猟師の湯 (前)

(御入浴における注意事項)

・当銭湯には、魔術師、エルフ、ドワーフなど様々なお客様が来店します。

 文化や生活習慣の違いによるトラブルがあっても、お湯に流しましょう。

・入浴マナーを守りましょう。番頭さんを怒らせると大変なことになります。

・当銭湯は刺青・タトゥの方でも気兼ねなく御入浴できます。



『白狼』。

 大陸の北端にあり、大山脈によって他の領域から断絶された大地。

 一年の殆どが雪で覆われているその場所にも、かつて大帝時代には、囚人を送り込み土地を開拓する計画がなされていた。

 だが「彼の地に放り出すのはあまりに残酷だ」という理由で、取り止めになった程、厳しい環境だと言われている。


 無論、先住民としてそこに住まう者も少数だがいた。『白狼』の民である。

 彼らは土地柄、交易などはほとんど行わず、独自の風習文化を形成していた。



「大変なことになってしまった……」


 ハルアは遥か遠くの地上を見上げ、途方に暮れていた。


 彼女は『白狼』の村に住む猟師の娘だ。

 まだ猟人としては半人前。

 普段であれば囲炉裏の前で小さな妹たちの面倒を見て、父の帰りを待つ身だったが、その日は違っていた。


 特別な狩りの最中に、雪の割れ目に落ちたのだ。

 ようやく『黒毛』を追いつめた矢先、天候が変わり吹雪になり、愛狼とはぐれた挙句、割れ目に気づけず踏み外したのである。


 状況は絶望的だ。

 目の前にそそり立つのは巨大な氷の壁。

 指を乗せる凹凸すらなく、とてもではないがこれは登攀できるような高さではない。


 何より落ちた底が雪渓だった。

 今、冷たい流水に腰元まで浸かり、体温を奪われ続けていた。


 寒い。

 愛狼フェンリルの毛並みが恋しい。

 祖母の形見の木片の護符を握りしめ、寒さに堪えた。


「……どうしよう」


 ハルアは凍えながら、村の事を考える。


 村にはもう自分以外に狩りをできる者はいない。

 黒毛に襲われ、父を含めた大人五人が怪我を負い、三頭もの橇引き狼が殺されたせいだ。


 黒毛は恐ろしい熊の魔物だ。

 人里に降りて悪さを働くだけではなく、疫病を広める。見つけたら早急に殺さなくてはいけない。 

 ここでハルアが死ねば、村や小さな妹を誰が守る者はいなくなるだろう。


「……よし」


 気持ちを切り替え、改めて辺りを見回した。


 ここは元々滝壺だった場所に違いない。

『白狼』の大地から、春という季節が失われる以前、この辺りには神様の住む滝壺があったと昔話で聞いたことがある。


 暫くして凍りついた滝に横穴を見つける。

 どこに続いているのか分からないが、運が良ければ地上に出られるかもしれない。


 ハルアは祖母の形見の護符を握りしめると、先に進むことにした。



「……?」


 おかしい。

 今まで暗い洞窟のなかにいたはずだ。

 奥で祭壇みたいなものがあり、近づくと床に魔法陣のようなものが刻まれていたのを覚えている。

 それがいつの間にか明るい場所にいた。


 目の前にあるのは、古ぼけた紺色の大きな暖簾だ。

 白抜きで、白狼国のものではない文字。『男』『人界世異』『女』と書かれている。


「……」


 潜り抜けると見回すと屋内だった。

 天井の明かりが、陽の光のように明るい。

 隙間どころかむらのない漆喰の壁と、どんなに重たい雪も防げそうな丈夫そうな柱がある。


 奥には部屋全体を見渡せる程、背の高い台。

 そこに座る人物がいた。


「いらっしゃい。松の湯へようこそ」


 台に座る若者が声とかけてくる。

 蒼くない瞳や、僅かに日に焼けた肌、身に纏っている藍染めの薄着から『白狼』の民ではないと窺えた。異国人らしい。

「いらっしゃいませ」と声をかけられた以上、ここは何かの店で、店主なのだろう。 


「あの……ここは一体?」

「松の湯という銭湯だよ」


 マツノーユ。セントウ。

 聞きなれない言葉だ。

 店の周りを見る限り、商品も見当たらず何を売っているのかも不明だ。


 何だか怪しい。

 目の前にいるのは、齢を得て妖術を身に着けた化け狐かもしれない。


 ハルアが警戒するように身構えていると、店主は困ったように頭をかいた後、口を開いた。


「おれは若旦那って言うんだ」


 ワカダンナ。変な名前だ。

 やはり『白狼』の民ではないようだ。


「ええとお嬢ちゃん、その恰好見ると『白狼』から来ただろ?」

「……」

「凍えてるところをたまたま、ここにやって来た? 違う?」


 ハルアは頷いて見せる。


「ここは身体を洗ったり、湯につかって温まったりする店だ。良かったら入ってかないか?」

「じゃあ、ひとつ下さい」


 長い時間雪渓に晒され、身体は凍えきっていた。

 この際、嘘でも何でもいいから温まりたい。


「えーと、いや銭湯は売り物ではないんだ」

「?」


 何かおかしなことを言ったのだろうか。

 何故か店主は困った顔で、頭をかいていた。



「ではこちらへ」


 無表情な女の人が現れ、先導してくれる。


 ハルアは案内されるがまま訪れたのはやってきたのは店の奥。

『湯女』という文字の暖簾の向こうには、四角い箱が並ぶ部屋があった。

 そこで濡れている衣服を脱げと言われる。


 替えを用意してくれるのかと思い言う通りに従うと、何故か手渡されたのは手拭い一枚だけ。

 そして裸のまま、固く滑らかな石細工の床でできた広間に放り出されてしまう。


「ではごゆっくり」

「えっと……どうなっているの?」


 ちょっと待ってよ。状況が全く呑み込めない。

 震えの止まらない身体をどうにかしたい。部屋は凍え死ぬような寒さではなかったが、とても暖まれる状況ではない。


 囲炉裏がないかと辺りを見回した。目についたのは大きな石細工の囲いだ。

 覗き込んでみるとなみなみと水が蓄えられていた。


「こんな水をどうするの?」


 飲み水だろうか。それにしては多すぎる。

 今の時期は、村の井戸水も完全に凍りつく。切り出した氷を溶かすの手間がかかるので、水は必要最低限しか蓄えないのが常識だ。


「水ではないから触ってみるといいわ」


 誰かがそう声をかけてきた。


 ハルアは言われた通り囲いのなかに浸してみる。

 熱い。悴んでいた手がしびれた。確かにそれは水ではなく湯だ。


「こんな大量の湯で、どんな料理を作るんだろ」

「そんなわけないじゃない。面白い子」


 くすくすと笑う声に振り返ると、人がいる。


 若い女だ。

 自分同様、裸。若木のように細く、新雪のような肌を惜しげもなく晒している。

 手拭いで纏めた長い髪が黄金色なので、彼女もまた異国人だと分かった。


「ねえ、その腕の刺青……あなた『白狼』の出身でしょ?」


 女は興味深そうな顔つきで、ハルアにそう問いかけてきた。

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