第2章 安寧
7 赤髪の薬草師
闇に閉ざされていた森の中に、白銀の細い糸を垂らすように木漏れ日が降り始めた。その光に追い出されるようにして、青い朝もやとともに闇は去り、足元に浮かんでいた白い光の道しるべも、木漏れ日に紛れていつしか消えていた。
しかしもう迷わなかった。ロイの目の前には、きれいにひらけた白い土の道が伸びていたから。
少年は相変わらず気を失ったままだったが、耳元で聞こえる呼吸はずいぶん落ち着いていた。進むほどに道は平たんになり、往来が多いらしいことがわかる。人里が近いに違いない。そう気づいたとき、ロイは安堵とともに不安を覚えた。
自分はレッサーニイルだ。どこでも受け入れられるというわけではない。むしろ、追い返される可能性の方が高い。
だがそれでも、この少年だけはきっと助けてもらえるだろうから、それでいい。ロイは不思議と自然な気持ちで、そう結論付けた。
そろそろ森の出口だろうか。明るくなってきた道を眺めながらロイは思った。そのとき、不思議な感覚がした。空気が流れるような穏やかな気配。みずみずしい花のような香り。何者かが近くにいるのかもしれないが、人間にしては静かで、ほとんど自然に紛れてしまうような気配だった。
近くに花畑があって、そこに野生の小動物でもいるのだろうか。いや、自分の鼻が本当に馬鹿になってしまったのだとしたら、この気配も思い過ごしかもしれない。
そう考えていると、前方から近づいてくる人影があった。燃えるような赤髪のおかっぱに白いリボンをした、真っ白な肌の少女。近づくにつれて、風に紛れてしまいそうなほど微かな気配がわずかに、しかし確かに強くなる。同時に、花の香りもはっきりと香ってきた。
ロイは信じがたく思いながらも先ほどの気配はその少女だと覚る。こんな曖昧な気配の人間には会ったことがなかった。
ロイが見つめていると、少女も持っていた籠に落としていた視線を上げてロイを見た。この森の木々のような、深い緑の瞳がまっすぐにこちらを向く。途端に、少女は進路を変えてロイに駆け寄ってきた。
「……あなたたち、どうしたの?」
ロイの背中で気を失っている少年をしきりに気にしながら、少女は親身な態度で尋ねる。ロイはずいぶん言葉に迷ったが、結局は少ない言葉を口にした。
「森で迷って、怪我を……。」
「そう。なら、来て。私の家、すぐそこなの。」
少女は言うなり来た道の方を指さした。突拍子もない展開に面食らったロイだったが、とにかく少年のけがを手当てしてもらえるならと、少女に従うことにした。
少女の後について脇道に入り、しばらく進むと小川が流れていた。新緑の中で輝く澄み切った小川は、眺めているだけで癒される心地がした。
ロイが水の流れる涼やかな音色に耳を傾けていると、何かが軋むような重たい音が混ざって聞こえてきた。さほど歩かないうちに、その正体はわかった。小川沿いの少しひらけた場所に、小さな水車小屋が佇んでいたのだった。
小屋の隣には小さな畑があり、見慣れない花や実が栽培されている。少女はその横を通って小屋の扉の鍵を開けると、ロイを振り返った。
「入って。」
扉を開いて待っている少女に頷くような礼をして、ロイは小屋の中へ足を踏み入れた。
部屋は薄暗かったが、少女がすぐに竈に火を入れた。小さな部屋の中が赤く照らされる。部屋には中央に大きな作業台があり、乾燥させたハーブや木の実、花びらと、いくつかの瓶や銀の器が乱雑に並んでいる。他は、壁に小瓶や本がつまった小さな棚が三つ並び、小さなベッドが小さな窓のそばに置いてあった。作業台のそばには、ロイの膝のあたりまでの高さしかない、大人ひとりが寝られるほどの細長い台があった。ベッドと呼ぶにはあまりに簡素で、薄い麻の布が一枚敷いてあるだけだった。
「そこに寝かせて。」
少女は水瓶から黒い鉄鍋に水を汲みながらその細長い台を示した。ロイは言われた通り、少年を台の上に下ろして寝かせた。
鍋を竈の火にかけて蓋をしてから、少女は作業台から何かを手際よく選び取って、少年のそばにやって来た。その白い手に錆びた短刀が握られているのを見て、ロイは驚愕した。しかし少女は落ち着き払った手つきで、短刀を少年の腹部に添えた。
「何するんだ!」
たまらずロイが叫んでも、少女は動じずに短刀を少年の服の中に差し込み、内側から器用に布を切り裂いた。少年の腹の傷があらわになる。むっとした血のにおいがロイの鼻を突いた。
憮然とするロイをよそに、少女は純粋な眼差しでまじまじと傷を観察した。
「森で怪我をしたと言った?」
「……そうだ。」
ロイが頷くと、少女は疑うような目でロイを見た。
「何日森をさ迷っていたの。この傷は少なくとも10日は前にできたものだわ。それに切り口がおかしな歪み方をしてる。これは湾曲した剣で斬られた傷ね。」
本当に森で負った怪我なの?と聞かれている気がした。ロイは答えられず沈黙した。それもかまわないといった様子で、少女は傷口を水で洗い始めた。
「鍋の水を見ていて。沸騰したら言って。」
手当を観察するなと言いたげな素っ気ない態度で言われ、ロイはしぶしぶ竈の前に移動する。少女は少年の腰の剣が邪魔なようで、腰布から鞘を外そうとした。サンクォーツの剣だ。ロイは少女の奇妙な気配のことを思い出して、もしかしたら何かが起こるんじゃないかと見守った。しかし少女は剣を持っても顔色一つ変えず、剣も何の反応もなしに作業台の上へ置かれた。
拍子抜けしたロイは、視線に気づいた少女からの非難がましい視線を受けて、慌てて鍋に視線を戻した。
手当てが終わると、少女は作業台の隅を少しだけ片付け、ロイに椅子をすすめてくれた。それから沸騰した湯の鍋を竈から外し、作業台の上の濡れた分厚い布の上に置いた。いくつかの葉や木の実をすりつぶして湯で薄め、小さな木べらで少年の傷口にのせると、きれいな布で覆った。
そのとき、少年が薄く目を開けた。
ロイは思わず立ち上がった。不思議そうに部屋の中を見渡していた少年の薄いブルーの瞳が、椅子の倒れた音に驚いて丸くなり、ロイを見た。
「ここは?」
少年は少女をしきりに気にしながら呟いた。起き上がろうとしたのを、少女が手で弱く押し返して止めた。
「私の家。」
そう短く答えた少女だったが、腑に落ちない様子の少年を見て、言葉を付け足した。
「私はフラヤ。薬草師なの。」
「そうか。ありがとう。ぼくはアルフレドだ。」
「おれは、ロイ。」
つられて自己紹介をしたアルフレドとロイは、顔を見合わせて笑みをこぼした。
「何なの?」
フラヤは二人を怪しむように見る。
「いや、ぼくたち、そういえばお互いの名前を知らなかったんだ。」
アルフレドがそう打ち明けると、少女は一層眉をひそめた。
「なにそれ。あなたたち、変ね。」
数時間が経って、フラヤはアルフレドの傷の様子を見た。
「血は止まったわ。」
布を取り換えてきれいに包帯を巻き、少女は立ち上がった。
「もう起きていいわよ。」
アルフレドは待っていたとばかりに起き上がった。切り裂かれ、黒ずんだ血の染みで汚れたシャツがあまりに見すぼらしいから、ロイはマントを手渡してやった。
「ありがとう。ところで教えてほしいんだが、モレオの町はここから遠いかい?」
マントを羽織ったアルフレドは早々に出発しようとしている様子で、急かすような早口でフラヤに尋ねる。フラヤは片づけようと手を伸ばした水差しを危うく取り損ねそうになりながら言った。
「モレオならここよ。」
アルフレドとロイは面食らった。
「と言っても、ここはかなり外れの方だけど。川を下ると街道があるから、森の出口へ向かっていけばすぐに町が見えるわ。」
「なんだ、そうか。ありがとう。」
アルフレドは心から安堵したような笑みを浮かべてロイに目配せをした。ロイも返すように微笑みを浮かべた。
「おかげで助かった。……申し訳ないが、今は持ち合わせがないんだ。これで勘弁してくれるかな。」
アルフレドは耳元から何かを外し、少女に差し出した。手のひらには、銀の装飾で縁取られた青い宝石のピアスがのせられていた。金目のものには詳しくないロイだったが、それでも一目で高価そうだと思うほど、装飾は繊細で、宝石の輝きも見事なものだった。
「いい。」
しかしフラヤは一瞥しただけで興味もなさそうに頭を振った。
「お金なんて普段もほとんどもらってないの。困ってもいないし。だからいいの。」
フラヤは作業台からサンクォーツの剣を取ってきてアルフレドに差し出した。
「お大事に。さよなら。」
なんとも素っ気ない見送りをされて、ロイとアルフレドはフラヤの家を後にした。
街道を抜けると、フラヤの言った通り、白い石灰の外壁と赤茶の屋根の町並みが、薄群青の山々を背景にして現れた。
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