第29話 釣られた。
「ここの公園を曲がったすぐのところですよ」
「ほんとうに行くのカレー屋ですか」
「えっ。そうだけど」
「もしなんかへんなことしようとしたら、防犯ブザー鳴らしますけど、いいですか」
「えっ。……いい、けど」
沈黙の後。私は悔し紛れにブザーを印籠のように見せつけて、交渉を受け入れることになった。
我ながらなに言っちゃったんだろうと、ちょっと後悔しそうだけど。家に帰って一人寂しく泣き寝入りよりかは……いいのだろうか。
「じゃあ、行こうか――」
なんて隣に立たれたその時、その人はふいに私の指先に触れ、――慌ててその手を引っ込めた。私もその咄嗟の行動にびっくりした。
「なっ、な――」
「あっ、ごめん……ごめん! つい!」
つ、つい!? なに、今の。手、……触ろうとしたの。
驚いて身を引いてると、童顔眼鏡は必死に謝ってくる。
「ごめん、ごめんね……いやごめんなさい、ほんとに、反射的に……」
その必死な様に、私はブザーを押すとかそういうんじゃなくて、なんでこの人が今そうしたのか、そしてこんなに謝っているのか。疑問に思って言葉が出てこなかった。
「うん……もう絶対にしないですから、離れて歩くから……」
寂しげにそう言って、前をゆっくり歩くその人の後ろを私も結局半信半疑でのろのろついて行き。五分後くらいにはほんとうに角を曲がってすぐ近くの、カレー屋さんに辿り着いた。
住宅街の隅にひっそりと建つ小さな煉瓦造りのお店。
赤い煙突に、暗闇に浮かぶオレンジ色の暖かな明かり。
カレーの匂いって強いなあ、角を曲がったらもう微かに香ってきた。
この香りが、看板代わりってことなのかな。すごくいい匂い。これだけで私の胃袋が早くも臨戦態勢に入ろうとする。
ライトアップされた扉の横には、黒板のボードが立てかけられており。
『ヒマル屋 本日のオススメメニュー【若鶏とオクラの包み焼きチーズカレー】【ヒマル屋特製 スタミナカレー、ターメリックライスorナン付き】、【夏バテ解消!夏野菜爆盛りカレー】ライス大盛り、特盛り無料です!』と、チョークで書いてある。
ヒマル、屋……。こっち方面あんまり来たことないけど、こんなお店あったんだ。
扉を開ければ濃厚なカレーの香りと一緒に、からんからんという鈴の音が出迎える。
「――いらっしゃいませ。二名様でしょうか。おタバコは吸われますか――はい、かしこまりました、あちらの奥の席へどうぞ」
外観で予想した通り。西洋のレトロな雰囲気が漂う内装で、ロングエプロンをかけたウエイターさんに通された私たちは指定された奥の席に着く。
店内には四組ほどの客、お店自体が狭いから、そんなに空いているようには見えないけれど、店内のゆったりとしたクラシックがそうさせているのか。夕飯時なのにどのテーブルも静かに談笑して、落ち着いた雰囲気に満ちている。
頭上にはくるくる回転するプロペラの空調機。天井から垂れ下がった程よい明るさのランプ。銀色のウォーターポット。壁にかけられた絵画。
あ、いいなあ……、こういうお店好き。
だけど目の前には童顔眼鏡。落ち着いていいのか、否か。
こんなふうにあまり親しくない人と食事をすることになるのは初めてで、やはり緊張してしまう。ノリでついてきてしまったけど……、ううん、とりあえず水飲もう。
グラスを両手で持ち、ちびちびと飲む私。
そんな落ち着かない様子の私を気にすることなくメニューを開いて眺める彼。
「なに食べる?」
聞かれて私もメニューに目を落とす。
おお……結構種類ある。お肉に、魚に、野菜に……トッピングの揚げ物。
『彩り野菜のフリッターカレー』。
『骨付きバターチキンカレー』。
『シーフードカレーオムライス 白身魚のフライ付き』。
『モッツァレラチーズと粗挽きフランクのカレードリア』。
どれもタイトルに捻りがあって、そそられる。
うわあ、これカレー好きには堪らないお店だなあ。
外の看板に書いてあったメニューも捨てがたいし。なにを食べようか。
なんて忙しく視線を泳がせていたら。
『エリンギと茄子の和風こんにゃくカレー』なんてものを発見した。
おっ、おおお。ビンゴって感じ。
私は普段からこんにゃくをカレーの具材として入れる人。知人には異色すぎるとよく言われるけれど、食べてみないとその良さはわからない。
ぷるぷるとした食感にスパイスと旨味を吸い込んだこんにゃくは、充分カレーの中で生きるのだ。だから私の中でカレーにこんにゃくは外せない。
それがまさかこんなところで私の気持ちをわかってくれるようなメニューに巡り会えるなんて。ちょっと感激した。
決まった。もうこれ一択以外考えられない。
「決まった?」
私の表情から読み取ったのか。童顔眼鏡はベルスターを鳴らしてウエイターさんを呼んだ。
「はい、お伺いいたします」
「和風こんにゃくカレーを一つ、ええと、並盛りで」
「辛さはどうなさいますか」
「辛口で」
やっぱりカレーはこうでなくては。
「僕は和牛ステーキカレーで」
メニューを指差し、私の次に注文する童顔眼鏡。
ステーキって……まじか。そんなのあるの。
「特盛りを一つ」
ととと、特盛り!?
え、食べられんのこの人。
さらっと頼んだ彼に私は目を丸くしてしまう。しかも。
「辛さはどうなさいますか」
「あ。甘口でお願いします」
「ブフッ――」
甘口かよ……! いきなりの変化球に吹き出す私。
「かしこまりました、少々お待ちくださいませ」とウエイターさんが去っていったあと、私は我慢できなくて声に出して笑ってしまった。
メニューを畳んで隅に置くその人は苦笑い。
「なにか、おかしかったかな」
いやだってだって、和牛ステーキで、特盛りで、それで甘口だよ。
なにこの上がって上がって、下がった感じ。悪いわけじゃないけどなんか面白かった。
「辛いの苦手なんですか」
「うん、かなり苦手で、そういうミツ……あ、店員さんは辛いの得意なんですね」
「店員さんじゃなくて……剣木でいいですよ、知ってましたよね……?」
「あ、じゃあ剣木さん。辛いの得意なんだ」
「ええ、まあ。特にカレーは辛くないと食べられないくらいで」
「そうなんだ、こんにゃくも好きなの?」
「いえ、カレーに入ってるこんにゃくが好きで、まさかこんなところでそれが食べられるとは思いませんでしたよ」
「そっか、よかったね」
それから亀井戸さんは、自分のことを少しだけ教えてくれた。
東京でIT系の仕事をしていること。庭付きの一軒家で現在家族四人と暮らしていること。そして、私より一個歳が上だということ。
これが一番驚きだった。
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