蟲の民セリムの激昂9

 風がかなり冷たくなってきた。間も無く夕日が完全に落ちるだろう。セリムの頬を柔らかな優しい風が通り過ぎていった。話せと言われても何から話して良いのか分からずにいると、ティダが誘導してくれた。大蛇の間で何を考えていたのか、その後どうしていたのか。せきを切ったようにセリムの口から言葉があふれた。


 蟲がどう生まれ、何をされたのかもいつの間にか話していた。全ては知らない。むしろ断片しか知らない。


 人など死ね、そう出かかってセリムは飲み込んだ。自らの内側に潜む狂気の恐ろしさに体が震えた。


「そこまでのぞいてよくもまあ無事だな。俺はちらりとのぞいただけで降参した。船で中蟲と相対した時嘔吐しただろう?あれだ。しかし見世物として造り、不要分は虐殺して金属の代用。おまけに殺戮さつりく兵器に転化か。人とはやりたい放題だな。俺がお前ならとっくに先頭立って人里めっしてる」


 セリムは顔を横に振って俯いた。


「僕もほとんど知らない。でも蟲達の人への憎悪の本能を理解するには十分だ。裏切られ続けて、傷つけられ続けて、それでも蟲達は忘れてない。命を生んだのが人だと、道具ではなく命だと肯定してくれて解放したのが人だと……僕は僕が恐ろしい……」


 ティダがまたセリムの髪をぐしゃぐしゃにした。抑えていた感情が込み上げてくる。


 熱いよセリム。


 何故人など救わねばならない。


 おこりんぼは嫌だよ。


 許せ。


 許せ。


--なんという痛みに虚無。何も得られない。損しかしていない


 違うと教えたい。


 熱いよセリム。


 ティダの手がまたセリムに伸びてきた。思わず払いそうになった。嫌な臭いがする人ではない。獣?


「どんどん語れ。口にしなくとも俺なら聞ける。蟲とは健気な生物だな。しかし二千年かけて人と折り合いつけた。巣にこもり人とは断絶。お前のように気に入った人間とは交流する。他者の領域を踏み荒すならこんな大掛かりな真似をするな。脅迫しようがそこらのおろかな人なんぞに簡単に伝わるか。憎悪に飲まれたのが随分と治まったのは、ラステルやシッダルタとどうしたいのか話しをしたからか。中蟲達を巣に帰してやれ。お前の為にここにいる。本当はもう許していて帰りたいらしいからな。人の為にではない、自らと幼きの為に矜持守るためだ。人なんぞ相手にすれば誇りがけがれる」


 セリムが顔を上げるとティダが中蟲の方を顎で示した。どういうことだろうか?


「俺と中蟲の話は聞こえてなかったのか?蟲の王レークスか。あいつらは理不尽に暴れ出し他者の領域を踏み\にじる化物ではない。お前がもう当事者を裁いた。これ以上は過剰。親に守られ自らを尊敬する子のまなこを汚して、新たな憎悪を増やすよりも自身の虚無を選択した。アシタバの巣は俺の庇護下にしたのにグスタフに気づかなかった俺の責任だ」


 セリムは首を横に振った。それから中蟲を見つめ続けた。憎しみで殺すよりも許して刺されろ。刺されても許す理由は可愛い子の為。


「二千年も許したのは人への恩だけじゃねえってことだ。ヴァナルガンド、例えばねずみに噛まれたらどうなる?」


 突然何の話だ?


「どうなる?とりあえず痛いだろう」


 何か意味があるのかと想像してみた。噛まれるなら足か?


「俺は噛まれたりしないが、まあ想像してみよう。腕なら思わず振り払う。足なら思わず踏み潰そうとする。ねずみは逃げるだろうな。痛みで腹が立って俺はねずみを駆除しようとするだろう。俺なら一族郎党駆除しようとする」


 ティダならやりかねない。というかティダでなくてもやる。田畑を荒らし、倉庫の備蓄食料を食い荒らすねずみ退治には骨が折れる。そう思い至ってセリムは寒気がした。無駄な殺生は好まないが、生きるためならば躊躇ためらっても殺しを選ぶ。そういう悪しき心根が根底にある。


「ある程度殺してから俺はこう思うだろう。ねずみといっても殺すのは気分が良いものでもない。死骸しがいも汚いし、やり過ぎると群れをなしておそってくるかもしれない。痛くて我を忘れたが殺さなくても寄り付かせない方法は沢山ある。ねずみは単細胞の阿呆。別に直接手を下さなくても良い。悪しき心根ではない。生存競争は自然の摂理。弱ければ死ぬ。嫌なら力を、弱きをも守りたいなら更に力を得るしかない。まあ、食物連鎖もあるし難しいところだな」


 ティダが肩を揺らした。


「そのねずみが僕達人間か?生存競争……。人も蟲も殺し合わなくても……ああ、だから別々の領域で生きてきた……」


 セリムは愕然がくぜんとした。蟲がそこまで人を見下している可能性を想像もしてなかった。しかし、これはティダの推測だ。けれども妙に腑に落ちる。特に、痛くて我を忘れたが。その点。許したのではない。単に我に返ってどうでもよくなった。妙に納得してしまう。


