エルフの湯 (後)
リリンは脱衣所で着ているものを適当に脱ぎ捨てロッカーに押し込むと、浴室に踏み入れた。
マツノーユは不思議な空間だ。
店の入り口が、世界の彼方此方に通じているらしく、エルフだけではなく、人間、ドワーフなど多種多様な客が訪れている。
だが本日、この時間に限っては空いているようだ。
見慣れない鱗肌のひとが数人いるだけで、知り合いもいないようなので落ち着いて過ごせそうだった。
身体を洗い、湯に浸かったところで、はあと盛大な溜息がひとつ溢れる。
ようやく気分が少し落ち着いた。
「……何であんなこと言っちゃったんだろ」
今更になって後悔が押し寄せてくる。
彼の話を最後まで聞かず、癇癪を起こしてしまった。
喧嘩はこれまでに何度もしてきた。
いつもならどちらかが非を認め、謝り、仲直りすれば問題は解決した。
でも、幼馴染の少年は二度と、あの草原に顔を出さないかもしれない。
「このまま会えないのかな」
アルには話をしていなかったが、疫病の影響は、エルフ側にもあった。
『風見鶏の国』と直接取引していた、『忘却の森』が交易の無期中断を宣言した。
更に評議会では、大樹海そのものを再び封印するべきという意見が持ち上がっている。
結論はまだ出ていない。
だが疫病の広がり方によっては現実に十分なり得た。
そうなればアルとは本当に離れ離れになるだろう。
「……疫病なんてどうにかできるわけないじゃん。あーもういろいろ考えて気が滅入ってきた」
リリンは溜息をつき、湯船から出た。
そういえば若旦那が日替わりの湯があるってと言っていた。
試しに使ってみるのも悪くないだろう。
◆
「……わあ」
浴槽に浸かりながら、手で掬ってみる。
日替わりの湯は、不思議な湯だった。
ただの透き通った湯ではなく、まるで染めたように鮮やかな青色だ。
だが何より違うのは肌で感じる温度。
温かい。
けれども同時に冷たかった。
「何だろうこれ?」
「本日の日替わりの湯は、大草原の湯でございます」
検温をしに回ってきた番頭がそう声をかけてくる。
「大樹海のミントから抽出した精油と、大山脈から採取された岩塩を使用しており、まるで草原を走っているような爽やかな心地よさが体験できる湯になっております」
言われてみれば、香り立つのは馴染みのある匂いだ。
身近過ぎて気づくのが遅れたが、これは大樹海の殆どの場所に群生するペパーミントをすり潰したのと同じものだ。
「湯が冷たく感じるのはミントの効果ですか?」
「ええメントールという成分です。ストレスを和らげリラックスを促す効果もあり、悩みを抱えた方々に大変効果的です」
彼女は松の湯の従業員だ。
無口そうな人だったので、流暢な説明に少しだけ驚いた。
もしかしたら先ほどから溜息ばかりついていたのを見て、声をかけてくれたのだろうか。
「何故か汗がいつもよりも流れている気がします」
「ミントと岩塩の発汗作用ですね」
問題は何も解決していなかったが、少しだけ気持ちが楽になった気がする。
「ミントってこうやってお風呂に入れる使い方もあるんですね」
ミントは交易品のひとつとして扱われているので、その効能については詳しいつもりだった。
香茶ハーブティーは驚くほど疲れの取れるお茶として人間から重宝されているし、他にも焼き菓子に練りこんだり、食材に使用されることが多い。
だが精油を湯に入れるという発想は初めてだ。
「殺虫殺菌作用があるので外出時、精油を塗ったりするのもお勧めです」
「殺虫殺菌……って何ですか?」
「蚤とか蚊のような小さな害虫や、病気の原因を退治する作用ですね」
「成る程」
リリンはふと考える。
疫病は、大陸の東から西にかけて猛威を振るっている。だが未だ大樹海への影響は少ない。
その理由は何故だろう。
群生するペパーミントの恩恵という可能性はないか。
「もし疫病の予防に効果があるなら、疫病の薬にできないかな」
勿論、根拠のないただの憶測だ。
だが試してみて損はないアイデアだった。
◆
神殿の外に出ると、意外な人物が待っていた。
人間の少年――アルだ。
森のを駆けてきたばかりらしく肩で息をしている。
