第63話 好きって気持ち。
「あれから、私全部聞いたよ。私の知らないところで、亀井戸さんに私が悪口言ってたって嘘ついて、何度も相談って口実作って食事に誘ってたこと」
結局、彼はそれでも食事に行かなかったみたいだけど。
「猫村さん。本当は知ってたんだよね、私が亀井戸さんとそういう関係だったってこと。でも、私が退院してからも、教えてくれずにむしろあの人から遠ざけようとしてたんだよね」
きっちりここで全部話そうと思った。お互いのためにも。
「もしかして、鵺ヶ原さんと協力してやってたの」
「それは……」
図星みたいだ。
「やっぱりね。それでさ、うまくいかなかったからこういうふうに八つ当たり? 悪いけどそういうの……子供っぽすぎるから、私はこれ以上付き合ってられない。もうやめて」
言って再び座ろうとすると。ムカつく……と吐き捨てられた。
見れば、彼女は涙目で私を睨んでいた。
「むかつく……ほんとむかつく! むかつく!」
子供のように繰り返すから、私も抑えていた苛々が募る。
「なによ、私なにかしたの!?」
「してないですよ! してないからムカつくんですよ!!」
ハア!? どういうこと!
「仕事終わって、亀井戸さんと会う為に着替えるの遅くしてお店出る時間ずらして、隠しきれてると思ってたんですか!? そうやって周りに悟らせないようにする努力とか見てるのほんとにムカつくんですよ! わざと恋愛の話フっても全然乗ってこないし、携帯とか見せないように必ずロックかけてるし。徹底的に隠してるくせに、先輩はっ……なんかいつも幸せそうなオーラ振りまいてるし!! どんなに仕事で失敗しても、前は人一倍落ち込んでたくせに平気で笑ってられて……あの人がいるからそうしてられてんだなあって思うと! すごいムカついて!」
猫村さんは捲したてるのをやめない。むしろ次から次へと感情を剥き出しにしていく。
「幸せだーって内心浮かれてるくせに、わざと外に出さないでいるの見てるの気持ち悪いんですよ! ほんとに! そういうの見るほど不幸になれって思っちゃうんですよ!」
つまりは、自分より幸せにしている奴が気に入らないという動機で間違いないのか。
「猫村さんも充分性格ブスだと思うよ」
内心呟くつもりが声に出ていた。気にしないけど。
記憶が抜けていることをいいことに、そんな勝手な理由で裏で糸を引かれて、私もとことん言ってやらないとこの際気が済まない。
「世の中だいたいみんなそうですよ。みんながみんな他人の不幸を望んでるんですから」
「いや、そういう典型的なのは珍しいと思うけど」
「どうでもいいですから。それで、ミツル先輩はいつになったらあの人と別れてくれるんですか?」
――は?
この後に及んでこの子はなにを言ってるの。
「なんなら今すぐ別れてくださいよ」
聞き間違いではなかったようだ。
「猫村さん、自分でなに言ってるかわかってる?」
「馬鹿にしないでくれませんか。別れてくださいって言ってるんです、亀井戸さんと」
「そんなこと……猫村さんに強要されることじゃないと思うけど」
「ほんとにっ、ミツル先輩って自分のことだけなんですね! 呆れる!!」
そこまで言って彼女は壊れたようにははっと笑った。
「彼のこと覚えてないくせに、それでも彼女ヅラして一緒にいること、あの人に失礼だと思わないですか?」
「は……?」
「自分が当たり前にそこに居ていいって思ってることがそもそもおかしいんですよ。なんにも思い出せないで、気持ちもなくて、先輩はあの人と今すぐキスできますか? エッチしようって言われたらできるんですか!?」
「いや……いきなり、なに……」
そんなデリケートなワードを急に持ち出されて狼狽える私。
「その様子だとできてないですよね。だって気持ちがないんだから。先輩はあの人のこと、今好きじゃないですからね!?」
「――っ」
好きじゃ、ない。
「先輩は、あれですよね、自分の意思というよりも、“彼女”っていう事実があるから今そうしてるってことですよね? でもそれってどうなんですか……? おかしくないですか、お互い好きじゃないのに。多分あの人も気づいてますよ。中身もない、スカスカの状態のまま一緒にいられてるって」
「だ、だから! 今それを元に戻そうとこっちだって考えて!」
「それっていつ戻るんですか。元に戻れる保証あるんですか」
そんなのは……。
「一回好きになった人を、もう一度好きになれるとは限らないですよ。だって先輩はもう、前の先輩じゃないんだから。あの人もそのうち気がつくんじゃないですかね、もう前の先輩じゃないって、自分が好きだった先輩じゃないって」
ぶわっと背中から汗が噴き出て、クーラーの涼しい風に冷まされ鳥肌が全身に広がる。
「普通に会っていても先輩はあの人を傷つけているんですよ。前はああだったのに、こうだったのに、って。がっかりさせてるんですよ。そんなことも考えず自分ばっかり。もう彼を振り回すのやめてくださいよ。それで別れてください。わたしの方が――今の先輩よりもずっとずっと! 亀井戸さんのことが好きなんですから!!」