 独善で今の共存を破壊しようとしているのはセリムだ。憎しみにかられて均衡を壊そうとしている。


「ふむ。止めるつもりはなさそうだな。アシタカと同じ。人など下等生物。蟲と人との軋轢あつれき埋めたいならまずはそこからだ。励むのはお前じゃねえ。蟲達はお前が自分達以上に怒り狂ったから冷静になった。するともう下等生物なんぞ相手にするかとあきらめた。当事者は死んだし、グスタフもヴァナルガンドお前が裁いた。やり過ぎると人が凶暴になると知っている。しかしヴァナルガンド、お前が人を裁くというから中蟲は境界線を形成するのを続けている。中蟲だけにして何かあると困るので親は見守っている。全部お前が人を脅迫したいからだ。無意識か?蟲の王レークスも困っているようだが」


 セリムにはいまいち飲み込めない。下等生物のセリムに義理立てするような真似。セリムが人を脅迫したい?根底にそういう気持ちがあるのを蟲達は見抜いているということだ。


「その顔。無意識だな。ヴァナルガンド、お前は下等生物ではない。大蜂蟲アピスの子の王子とまで呼ばれているぞ。どうやってそんなに懐深く入ったんだ。まあ俺は蟲の気持ちが分かるがな。蟲の王レークスが俺やアシタカに祈りを捧げよと言ったのは人に特別な人間がいると示す為だろう。怒り狂う蟲を巣に帰した人間。まあ、重宝されるだろう。特にシュナ。天に愛され、蟲をも鎮める美しく慈悲深い姫。大国の御曹司と敵国ベルセルグ皇国皇子まで懐柔した。人の王は特別だとよ。殺す人間こそ絶滅させるってさ。人の王を守りつつ、生きるに値しない殺す人間をあぶり出す」


 大蜂蟲アピスの子の王子?何だそれ。大蜂蟲アピスに聞いてみると「セリムが勝手に作った地位」と返事があった。セリムが勝手に作った地位?


「それは聞いた。人の王さえ殺そうとする人間は、下等中の下等。害なす存在。嫌な臭いがする人は全員いつか死ねばいい。絶対に絶滅ぜつめつさせる。淘汰とうたを繰り返せば、人の王だけが残る。それが蟲達の考えだ」


「そんなの普段は忘れてる。怒ると思い出すが喉元過ぎれば熱さ忘れるって奴だ。長年かけて人が踏み入れるのが難しい、毒を味方につけて安全な住処を手に入れた。時折人に荒らされるが、逆襲ぎゃくしゅうする力もある。脅せばしばらく巣に近寄らないのも知っている。お前は蟲よりも蟲の根底に触れてるらしい。だからそんなに腹が立つんだ。それにお前は蟲が心底好きだからもっと人と仲良くさせたいのだろう。お前の個人的な価値観と我儘わがままだ」


 個人的な価値観と我儘わがまま。セリムは言葉に詰まった。ティダがまた髪をぐしゃぐしゃにした。


「そんな顔するな。シッダルタのようにお前に賛同する者もいる。大蜂蟲アピスの子のように人をかなり好ましく思う蟲もいる。好きに調べ、蟲や人に教え、本でも何でも書け。自由に好きに生きろ。より良くしようというお前の生き様を止める権利は誰にもない。手伝って欲しいなら手伝ってやる。しかし心に留めておけ。誤解も軋轢あつれきも争いも消えない。お前のおかげで減るかもしれんし増えるかもしれん。答えはお前が死んでから出る。お前の意志を継いだ奴が答えを見る。途中で捻じ曲がったりお前よりも上が現れるかもしれん。誰にも分からない。辿り着く先は地獄かもな。まあ、とりあえずこんな大々的なのはやめておけ。お前やラステル、シッダルタを追い詰める。もっと計画を立てて遠くを見据えろ」


 辿り着く先は地獄かもな。そう言った時時、ティダがセリムの胸に拳を当てた。それからもう一度「手伝って欲しいなら手伝ってやる」そう言ってくれた。そんな言葉がティダから出るなんて思ってもいなかった。胸が熱い。


「アンリが人と大狼が共に暮らすという壮大な野望を口にした。人を見下す大狼である王狼ヴィトニルがこの地でシュナを守護すると言う。王狼ヴィトニルは大狼の中でも忍耐強く紳士だから、騎士団にもお前達にも大狼を誤解されている。大狼は人なんぞおろかすぎるとすぐ殺す。蚊ぐらいにしか思ってない。蟲の比じゃないぞ。それなのにこの地にシュナを中心とした大狼と人の里が出来るかもしれん。俺が妻の願いは全力で叶えるからだ。俺は蟲が本能的に嫌だが矜持は気に入っている。なんか知らんが蛇一族もいるし、このドメキア王国を異種生物の国にするか。丁度、奇跡的なことが多く起きて国民を懐柔しやすい」


 セリムはポカンと口を開いた。まず大狼の生態。人を蚊と同じように思っている。そしてティダから「ドメキア王国を異種生物の国にするか」なんて発言が出るとは思っていなかった。


「ティダ、君はベルセルグ皇国へ返り咲くのだろう?」


 ティダが首を横に振った。


「元々はな。立ち回り下手で追い出されたからとりあえずシュナの軍を使おうと思ってたんだが、シュナも騎士団も気に入りすぎた。そこにお前だ。言っただろう?俺は優劣つける。ベルセルグ皇国もグルド帝国も劇薬至宝が大陸和平進めさせてどうにかする。あいつを常に蹴り上げる。悔しいが俺より上だ。働かせて手柄だけ横取りしてやる。俺が死ぬまでにどうにかなればいいんだよ。故郷が大陸を火の海にするという大恥止めるのと、親父が残したから奴隷層撤廃だけは必ず成す。あの国にはテュールを置いてきたからあいつも何とかするだろう。シッダルタが自由になったし、国にはもう個人として救済したい奴はいない。テュールは国を背負う者。国と共に生き、国と共に滅んでもらう。それが皇族だ」


