第91話 この雰囲気は……。

 確かにあのカレー。食べたことがあるような感じがしたのだ。

 そっか、前も行ったんだ……。おばちゃんたちに覚えられるくらい、私たち仲良く見えたんだ……。



「眠くなっちゃった?」

「いいえ」

「そっち、行ってもいい?」


 もうすでに私のベッドに足を踏み込もうとしているくせに。

 へへへとニヤけながらカメさんが二人じゃどうにも狭すぎるシングルベッドに乗ってくる。

 うつ伏せに伸びてる私の横に体育座りして、手を伸ばし頭部をゆっくり撫で回す。

 さっき取り換えてた新しい包帯がざらざらと髪に擦れる。


「手、大丈夫ですか」

「ん? うん」

「まだ、痛いですよね」

「痛み止め飲んでるからそんなでもないよ」

「そう……」


 前に見せてもらったけど。

 きっと、痕、残る。


「自分のせいで怪我させたとか思わなくていいからね」


 おう……読まれてた。


「ミツル最近ずっと思いつめた顔してたから」

「そんなに顔でます?」

「うん、出るね」


 でもそれがわかりやすくていいと思う。とカメさん。

 そこで私は遅まきながら気がつく。


 同じベッド。ゼロ距離。夜。いい時間。ほどよい照明の明るさ。夜風に小さく揺れるカーテン。潮騒。


 他にはなにも聞こえない。まぎれもなくいい雰囲気。

 あれ、これって……。


「あの、……さ。ミツル」


 え。はい。


「………………」


 え……。なにいきなり黙ってんのこの眼鏡。


「さ」

「……さ?」


 あちょ、なに眼鏡外してんの。

 なにその目。


「さ。……さわっても……いい」


 おうおえおええええええおおおおおおおおおおおおお!?

 ――サワッテモイイ!?



「脚」


 脚かよ!!


 枕を抱きしめてベッドの隅に瞬時に逃げた私だったが。

 次に苦し紛れに個人的嗜好を漏らしたカメさんに突っ込まずにいられなくなった。


「お願い、ちょっとでいいから、お願いします!」


 そんなに触りたいのか脚!


「触りたいっす脚!」


 おい合掌がっしょうして頼み込むな!


「他に変なことしないから!」


 いや、それもそれでどうよ。

 ああもう、そんな目、爛々らんらんとさせて、はあふうはあふう言うなよ! 怖いわ!