なにか言わなければと拳を握る私に、猫村さんはさらなる追い打ちをかけてくる。
「でもこうやって話してて思いました。先輩は、きっとあの人のことそんなに好きじゃなかったんですね」
だって。
「本当に好きなら。全部忘れちゃうなんて酷いこと、あり得ないですから。忘れたとしても、とっくに思い出してるはずですから」
言われて一瞬頭が真っ白になった。
なにも聞こえなくなった。
そして、意識がはっきりした時。私の体は猫村さんの前にあって、右手は彼女の頬を叩いた後だった。
「な……」
やってしまった――。そう思った次の瞬間。
ビシャアッと音と共に冷たい液体が私の顔面に被せられた。
肌の上でパチパチ弾ける炭酸飲料の泡と甘い香り。
やられた――。
そう心中で呟くと、折り悪くそこでバックヤードの扉が開いて。
「すいません忘れ物……っし、い、えっ……えええええええええ!?」
お下げに眼鏡の竜沢さんが、もうこれでもかという裏返った声を出して硬直した。
その反応は正解だと思う、だって、ペットボトルの中身を振りかけ、頬を真っ赤にした猫村さんと、ジュースを顔から滴らせビンタしたポーズのままの私。
これがどんな状況なのか。誰だってまず理解に苦しむ。
「猫村さん……剣木さん……!?」
たじたじの状態でそれでも中に入り、扉を閉めこちらに近づいてくる竜沢さん。
「っ、うっ、え……ッ」
左頬を赤くさせた猫村さんが、そこで肩を上下に震わせ、泣き出す。
顔を伏せ、歯を食いしばって。
「んっ……ふっ、うううう……っ!」
そして、竜沢さんと私が声をかけようとすると、彼女はそのまま扉へ向かって、勢いよく外に飛び出していってしまった。
シーンと静まり返るバックヤード。
私も、体中を巡っていた熱がそこで一気に冷めた。
「た、大変……」
竜沢さんは大体のことを把握したらしく、エプロンのポケットから可愛らしいレースのハンカチを出して私の顔から肩からを慌てて拭いてくれた。
「着替え、はあるから。まずエプロン小鹿さんに出してもらって、ジュースだから髪洗わなきゃですよね、今はお客さんもいないですし、トリミング用のドライヤー使って……」
「竜沢さん、ごめんなさい」
「いっ、いえいえ! ちょっとなにがあったかは聞きづらいですけど、さっき二人のこと見ててヘンだなーとは思ってたんで」
「うん。私一人でできるから、竜沢さん、もし良かったら猫村さんの方見てもらえないかな」
「でも今は剣木さんが」
「いいから、大丈夫だから。先に手出しちゃったの私だし」
告げると、竜沢さんは最後まで心配そうな顔をして、バックヤードから出て行った。
一人、床や体を拭いて。ずっしりと体を椅子に預ける。もうため息を吐く気にもなれなかった。
なんでだろう。
なんでこんなことになってしまったんだろうか。
亀井戸さんも、鵺ヶ原さん、猫村さんも。発端は全部私だ。
私が忘れさえしなければ。こんなことにはならなかった。
嫌な思いをせずに済んだ。
正直、叫びたいくらいショックでもあった。
記憶が欠けて、唯一仕事場で強い支えとなってくれたはずの二人が、私を裏切っていただなんて。なにも知らず、二人にいいように動かされていたことにも激しい苛立ちを覚える。
けれど。
元をたどればそれは全部、私がこんなことにならなければ良かっただけのこと。
どうしようもない気持ちをさらに苦しめるのは、さっきの猫村さんの言葉。
――好きじゃない。
なにも言い返せなかった。
だって、間違ってなかったから。
そう。今の私は、亀井戸さんを本当の意味で好きでいるわけじゃない。
彼に抱いている気持ちはせいぜい、ご飯を食べに行く異性の友人ぐらいのものだ。
彼が私に抱いているであろう“好き”の気持ちとは重みが違って釣り合っていない、それは勿論あちらもわかっているはず。
だから、キスしようと言われたら。今は正直困る……気持ちがないから。それもきっと見抜かれている。
だけど、彼があれから、抱擁以上のスキンシップを私に求めてこないのは、もしかしたら猫村さんの言ったように前の私と違うから、という意味も含まれているのかもしれない。
彼女の言うことはあながち間違っていないのかもしれない。
私は、記憶のことだけを気にしているだけで、彼はきっと様々なところで、今の私と前の私を比べて落胆していることもあっただろう。
顔に出さず、残念に思っていた瞬間がきっといくつもあったはず。
そもそも。私は、本当に亀井戸さんを好きでいたのか。
どのくらい?
どんなふうに?
わからない。
考えれば考えるほど答えがみえなくなっていく。
――本当に好きだったら、忘れたりしない。
――そうだったとしても、とっくに思い出している。
根底で不安に思っていたことを正面から突きつけられて。私は、やはりそうなのかもしれないと思いかけた。
それを完全に自覚したら。今の私たちの関係はなんなのだろうと、この繋がりに意味はあるのかと疑問に思ってしまいそうだったから。
絶対に認めたくなかった。
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