 横殴りにされた気分だった。故郷よりもセリムが上だと言われた。これはそういう言葉だ。それからシッダルタがそこまでティダの中で大切だという事実にも驚いた。言われてみればそうだ。ベルセルグ皇国の奴隷兵の中でも一人だけ特別扱い。それにシッダルタがティダから離れると言ったときの、ティダのあまりにも辛そうだった様子。


「あの、いや、ティダ。僕はこの件が終わったら崖の国に帰ろうかと。大陸和平は君のいう通りアシタカがいる。これからが本番だろう?父上や兄上を支えないと。ドメキア王国の革命でも僕は特に役立たずだったし、むしろシュナ姫を追い詰めたりと足を引っ張った。東のホルフル蟲森には人が住んでいる。アシタバ蟲森とは違って。だからまずその歴史とか、蟲森の民と蟲達の仲立ちをしようと。それから自国とホルフル蟲森との関係を良くする。生活も良くなるかもしれない。この地にはアシタカやシュナ姫がいるし、蟲達はそれこそシュナ姫をとても信頼している。ルイ国王と話をして争わないようにすれば僕はこの地には不必要かと……」


 言いながらやはり不思議だった。ティダにそこまで気に入られた理由が思いつかない。大狼の仲間入りさせてもらえて、嬉しさのあまりに考えてこなかった。それにしてもティダとも語り合い足りなかった。


「ならウールヴとヘズナルと子を連れて崖の国に行くか。ここより崖の国の方が大狼と生きそうな気がするしな。別の価値観と文明というのはお前にも有益だろう。崖というのが環境的にも合っている。それに蛇一族なんぞ出てきて、蜘蛛も似たような奴な気がする。お前に付き合えば蜘蛛も探れそうだ。本山にはヘジンがいる。俺が好むのは矜持。そして俺はこの世の全てを掌に乗せる男だ。俺より上がいた。劇薬至宝とお前だヴァナルガンド。アシタカは仕方ないとして俺は弟分より劣ることが許せねえ。本能が嫌がる蟲だろうが、犬猫だろうがそれこそねずみだろうが頓着とんちゃくしないことにする。俺は器小さく優劣つけてすぐ捨てる。故に駒を選んで作ってばらく。駒を増やして荷が減ったし、優先したい弟分を手伝うというだけだ。世界は広く生きるとは愉快ゆかいだな」


 自らが頂点に登りたいとはつゆほども考えていなそうだ。こんな男だったのか?まだ全然知らない。そうだ、一月程の付き合いだ。お互いのことを理解し合っていない。なのにティダは全面的にセリムを信頼してくれているように感じる。


 あまりにも衝撃的でセリムは瞬きを繰り返した。


「待ってくれティダ。僕が弟分?それに崖の国が大狼と生きそう?待て、待て、ベルセルグ皇国はどうする?いや、さっき言ってたな。アシタカに任せる?アシタカだけでは大変だ。君は絶対に必要だ。蜘蛛?蜘蛛とは何だ?ティダより僕が上?」


「アシタカは俺の有能な大駒、それも愛娘の純情ごと奪っていったじゃねえか。本当に最悪な男だ。大国に大勢の支援者。特にあの狸ジジイのヌーフ。この国も増えた。崖の国も支援するんだろう?多分蟲の王レークスもくっついてる。俺が蛇も加えてやる。俺も肩書きやら何やら必要なら表に出る。小国ベルセルグ皇国はこんなのに睨まれてどうやって暴れるんだよ。グルド帝国もだな。蟲を操る人形人間プーパの出来損ないなんぞ蟲の王レークスがいれば無意味。律儀に先に手を出されてから動いたみたいだが、その件はお前がよくよく蟲の王レークスと話せ。蜘蛛と本山の話は面倒だからまたそのうち話す」


 ティダが思いっきり舌打ちをした。しかも三回。相当アシタカを認めていると伝わってくる。


「アシタカをそんなに認めているとは知らなかった。言われてみればそうだな。アシタカには支援者が大勢いる。大変だがきっと大丈夫だ。ティダ、聞きたいことが山程ある」


 ティダが立ち上がってセリムに腕を伸ばした。セリムが手を伸ばす前にティダに手首を掴まれて立たされた。


大蛇蟲の王バジリスコス小蛇蟲の王ココトリスよ、聞いていた通りだ。このティダとヴァナルガンドは人だろうが蟲だろうが、蛇だろうが矜持あれば受け入れる。ドメキア王国新国王ルイも到着するので話があれば仲立ちしよう。会談はもうしばらく待って欲しい。このティダは弟分ヴァナルガンドが最優先だ〉


 辺りはすっかり暗くなっていた。


〈しばし待つ。我等は人よりも長寿で気が長い。そして会話の内容も我等に有意義也。そのまま続けてくれて構わない〉


 ティダが探るような視線を二匹の蛇王に向けた。しばらくしてからティダがセリムの方に視線を戻した。


「今夜は天気が良く月が美しい。酒を飲んで将棋を指そうではないか。俺もお前も互いのことを大して知らんとよくよく分かっただろう?対個人の人同士でこれだ。どれだけ大きな野望抱いたのか理解出来るな。命短かし、しかしそれなりには人生長い。焦るな。俺が酒と女で遊び呆けてた年によくもまあ立派なもんだ。俺の好き嫌いは本能だ。アンリもヴァナルガンドも俺が本能で選んだ。何をしようが許すと言っただろう?パズー達がお前に何の話をするか知らんがそれが終わって、蛇と俺の会談が終わったら帰るぞ。蟲は解散させろ。振り回したこともびておけ」


 セリムは振り返って中蟲達に向き合った。


 若草色の瞳をしている。


〈すまない。僕が自分勝手だったのだろう?ティダと何を話した?〉


 返事が無い。


〈セリムがおこりんぼ止めた。中蟲も止めた。ヘトムが遊んでくれたからだ〉


〈アピスの子はまた偉い子。アングイスとセルペンスの子も偉い子。またおこりんぼ止めた〉


〈中蟲はセリムとお話ししない。ヘトムが邪魔してる〉


 夕日が沈みもう夜に変わっている。


〈やっと輪への干渉終わったか。まさか大狼人間と話すだけで直るとは、やはり奇妙な生物だな。大狼人間もこれ程干渉してくるとは奇天烈也。まあ助かった。セリムよ大狼人間から会話の術をもっと学んでくれ。姫と古きテルムの子にも学ばせろ〉


 蟲の王レークスの声がした。見渡しても暗くて分からなかった。夜空の星よりも光を放つ蟲達の緑色の瞳の灯り。


〈輪への干渉?会話の術?どういうことです?〉


〈いつか人なのに我が座を奪うかもな。話したいが忙しい。ホルフルの民に呼ばれている。時間が出来たら話そう〉


 セリムはティダの顔を見た。


「お前と中蟲の扉と道がぐちゃぐちゃだからじ切った。案外上手くいくもんだな。伝心術を無意識に使いこなすのは結構だがお前は干渉が強過ぎる。やりたい放題だな。蟲の意識の構造が全然分からねえから、ある程度分析したら教えてやるよ。それまで大蜂蟲アピスの中蟲とは途絶だ〉


 言われている意味が全く分からない。ティダがセリムから顔をズラした。


「来たぞ」


 小さな大地を駆ける音が近づいてくる。その音よりも全然近くに王狼ヴィトニル誠狼ウールヴの姿が見えた。あっという間にセリム達の前まで駆けてきて止まった。王狼ヴィトニルの背中にゼロースに横抱きにされてアンリが乗っている。あまり具合が良くなさそうだ。首に布を当てている。誠狼ウールヴの背にはパズーとルイ。


月狼スコールめ、こんなに気配をばらいてまだまだ修行が足りんな。して、お前達まず言い訳を聞こう」


 静かで穏やかだったティダがいきなり殺気放った。アンリ以外をにらみつけた。


「このゼロース。油断して我が王の奥方様に蛇が噛みつくのを見逃してしまいました」


「嘘よ。蛇と話して噛んでもらったの。ヴィトニルさんとウールヴさんはその場にいなかった。それに問題ないわ。蛇達は治療方法を教えてくれたわ。なのでこの通り元気よ」


 アンリが下ろしてと言ってゼロースの腕から飛び降りた。ティダは素早かった。アンリが着地するのをすくうように横抱きにした。ティダがアンリの首の布を奪った。薄暗いがかなり腫れているのは分かる。


「ふむ。嘘臭いが君がそう言うのなら何もかも許そう。しかしこの首、ひどいな。手加減して地面に叩きつけるではなく、角くらい折ってやれば良かった」


 アンリが思いっきり顔をしかめた。


「何の話?まさか、あの大きな蛇と争ったの?」


「少々状況が分からないので力の差を見せつけておいた。俺のものに手を出すとどうなるのか知っておいてもらわないとな」


 心配そうなアンリに対してティダが思いっきり自慢げな笑みを投げた。それからキスしそうなのをアンリに手で止められた。


「止めて。慎みを持ってって頼んだでしょう?私のそういう顔を見られたい訳?それから危ないこともしないで」


 ティダが大きくため息を吐いた。


「仕方ない。後でにする。危ないことをしないで?俺は常に最善を尽くす。この首、お互い様だろう。何があったか後でゆっくり聞かせてもらおう。まだ少々忙しくてな。蛇に噛まれた、死ぬかもなどと聞いて心臓凍るかと思った。言っただろう?地獄だってな」


 ティダが悲しそうに眉毛を下げてからそっとアンリの頬にキスした。アンリはそれは止めないで受け入れた。アンリがティダの首に手を回してキツく抱きついた。


「おいパズー。あとルイ。ヴァナルガンドと話があるから来たんだろう?予定より早いのはやる気があるということだな。とっとと降りて話せ。ウールヴの我慢が限界になる。ん?おい誰がパズーなんかを招いた。こんなのすぐ死ぬぞ」


 誠狼ウールヴがパズーとルイを振り落とした。


〈アンリエッタが何でやられたのか、治るのか知るのに月狼スコールが招いた。フェンリスの妻アンリエッタを死なせたら万死に値するから恥だが招いた英断。なので一時的なものだ。その通り。人なんぞ乗せたくない。フェンリス、蛇と抗争か?〉


 ようやく追いついた月狼スコールをティダが見つめた。


月狼スコールよもう少し閉ざすのを上手くなれ。しかし何があったか了解した。値千金だな。おいヴァナルガンド、スコールはお前の背中を見習うとよ。スコールが納得するまで直下だ。立派な大狼に育ててやれ。ラステルも相当好きらしい。スコール、話は後でだ。優先ってものがある。まずパズーとルイだ〉


 月狼スコールがセリムの体にピタリと寄り添った。


「スコール君。何だか分からないがとても光栄だ。それからラステルもとても君が好きだ。素晴らしいといつも褒めている」


 船の上でラステルが月狼スコールをブラッシングしていた時の仲が良さそうな光景を思い出した。セリムにはさせてくれなかった。月狼スコールはセリムではなくラステルを尊敬しているのかもしれない。それでも嬉しくてならない。


「おいセリム!目の前で大狼から落下した奴を無視するな!最低だぞ!」


 起き上がったパズーがセリムの前に仁王立ちした。


「どう見ても平気そうな大人の男にそこまで過保護にはしない」


 パズーが苛立っているので、セリムもつい反撃してしまった。


「何だよ!お前のせいで俺は大変だったんだぞ!物凄く心配した。アシタカが蟲の為にとてつもなく怒って悲しんでいるからって言うからだ。蛇には噛まれて蛇の子とか訳が分からないのになるし、大狼に招かれてバカにされた。大狼になんてなりたくない!ウールヴに十年も蹴り上げられることになったんだぞ!心配してるのに蛇はお前が蛇達と遊んでるっていうんだ。皆が心配して混乱してるのに何やってるんだよ!それに蟲と仲良くしろ、嫌うな?蟲は人が嫌いなんだろう?お前やラステル、あと俺?そのくらいしか好きじゃない奴に強要するな。おまけに人を脅迫するな!どうせ蟲に人を脅すように頼んだんだろう?言いくるめて!」


 どうせ蟲に人を脅すように頼んだんだろう?セリムは一歩パズーに近寄った。


「何だって⁈僕はそんなこと頼んでない!それに人を好きになれなんて強要をするつもりはない!双方歩み寄れという話だ!大狼になりたくない?こんな名誉なことないじゃないか。パズー、君はおかしい。蛇の子達と遊んでいたのも別に楽しくて遊んでいたからじゃない。いや、楽しかったけれど外交の一環だ」


 パズーがセリムに一歩近寄って見下ろしてきた。幼い頃からずっと背丈は敵わない。


「おかしいのはセリムだ!犬猫は分かる。小動物や鳥やイルカも分かる。赤鹿や馬も分かる。草食動物はまあ理解する。蟲も草食なら理解出来ないけど納得する。ラステルもいるし。でも、熊とかさめとかシャチは意味不明。大狼なんてもっと訳が分からない!蛇もだ!何だよあの巨大蛇!何でお前は肉食獣に食われないんだよ!昔からずっと変だった。歩み寄れ?なら何で脅迫してるんだよ!お前がいないとダメな関係に他人を巻き込むな!お前が死んだ後はどうするんだよ!しかも誤解が増えてお前が殺されたりしたら大変なことになるぞ!殺されかけてもだ!お前を好きな生物が怒り狂うね!」


 パズーがかなり苛立っているので、セリムは逆に怒りが冷えていった。とても心配されていると伝わってくる。パズーはいつも心配し過ぎると怒る。ぶつかって来てくれる。


「蟲も大狼も蛇も語り合える。僕だけじゃない。だから僕がいないと人と歩み寄れないような関係じゃない。僕が生物に好かれるのは母上譲りだと父上が言っていた。だからきっと姉上もそうだ。ラステルやシッダルタ、それにティダも僕を手伝ってくれると言ってくれた。殺されたっていいんだ、僕は止めない。僕はこの美しい世界のあらゆる命と共に生きるんだ。僕だけじゃないように色々残すんだ。僕が励めば鮮やかな未来が現れる。きっと。もう一人じゃない!」


 ティダがパズーとセリムの肩を同時に掴んだ。気配がなかったので思わず避けるということがなかった。アンリはゼロースの腕に戻っている。


「パズー、ヴァナルガンドはもう脅迫を止めた。あの蟲の目の色を見ろ。ちょっと怒りで分別無くしただけだ。蟲の憎悪は深く激しい。ちょっと飲まれたようだが俺でも耐えられないのにこいつは耐えた。破壊神だと分かってて突き進むと大きな野望掲げる友を心配だという理由だけで止めるな。ヴァナルガンド、励んでも無理なこともある。もう一人じゃない?ここまで理解してくれているパズーなら嫌々ながらも色々付き合ってくれてたんじゃないか?」


 セリムはそうだと首を縦に振った。色々思い出すと泣きそうになった。涙腺が緩んでいる。


「ああ。そうだティダ。パスーはいつも一度は僕に付き合ってくれた。嫌だと知っていたけど、嬉しくていつも付き合わせた。他の友はそこまで付き合ってくれない。パスーだけだったから。悪いと思ってる。もっと調べたいし語りたい。一人じゃ足りない。でも誰も居なかった。そうしたら蟲森にラステルがいた。今度はシッダルタ。それにティダも……。それに昔から僕みたいな人はいた。僕は変じゃなかった。崖の国が小さかっただけだ……。でもパスーに対しては僕が悪い……」


 パスーへの仕打ちは単なる我儘わがままだ。


「何だよ!いつもそうだ。その顔にその態度。だから嫌いになれないんだよ。本当だよ、世界は広過ぎる。何だよ蟲は喋るし、大狼も蛇も話す。そんなの知らなかった。怖いけど正直楽しいね。それにこの光景。ノアグレス平野の七色の光も、空から海産物が降ってきたのも、この国に赤い雪が舞い降りたのもそんなの普通は見られない。ましてや理由なんて知れない。嫌な気分の何百倍も良い気分だよ。付き合うのはそういう理由だ。あと心配だから。やりたい放題のトラブルメーカーは無意識だから直せって言っても無駄だと知ってる。でも言う。心配だからだ。勝手に遠くに行くからだ。覚えておけ大馬鹿野郎」


 セリムはパスーの罵声に目を丸めた。やはり幼馴染にして大親友。飛びつきそうになったが我慢した。


「パスー!なら君も僕の国で一緒に頑張ってくれるかい?」


 パスーが顔をしかめた。


「僕の国?」


「蟲の民の国だ。ラステルとシッダルタと僕の三人。僕は一応国王。ラステルとシッダルタが言ってくれた。人も蟲も、他の命も守る国。僕は蟲だけではなく大狼と蛇とも話せる。色々な文明と共存する術を残すんだよ。思考の差を埋める。それぞれがもっと幸福になるように。争いが減るように。いさかいあれば間に立つ。一生かけて励むのにとても価値がある仕事だ!」


 パスーが項垂うなだれた。


「何だよそれ。途方も無いこと言い出して。具体的に何をするんだよ……」


 ティダがパズーの肩を抱いた。


「これだけやる気満々だから一から作り上げるんだろ。建国とは驚いたが領土なくとも民がいるなら国は国だな。お前は俺の部下だ。付き合わせる」


 パスーがギョッとした顔をしてティダを見つめた。


「嫌ならいいんだよ。そうだパズー、ティダも手伝ってくれると言ってくれたんだ!」


「こいつは俺の矜持を好んだからどうせついてくるぜ。蟲の民の国ね。なんかもっとねえのか?お前の野望は蟲だけじゃねえんだろ?国王セリムね。まあ俺は王とか絶対御免だから横に並んでやろう。右腕だな」


 セリムは思わず首を縦に振った。それから横にも振った。


「そうだ。何か国名を考える。右腕はシッダルタだ。目付もシッダルタ。パズーの代わりだと言ってくれた。左腕はラステル。ティダ、君は僕の相談役で見習うべき背中。全然横並びじゃない」


 ティダが目を丸めたあとにセリムの髪をぐしゃぐしゃにした。


「好きにしろ。お前の国だ。他に優先事項がない限りは何でもしてやろう。俺は自らの優劣に従う。自分勝手に居なくなるからそれは覚えておけ」


 ゼロースが近寄ってきてアンリをティダに渡した。


「アシタカ様に大陸和平は人だけではないと進言しましょう。ドメキア王族には海蛇の加護がずっとあったようです。玉座の間の下に海蛇と交流する部屋がありました。蟲との掟ではなく海蛇との掟があるようです」


 ゼロースに詳しく聞こうと思ったらルイがセリムに向き合った。


「話が壮大すぎて見えませんが、この度は我が国が蟲を怒らせたのに穏便にしてくださりありがとうございました。考え続けていても貴方が話したことも蟲のことも全然分かりません。是非相談役として御指南ください。国民にも教えなければなりません。蟲関連のことを法律に組み込まないとならないでしょう。正しい知識を持って敬意を払う。住処が違うし価値観も違う。無知や誤解で他者の領域に踏み込まないようにしないとならない」


 ルイが頭を下げた。おもてをあげると真摯しんしな瞳でセリムを見つめた。セリムはゼロースとルイを交互に見た。それからパズーを見つめた。


「違う!俺は何もしてない!何だよ、これじゃあ俺が変みたいじゃないか。分かった。分かった。やれることはやる。かなり後ろの方で、書類を書くとかな。そういう怖くないやつな。俺以外が増えたんだからもういいだろう」


 パズーが拳を握ってセリムの胸に当てた。嫌でもまずは受け入れてくれる懐の深さは、昔からセリムの手本だ。セリムはもう一度ルイを見た。


「ありがとうパズー!何だって嬉しいさ!そうだ。そうなんだ!蟲が操れるとか、操れる人間がいるとか、草食で優しいのに化物とかそんな誤解は消さないとならない。彼等は対人たいひとにだと怒った時自分でも止められないんだ。やり過ぎる。元々は人の仕打ちのせいなんだ。それに人を見下してる。それから……」


 ティダがセリムの顔の前でひらひらと手を振った。


「だから焦るなと言っただろう?ほら、右腕と左腕が来た」


 ティダが親指で示した方角に大蠍蟲アラクランがいた。その前をラステルとシッダルタが走ってくる。セリムは駆け出した。


「ラステル!シッダルタ!僕が怒りすぎて蟲を混乱させてたらしい!それから僕は蟲で人を脅迫していたと怒られた!大蛇蟲アングイス小蛇蟲セルペンスと仲良くなった!この地は大蛇蟲の王バジリスコス小蛇蟲の王ココトリス蟲の王レークスに守られていたんだ!大昔からだ!だから人と蛇と蟲はきっと仲良く出来るんだ!民が増えた!ティダだ!パズーとゼロースさんとルイさんだ!」


「私を忘れていますよヴァル殿!」


 アンリの声にセリムは振り返った。ティダの腕の中でアンリが頬を膨らませている。


「大狼とも海蛇とも語れるこの私を仲間外れとは大損ですよ!左腕の相談役兼任護衛兵に相応しいと思います!」


 アンリはかなり怒っているように見える。


「仲間外れ?大狼と海蛇とも語れる?左腕の相談役兼任護衛兵ってラステルの?アンリさんまで何て光栄なんだ!是非お願いします!しかし護衛兵は止めてください!ティダの激怒は怖過ぎる!ラステル!君の大親友は僕達と励んでくれるって!シッダルタ!一気に増えた!何もしてないのに仲間が増えた!なんていうことだ!」


 セリムはアンリに深く頭を下げてからラステルとシッダルタに駆け寄って飛びかかった。


「おいセリム、何でここにいる?あの巨大蛇は何だ?何があった?交渉はどうした?蟲達が急に緑色の瞳になって、ラステルから聞いたがとても親しみのこもった感情の時の色なんだろう?」


