だ。もう追いついてきましたか! もっとも、土地勘がないぶん、元よりこっちが不利なんですがね……)


「くそったれめ」


 滅多なことでは口にしない悪罵を吐き捨て、玄司は走る。

 目的地はあった。

 別れ際、近衞継嗣が言ったのである。


貴様きさんに興味はなか。どこぞなりねよ。いま村に下りれば乗り物も楽に手に入る。そいで、消えちまえ」


 言い方こそ辛辣ではあったが、それを告げる継嗣の瞳にはありありと憐憫が浮かんでいた。もはや感情など枯死してしまっているように玄司には思えた老人の眼に、そんな色があったのだ。

 玄司はそれを信じてみることにした。


(車さえあれば、この村を抜けられる。県警にも市警にも応援は頼みましたし。どこまで信じてもらえたか、あるいはそもそも解りませんが、誰か来てくれれば御の字。こなくとも、有島くんにまでは連絡が回る手はずになっています。そうなれば、多少の事実を伝えられる)


 その為にも、自分は是が非でも生きて帰り、この村の異常さを、血眸さまという奇妙な宗教を暴露しなくてはならないと、玄司は考えていた。

 そう、この段にあっても、玄司のなかで血眸さまは単なる幻想、宗教の具象化に他ならなかったのだ。

 少なくとも、藪を蹴り抜け、崖を転がり落ち、全身に切り傷を作りながら玖契村の中に舞い戻るまでは、彼はその信念を変えなかった。

 そして――


「――?」


 その光景に、すべての言葉を失う。

 一気に、それまで考えていた脱出の手段や、暴露の手順、血眸さまのからくりなどが、脳味噌のなかから霧消する。

 脳内は一瞬で白濁し、そして次の瞬間には、真紅で溢れていた。


 


 玖契村のすべての家屋、すべての家畜、すべての畑――ありとあらゆるものが赤く、赤く燃え上がってた。


(いや――違う。こいつは違う。燃えているんじゃあ、ない)


 それは、炎ではなかった。

 熱を持ち、闇を煌々こうこうと払うほのおではなかった。

 もっとどす黒く、淀んだ流れのなかで胎動する、それはひとつながりの、そして無数の、

 玄司の脳裏で、祢津朗が囁く。

 かつてこの地方の森は焼かれたのではなく、赤い津波に呑み込まれたのだと。


(これが……つまりこれが――地曳富!?)


 ぼぅっと音を立てて、電柱を流れ落ちる焔が――燃え上がる津波が飲み込み、まるでアメーバ生物の体内で消化のプロセスが急速に進行するかのように、溶かし尽くされていく。

 それが〝〟であると理解したとき、もはや玄司には絶叫することしかできなくなっていた。


「うわあああああああああああああああああああああああ!?」


 尻餅をついて後ろに倒れ、それでもなんとか反転し、ふたたび森のなかへ逃げ込もうとする玄司。

 赤ん坊の這い這いのような速度で必死に逃げる彼の足が、唐突に止まる。

 

 極限まで張りつめた恐怖に、がちがちと歯を鳴らしながら、呼気荒く、強張った表情で振り返った玄司は、その光景を見て失禁脱糞した。

 彼の足を、眼鏡の青年が掴んでいる。

 全身が赤い、血の色の、船越紀一郎。

 血の池から、血の津波のなかから、血をしたたらせながら、溶けだしてきたようにその半身をはやし、紀一郎が玄司の足を掴んでいたのだ。

 紀一郎は、生前の彼であれば決して浮かべることのなかったような悪魔的な笑顔を浮かべると、なまぐさいと息とともに、その


『はぁぁぁぁぁぁ……』

「ひぃいいいいいいいいいいいいいいい!?」


 正気を失った玄司の絶叫が、赤く焼けた夜空に響き渡る。

 ゾブリと、鋭いなにかが濡れた肉に突き立てられるような音がして、やがてすべては静かになった。

 村は、煌々とうごめいている――

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