フェンリスとアンリエッタ2

 有無を言わさず手を引かれて、隣室へと連れ込まれたアンリは、ティダが一転物静かになったことに驚いた。


 壁一面の本棚に、膨大な書籍。小さな木製の質素なテーブルと椅子。近くには揃いの椅子がもう一脚。ティダがテーブルをそっと撫でて、それから上着の内側から紙を出した。ティダから受け取った紙は城の見取り図だった。美しい文字で、大量の書き込みがされている。


「ラステルとシュナにはヴィトニルを付ける。いざという時にはこれで逃げろ。俺には俺でやる事がある。ヴァナルガンドは任せた」


 映画のようだと、目を奪われた隣室とはまるで雰囲気が違う。繊細な金属細工の装飾。天蓋付きの寝台。窓の代わりに彩り豊かな花模様のステンドグラス。細やかな刺繍のカーテン。そんな隣室のような派手な空間が似合いそうなのに、意外にもティダはこの慎ましい部屋に馴染んでいる。


 ティダがシュナに手を貸し、何か与えようとしているのは、この部屋を見て思うところがあったのかもしれない。


「やる事って何かしら?適材適所ってどういうこと?実力不足は真摯しんしに受け止める」


 シュナとラステルの護衛にとティダが告げた筆頭は王狼ヴィトニル。そしてヤン長官とビアーという騎士。ティダの中では王狼ヴィトニルだけが、シュナとラステルの護衛のような気がする。それなら悔しいがアンリには実力、信頼共に全く歯が立たない。


「群集を扇動せんどうする手っ取り早い方法は、共通の敵」


 共通の敵。ティダが何てことない、というように口にした途端に胸が締め付けられた。それが誰なのか、伝わるような言い方。


「何をするつもりなの?」


 穏やかに微笑んだティダが、一歩アンリに近寄った。


「まだ状況を測りかねる。ヴァナルガンドに俺と同じてつは踏ませない。出航の際、俺の言葉を聞いていただろう?とりたてて関心のない相手から罵られ、石を投げられ、弓を引かれ、火を飛ばされようと特に何とも思わん。何の為に何をするか、そして結果が何より大事だ」


 アンリは大きく首を振った。


「結果が同じなら、最善を尽くすべきよ」


 今度はティダが首を横に振った。眩しそうに目を細めている。


「ヴァナルガンドは会談の日まで、グスタフ王と話をするつもりだ。隣には似たような人種が必要。アシタカが居ないならアンリエッタ、君だ。少々役不足だが、消去法」


 ティダの手がアンリに伸びてきたので、一歩後退した。


「あら、ありがとう。セリムさんを私の護衛にするつもりなら嫌よ。それからもう一度言うわ。結果が同じなら、最善を尽くすべきよ」


 ティダが困ったというように唇を尖らせた。何と無く何を考えているか分かるが、本人から聞きたい。嘘か真実かは自分の目と勘で決める。


「正しさだけで導くのなら俺は邪魔だ。ヴァナルガンド一人で成すだろう。ヌーフ殿と同じく多少手を汚してでも成すなら、俺。何種類か伏線を張る。それには準備がいる。パズーは地位、立ち場無く俺に吠えてくる。やり過ぎを止めるだろう。シッダルタにそれを見せておきたい。パズーをヴァナルガンドから外すなら誰かが必要だ。ラステルは危なっかし過ぎる。シュナは冠だから論外。他の男どもは全く使えない」


 またティダがアンリに一歩近寄った。今度は素直に手を伸ばされるのを受け入れた。そっと顔の横の髪を指で挟まれ、撫でられる。見つめてくる漆黒の瞳に映った信頼に、少し目眩がした。


「どうして、この話を皆にしないの?」


 何と無く解答が分かるが、あえて口にした。言葉が本心とは思わないが、決めつけるというのが良くないというのは身に染みている。


「目が届くところまでしか手が伸ばせない。だから優劣をつける。見捨てるかもしれん奴に信頼なぞされたくない。アンリエッタ、別にヴァナルガンドに護られろとは言っていない。手合わせで多少君の実力は知っているつもりだ」