「セリム!私達任されたのに何もしてないわ!何でここにいるの?何があったの?」


 地面が揺れた。ティダが足で大地を踏んだからのようだ。二回続いた。


「もう良いだろう。後で好き勝手話せ。ヴァナルガンド、アンリを任せた。医学もかじっていると言ってたな?看てくれ。散々待たせたから俺は大蛇蟲の王バジリスコス小蛇蟲の王ココトリスと会談だ」


 アンリが大丈夫だと言ったがティダは無視してセリムにアンリの体を渡した。そっと体を下ろしてアンリの首を確認すると熱を持っていて、かなり腫れている。本人の息も細かく速い。それに汗も多い。


「大丈夫です。それよりもティダの隣に居てあげて下さい」


「いや、話は聞こえるしここからも話せる。何かあって二匹の王が万が一ティダと争うなら離れて居た方がティダの為になる。そんなことはなさそうですけど」


 ティダが両手を挙げて歩いていった。


〈長々と待たせて申し訳ない。大蛇蟲の王バジリスコス小蛇蟲の王ココトリスよ、会談とは何であろう?〉


〈我等は此の度、三百年振りに蛇の女王を戴冠たいかんさせることにした。間も無く戴冠式たいかんしきだ。女王の盟友とその妃に感謝を込めて列席してもらいもてなそうと思った。孤高ロトワ龍の皇子と妃。蛇の女王の盟友関係は孤高ロトワと我等との同盟関係に繋がると思ってな。蟲の王レークスからの進言もあったからである〉


 蛇の女王?


〈シュナか?ドメキア王族と縁があると聞いたが蛇の女王とはどういう地位なのでしょう?〉


 ティダの問いかけに小蛇蟲の王ココトリスが頭部を大きく縦に揺らした。


〈度重なる我等の姫に対する仕打ち、もう許さぬ。そもそもグスタフは掟を破り双子を隠した。毎度、我等を利用して礼をしない。おまけに誓いの行事も全然しない。大切な姫を行方知れずにさせたり、戦争に借り出したり愚王ぐおうでうんざりだった。そこにきて国民が最悪だ。蛇の女王に相応しい姫を討とうなど、こんなの聞いたことがない。しかし素晴らしい姫が国を捨てた。なので海辺に城を作り守護する。姫に捨てられたドメキア王国は滅びろ〉


 大きく大地が揺れた。ドメキア城方面に次々と柱が現れた。大蛇蟲アングイス小蛇蟲セルペンスが次々と地面から突き出てくる。街ら避けているようだが、夜空高く伸びる巨大な蛇の瞳は一様に赤い。


〈ドメキア王国の民に告ぐ。長きに渡る数々の掟破り。しかし姫が残る限り許し続けてきた。三百年振りの我等王に並ぶ姫を討とうとした罪は重い!慈悲もたらし続けていた我等近海の民をないがしろにしてきた報い也!近海の民、大蛇蟲の王バジリスコス小蛇蟲の王ココトリスの名において守護神のちかいの終了を要求する!姫に最終確認するがその間に我が民に傷をつけたら絶滅させる!姫と盟友以外めっする!〉


 セリムは思わずルイの腕を引いた。


「誤解されている!シュナ姫はドメキア王国を捨ててなどいないと言え!それから謝罪だ!国民がなあなあでシュナ姫に乗っかって甘えているから怒っているんだ!まずは君が国を代表して謝れ!」


 ルイの顔は蒼白だった。しかしセリムに引っ張られない程速く走った。セリムが掴む腕はふるえている。


「待って下さい!この国をシュナ姫は必死の思いで守ってくれました!これから我等がその恩を死ぬまで返すのです!俺を助けてくれた優しき海蛇達よ!どうか話を聞いてくれ!」


 ルイが大声で叫んだ。二匹の蛇王は無反応。ルイがセリムの腕を振り払ってさらに速度を上げた。


〈守護神か、こりゃあ国民に伝達されているな。この場の全員聞こえてそうな様子だからな〉


 必死の形相で走っていくルイの脇を、飄々ひょうひょうとした様子のティダが歩いてくる。ティダがルイの足を引っ掛けて転ばした。


「この世は因縁因果、生き様こそがすべて也。ふはははははは!誰の言葉だっけなあ?平和掲げて帰ってきたのに、反乱なんぞしおって殺してみるが良い。ってな。我が紅の宝石の姿を見抜けなかった事を呪うが良い!ふはははははは!敵国の俺でさえあっという間に見抜いたのに見る目がなさ過ぎるな!あれ程美しい矜持何故分からなかった⁈」


 ティダが地面に転がったルイの顔面の横に足を大きく踏みしめた。ルイが勢いよく立ち上がった。


「そうです!だがこれからは違う!シュナ姫が身を切るような思いで心血注いで国に奉仕してきてくれていたと分かった!更に手を差し伸べてくれている!それを無下になどさせない!誤解でそんなことをさせてはならない!この国が滅びるべきなのはシュナ姫が殺された時だ!」


 ティダがルイの左頬を三回叩いた。かなり軽そうかと思ったら三回目の時にルイが吹き飛んだ。


「よく吠えた!真贋しんがん持つ大鷲おおわし姫が選んだだけある!しかしシュナが殺されようと国を守れ!それが王だ!頂点ならば決して下を見捨てるんじゃねえ!小童こわっぱよ、お前が頼む相手は言葉通じぬ蛇王ではない。冷静に見定めよ」