「ご、……ごめん」


 素直に謝るのも、なんつうか、もう。


「わかり……ましたよ。どうぞ」


 ああ、言っちゃったなあ。と思いながら私は不本意ながら脚を彼の方に投げ出す。


「まじで」

「触りたいんだろ、脚が」


 胸でもなく尻でもなく。

 脚を所望だろ。

 いや、胸と尻よりかはまだ脚の方がマシか……。

 なんて葛藤していたら。カメさんは投げ出された私の脚を自分の膝上に乗せ。

 しげしげと眺めると、ありがたそうにそこでこうべを垂れた。


「いただきます」

「ちょっと待ってキモチワルイ!」


 かぶりつく気か。


「じゃあ、おじゃまします?」

「なんですかその断り!」


 脚触るのにおじゃましますって一体。

 ……とは言ったものの。特に身構えるほどのことはせず。

 カメさんは気まずそうに、しかしどこか嬉しそうに私の脚を、ふくらはぎやら太ももなんかを揉んだり撫でたりして触りまくった。


「ああ、いいなあ、脚綺麗……」

「そんなに良いかよ」

「うん、いい。ミツルの脚すごく綺麗」


 えええ~。

 んな笑顔で言われても反応に困る。

 この絵ヅラどうなのよこれ。させてる私も私か……。

 異様な光景に呆れ、なんと声をかければよいのかわからない私。


 いや。はあ。旅に出る前、私は色々とウサに釘を刺されていた。

 本当に行っていいのか、ちゃんとよく考えろと。

 そりゃあ気分転換には最適だろうが、状況も状況だし。


「いくらカメちゃんだってね、二人っきりで、いつもと違う場所で、いい雰囲気でなんてなったら、普通はになるからね」


 それが嫌なら今のうちに断っておきなさい。現地で拒んだら傷つけるだけよ。と……言われたんだった。


 こうなってからハグ以上のスキンシップは無し。その辺りを複雑だと思わないわけがなくて。


 結構考えた。

 考えて、考えた結果。

 休暇に入る前。私はウサと出掛けた際に新しい下着を新調した。

 備えあればなんとやら。実は今、寝巻きの下に付けている。


 これが私なりのカメさんへの日頃の感謝というか労りというか、覚悟を固めた形なのだが。

 対するカメさんは脚のラインのとりこになって、全く他に手を伸ばしてこない。この分じゃたぶん、お披露目はないだろう。

 なんかちょっとほっとしたような。がっかりしたような……だ。


「あの、そろそろ、くすぐったいんで」

「もうちょっと」

「そんなに脚がいいのかよ」


 脚ばっか。

 さっきから脚ばっか見てる。


「なに、寂しいの?」

「べつに」


 こっち見んな。と言ったら、カメさんは顔をこちらに近づけてきた。


「へへっ、ミツルかわいい」


 締まりのない顔。


「きもいわ」

「ひどっ」


 べしっと私は彼の頬を叩く。これはあれ、照れ隠しだ。


「すればいいのに」

「なにを?」


 き、聞くのかよ。


「――す、……ち、ちゅー……とかさ」


 いや。チューと言わず。


「それ以上のこと、とかさ……」


 普段なら絶対に言わないよこんなの。自分で言ってて恥ずかしくなってきて顔を逸らす。

 ちょっと……なに、やめてよ黙んないで。


「……いいの?」


 やっと返された言葉にゆっくり頷く。


「……だって、旅行って……そういうのあってもおかしくないじゃん。私だって色々考えてきたんだよ、覚悟してきたんだよ。別に……焦ってないし無理はしてるわけじゃないよ、……ただ、なんつうか」


 こういう、雰囲気なのに。

 脚だけで満足しちゃうって。


「女としてちょっと……魅力ないのかなって思うわけで。今日のために、恥ずかしくないように下着も準備したし、他にもいろいろ――」


 あ、これ言う必要なかったな。と、思った矢先、私の両腕が掴まれて。

 柔らかいベッドに押し倒された。


「は……、ハ?」


 心臓が天井にまで跳ね上がるかと思った。

 カメさんがめちゃめちゃ顔を赤くして、息を乱して私に馬乗りになっていたから。

 今までのふざけたそれはどこへやら。彼は既に男の表情になっていた。


「いや……脚で満足なんてしてないからさ」


 肉を目の前にした獣のような眼。

 ぽかんと口を開けて喋れない私。


「魅力ないとか、ほんとないから」


 はー、はー、と熱い息を吐いて顔を遠ざけたのは、私が怖いと感じたのと同じタイミングだった。


「ごめん……嫌だったでしょう」


 すっと体を離して。背を向ける。

 謝るのは私の方だ。


「ごめんなさい、私も、軽率でした」

「いや、ミツルの気持ちはわかってる。でもあんなことがあって、怖く思うの当然なのに……つい」

「すみません……」


 そう背中に投げると、カメさんは短く叫んで頭をバリバリと掻きむしり出した。


「っああああ! 俺だって聖人君主じゃないから! 男だから! 人並みにそういうのあるんだからさああ!!」


 私がビクッとなると、カメさんは大きな枕を抱きしめてそのまま横になり、ごろごろとベッドの上を転がったかと思えば向こう側の床に派手に落下した。


「カメさん!?」


 驚いて見下ろすと、枕に顔を埋めて彼は情けない声を上げていた。

 やばい。変なスイッチ押したかも。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る