「ようやく……見つけた……」
階段を上りかけたところで立ち止まり、恨めしそうな顔でこちらを見上げている。
「ど、どうして?」
「最後まで話を聞かない奴がいるから森中探した」
エルフにとって森は不可侵の領域だ。
許可なく入り込んだことが発覚すれば、厳しい処罰を受ける事はアルも理解しているのに。
あまりにも無謀な行為だ。
「会うのを止めようって言った理由、説明させろよ」
「エ、エルフが疫病の原因だからなんでしょう」
折角、アルが会いにきてくれたのに何故、不貞腐れた物言いしかできないのか。
素直ではない自分の性格が恨めしかった。
「あのな、俺は根拠のない話を信じるつもりはないぞ」
「だったら――」
「でもこの噂は、爺さん連中も鵜呑みにしてるんだ」
「……」
爺さん連中というのは、アルの村の老人たちだ。
彼らを始め村の殆どがエルフを怖がり、未だ『蠱惑の森』と交流を持とうとしない。
数十年前まで、人間にとって大樹海は未知の領域だった。村の大人たちは寝物語にエルフを恐ろしい魔物のような存在だと聞かされ、育ったせいだ。
だから交易を取り仕切るのも余所から来た商人だけだ。
「事実がどうであれ、連中にとっちゃそれが真実だ。……で今、エルフと接触があるのは村のなかで誰だ?」
「アル一人だけ」
「ならその先は説明しなくてもわかるよな?」
よく分かる。
万が一、村に疫病が広がったらアルに疑いがかかるだろう。
例え、そうならずとも、村に不利益をもたらす可能性のある交流を続けるなら村での心証は、今以上に悪くなる。
最悪、『疫病の原因』として、村から追われるかもしれない。
「だからほとぼりが冷めるまで会うのは止めよう、って話だったんだ」
リリンは自分の子供じみた行動を心から恥じた。
「御免なさい……私、酷いこと言った」
「別にいいよ。誤解が解けたしさ。リリンの早合点はいつものことだ」
アルは笑って許してくれた。
「例え何があってっも、おれはおまえの友達を止めるつもりはないからな」
「……うん」
「ま。もし噂が消えないようなら、俺は村から出るつもりだし」
「えっ!?」
アルは事も無げにそう言った。
だが村を出るのは簡単なことではない。
それは今の生活を捨てると言うこと、違う場所で、新しく食べ眠る手段を得るということだ。
「……できるわけないじゃん」
「村の外に伝手があるんだ。村に来る交易商に知り合いがいてさ、弟子にしてもらう約束してる」
「アルは商人になりたいの?」
「そうだよ」
彼の将来の夢を初めて聞いた気がした。
そして叶える為に具体的な計画を持っている事に驚いた。
「だからさ、おまえはいつか何か売ってくれよ」
「何かって、なにを?」
「何でもいいよ。森のエルフとコネのあるやつなんてそうそういねーから、結構稼げると思うんだ」
数年前までリリンを見上げて、あどけない笑みを浮かべていた少年はもういない。
彼が逆転させていたのは背丈だけではなかった。
人間はなんて成長が早すぎるんだろう。
エルフは千年の時を生きる種族だ。
だから成人の儀はもっと先の話で、それまでは子供でいることが許される。
だがリリンは初めて早く大人になりたい。
彼に負けたくない、置いて行かれたくない、という焦燥を感じていた。
「じゃあ私、薬を売る」
「へえ、どんな?」
「内緒だよ」
「何だよ。教えろよ」
「つーん。アルにはまだ教えない」
リリンがそっぽを向いて舌を出して見せると、彼はまあ期待しないで待ってるよと笑った。
見栄を張って嘘をついていると思っているのだろう。
だがリリンは至って真剣だ。
実現できるかは分からない。
だが考えはあるのだ。
もしペパーミントで作った薬が完成すれば、きっと凄いことになるだろう。
大陸を覆いつつある疫病を解決できるのだ。
上手くいけばエルフと人間は今まで以上に仲良くできるかもしれない。
そうなれば自分とアルはもっと堂々と会うことができるはずだった。
後書き編集
エルフの湯 了
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます