第97話 忘れたりしない。
心を構える前にやってきた、その圧倒的な瞬間に。
ロマンチックのかけらもなく小さく呻き、走る緊張に体を震わせ目を瞑る私。
唇と唇が優しく触れ合っている感覚。
紛れもなくこれは。
私が、キスと言うのが恥ずかしくて、ちゅーと呼んでいた。
キスそのもの。
認識した途端、もう冷静ではいられなかった。
ゼリーをちょっとだけ温めたものを唇に押しつけた感覚と類似しているなんて、昔テレビのバラエティ番組で言っていたけど。全然話が違うではないか。
実際、ゼリーみたいにヌルヌルなんかしていないし、そんなに柔らかくもない。
少し、挟み込まれてる感覚だ、なんて思ったら顔に熱が集まってきて、指針が振り切れたみたいに心臓が暴走していく。
忙しなく解析するほどに混乱したけど。
怖くはない。
鵺ヶ原さんの時とは全く違う。
当たり前だ、だって私の体は、この感覚をしっかりと覚えていた。
まるで扉の鍵が開けられたように、感覚を受け取った体が脳に情報を伝え、それが、私の中に広がっていく。
今までどんなに頑張っても思い出せなかったくせに。
私の頭は、その時、都合よく、ほんとうにあっけなく。
ふ――と思い出した。
それは三年前の夏のこと。
カメさんに連れられて、全く同じように特急に乗り、寝姿山に登り、遊覧船でトンビの群れと戯れ、伊豆の海の夕日を眺め、お腹いっぱいカレーを食べて、ベッドでふざけあって笑いあい、翌日はしゃぎすぎて体調を崩し、ほとんどの予定が崩れた、一泊二日の短い旅行。
人気のない駅で、ぼうっと夕日を眺めていたら、遠くから電車が近づく音がして。
ああ、もう、終わっちゃうんだ。帰らなきゃなんだ。と、当たり前のことに気がついて。
私は、そこで子供のように泣いてしまったのだ。
そんなことできっこないとわかっていても、どうしても帰りたくないと思った。
そう思うほどに、この短い旅行は、今までどの時よりも私を満たしてくれた。
周りの意見や、顔色が気になって、いつもうまく動けなかった私が。
この人と一緒にいると、そんな息苦しさも感じることがなく、自然に笑うことができる。
それに気がつけたことが嬉しくて、今までの時間が楽しすぎて、もっとこの時間が欲しくて、終わりたくなくて。
様々な感情がせめぎ合って、涙がしばらく止まらなかった。
自分でもなんでこんなことで泣いているんだ、馬鹿じゃないのと思ったのに、カメさんは笑うこともせず。
私を泣き止ませるために。手を替え品を替え元気づけようとして、それでも私が笑わないものだから、最後に。
電車がホームを走り去る時、今と同じ優しいキスをしたのだ……。
私の中に眠っていた、記憶の一つ。
今、ようやく取り戻した。
数ある中の、たった一つだけだけど。
それでも私にとっては大きな一つ。
一番、取り戻したい思い出だった。
でなければ乾いたはずの視界が、こんなに濡れることはない。
――幸せだったのだ。
今と同じように、溢れ出る
この人といて、私は、幸せだった――。
忘却していた記憶が、再び私の中に浸透していき、言葉に表せられない感情が次々に奥底から噴き出して、それが暖かい雫となって何度も落ちた。
私はきっとこれからも、懲りることなく、様々な感情にもみくちゃにされながら、後悔し、喜んで、落ち込み、そしてまた笑うのだろう。
しかしそれでも、カメさんがいいと言うのであれば。もう少し、お言葉に甘えてみようかと思う。
私は、今の私のままで。この人ともう一度、恋をするのだ。
人生二度目の初恋を、ここから始める――。
これでいいよね。
過去の自分に問いかけ。返事も待たずに彼の背に恐る恐る指を伸ばす。
風と共に駆け抜ける電車。
太陽と海が溶け合う夕日の色。
遠くに聞こえる潮騒の音。
しょっぱいキス。
もう二度と忘れないように、私は強く、抱きしめた。
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