 ティダがルイの腕を引っ張って起こした。セリムとルイの視線がぶつかった。


 セリムの脳裏にシュナが自由だと言わんばかりの軽やかに走っていた姿が過った。


 無邪気な笑顔。


--このような暮らし、とても憧れていたんです


 強風さえシュナを取り巻く時は優しかった。


 悪戯いたずらっぽい花が咲いたような歯を見せた笑顔。


「話を、話をしたいです!ヴァナルガンド殿とティダ皇子!蛇と話せるのならばどうか俺の言葉を伝えて下さい!」


 ティダがいつの間にかセリムの横に立っていた。


「目が真っ赤だぞヴァナルガンド。余程蟲とシュナを重ねたようだな。で、こいつはきちんと自ら先頭に立つという。シュナに頼るのではなくな。どうする?」


 ティダがぐしゃぐしゃと髪を撫でてくれた。後ろから人が迫ってくる気配がして振り返った。ラステルに飛びつかれた。それからシッダルタがセリムの右腕に腕を回した。ラステルも同じようにセリムの左腕に腕を回す。


「次は離れないわよ!三人とも一緒にいるのよ!ティダ師匠も見張っていてね!セリムったらすぐに一人で頑張ろうとするの!二度目は崖の国の義姉様おねえさま達と爆弾苔の刑にするわよセリム!」


 爆弾苔?ホルフル蟲森に生えていた、秋口になると触るだけで爆発する苔のことか?ラステルが姉上達と共にセリムを叱責するということか?


「初仕事がうやむやになったので、これが初仕事だセリム。怒るなら怒れ!俺とラステルがいるし、ティダもついているから大丈夫だ。君は自由に好き放題する係。ラステルと俺が隣で支える役。援護もするし必要なら止める」


 シッダルタがグッと胸を張った。向かい合うルイが困惑したようにラステルとシッダルタを見た。シッダルタが大きく深呼吸して口を開いた。


「我等の王セリム・ヴァナルガンドへの助力要求。代償に何を払う?ドメキア王国新国王ルイよ、前王グスタフより反乱という野蛮な行為で王座奪おうとした貴方を信じる材料がほとんど無い。背負う信念と我が国に納める報酬を述べよ」


 セリムはシッダルタの発言に内心驚いたが顔に出さないように努めた。ルイの大空色の瞳が揺れる。凍てつくような強風がルイを囲った。


 励むのはセリムではないとティダが言ってその通りだと感じている。蟲や蛇達がセリムの想像以上に人を見下しているのならば、その認識を変えて貰わないとならない。


--セリム、お前が誰よりも偉大になろうが成長しようが一人で頑張ろうとする道がそもそも間違いだ


--お前は一人でも多くの人を鼓舞して導くんだ。それがお前が行く道だ


 パズーの進言通りだと思ったのでセリムはルイの返事を待った。自ら考えてもらう。それも鼓舞ではないだろうか。


 ルイを選んだのはシュナ。シュナはとても見る目がある。そしてセリムもだ。大蛇の間から追い出してしまったヴラドやリチャードとルイは違うと感じている。先程「俺を助けてくれた優しき海蛇達よ」そう口にした。シュナに任せようではなく、自らが先陣だと奮い立った。ルイならば大丈夫だ。目が冴えるような言葉をくれる。


「背負う信念……。恩人を絶対に裏切りません。剣で貫かれようとも決して。それが我が国の国旗に込められた信念です。私は紅の宝石に負けない宝石となります。貴方達に救ってもらう国を豊かにし、それを自国のみに留めない。大陸和平願うアシタカ様に助力し、異生物との和平願うヴァナルガンド殿にも助力します。死ぬまで……心臓止まるまで……いや心臓止まろうとも続く何かを作ります!」


 決意の炎をたぎらせたルイにセリムは大きく頷いた。ラステルがセリムの腕を離した。セリムは左手をルイに差し出した。ラステルがそっとセリムの手に触れて、指の形を変えさせ、薬指だけを伸ばさせた。


わたくし達の国の目付ティダ・ベルセルグ様が証人です。お互いの薬指を絡ませたら、心臓に誓うと言う事です。真の誓いとは心臓を刺されても決して破れないもの。我が国と王セリムは死なば諸共もろともという程に最大限助力をします。誓いますか?」


 ラステルが含み笑いを浮かべた。シュナの妖艶ようえんさを想起させる笑い方。ルイが恐る恐るというようにセリムの薬指に薬指を絡ませた。指と指が触れるとルイは大きく息を吸って気合の入った表情を浮かべた。


「ティダ・ベルセルグ。この目と耳でしかと見届けた。ドメキア王国ルイよ、裏切りには反目。誓い破りの際はこの大狼兵士ティダが直々に生きたまま心臓えぐり出そうではないか!」


 ティダがラステルとシッダルタの髪をぐしゃぐしゃにした。ラステルが「もうっ」と唇を尖らせた。大人びて凛としていたラステルが一気に幼くなった。


「任されたルイさん!僕はこの美しい世界のあらゆる命と共に生きるんだ。共に生きて欲しい。共に生きたい。その祈りがある限り決してあきめない!人は変わる。何度でも変われる。遅いなんてことはない!どんどん変わるんだ!」


 セリムはルイの髪をぐしゃぐしゃに撫でた。ティダのこの仕草をとても気に入っている。セリムはルイの髪を滅茶苦茶めちゃくちゃにした。「しまらねえな」とティダが背中を三回叩いてくれた。セリムはラステルとシッダルタの頭もポンポンポンと三回撫でるように叩いて、それからルイにも同じようにした。


 大蛇蟲の王バジリスコス小蛇蟲の王ココトリスがジッとセリムを見据えていた。

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