 髪に触れていたティダの指先が、アンリの頬をそっとなぞった。背筋がぞわりとしたが嫌な気はしない。むしろ逆。何てもどかしい触り方をしてくるのだろう。


「この話、セリムさんにもしてないのでしょう?」


 また頬に骨ばった指がほんの僅かに触れた。首をすくめそうになるのを堪える。ティダの瞳の奥に、愉快そうな色が光っていた。反応を楽しまれている。


「あいつは話さなくても何でも信じてくる。というか勝手に良い方に解釈する。君はえて聞きたそうだから話した。アンリエッタ、君の判断でシュナやラステルに話すのは許そう。二人共、この部屋から出さないつもりだがラステルはお転婆過ぎる。シュナは俺の行動を読んで考えるだろう」


 君なら二人に話さない、そう顔に描いてある。シュナもラステルもティダが何か企てていて、それが危険そうだと心配している。ティダと天秤にかければ全員護るべき弱者となる。圧倒的な庇護対象、シュナとラステル。手の内をアンリに明かしたのは、アンリが止めようが絶対に曲げないという決意表明。


 大丈夫だから安心してくれと訴えてくる真摯しんしな瞳。


「分かったわ。任せる。それに頼まれたわ」


「物分かりが良いな、アンリエッタ」


 体を屈めたティダが耳元でそっと囁いた。一段階低い声と息を吹きかけられ、アンリは思わず身をよじった。ティダの胸を押して、体を離させた。行動を読んでいたというように、ティダは素直にアンリに押された。


「セリムさんを後押しして、貴方が何もしなくて良いようにする。貴方が私にそれを頼んだと解釈したけれど合っている?」


 優しい目線と小さな頷き。頼む、という視線が素直に嬉しい。誰にでも今の態度をすれば、彼の周りにはもっと多くの人が集まるだろう。ティダは理解して、隠し、背を向けている。アンリは何故か身の内に入ることを許された。悲しい生き方なのに、一人の女性としては嬉しくてならない。


 また髪をもてあそばれた。一挙一動に反応しそうになって困る。


「大事な話の時にこういうのは止めて頂戴ちょうだい


 何でこうも挑発的なのだろう。こう、やられっぱなしは悔しくてならない。


「次からは気をつけよう。まあ、俺の話はもう終わった」


 ティダの人差し指がアンリの髪をくるくるといじる。焦ったくて切ない。何もするつもりが無いのだから止めて欲しい。なのに拒否の声が出てこなかった。このまま遊ばれていたい。このような渇望かつぼうをかつて感じたことがあっただろうか。即座に「無いな」という自分の声が胸の奥に響いた。


「さっき、実はアシタカとの話を聞いていたの。結婚ってどういうこと?それに南十字星ノーザンクロスって?」


 気になっていたので教えてもらいたかった。ティダの人差し指が髪から離れてアンリの唇をなぞった。触れるか触れないかというような絶妙さ。反応するかと我慢する。恥ずかしくて、体が熱い。


 一方的にされるがまま。逃げたいのに、逃げたくない。余裕綽々しゃくしゃくな様子が腹立たしい。このようなひと、アンリの周りには居なかった。


「やはりな。通信機が見えたから予想通りだ。むしろ意味が分からないとはなんだ。生涯何があろうと何をされようと尽くすと言ったよな。それと、暗闇でも自ら光り美しく羽ばたくだろうと敬意を示している」


 ティダが思いっきり顔をしかめた。何の比喩ひゆなのか検討がつかない。こんな歯が浮くような台詞、現実感が薄い。しかしまたなぞられた唇で感じた、ティダの指の体温が現実だと告げている。ベルセルグ皇国ではこれが当たり前なのだろうか。


「あ……ありがとう。それから、あの、まあ、それはそうだけど……。今日の今日よね、私達の関係?って」


 くすくすと笑いながらティダの顔が近寄ってきた。


「誓う。二言はない。俺は確かに聞いた」


 微熱ではなくて、高熱というような激しい視線で息がしにくい。


 目を閉じたが、やはり何も起こらなかった。そっとまぶたを開くとティダが満足そうな不敵な笑みを浮かべていた。


「全然足りない。こう余裕たっぷりなのも今のうちだ。涼しい顔をしていられるのもな」


 目が点とはこのことだ。動悸が激しく腰が抜けそう。おまけに自分でも分かるくらい顔が熱いのに?感情が出やすいから気をつけろ、とは良く言われるが逆は初めてだ。


 ティダが口角を上げた。揶揄からかわれているだけらしい。やられたい放題で、最早泣きそうだ。


「酷い人ね。こんな人……」


 「こんな人知らない」という、続きを飲み込んでアンリは唇を結んだ。言ったらあおるという勘。やはり獰猛どうもうな眼光に射すくめられた。また手が伸びてきたので怖くて思わずティダを突き飛ばした。


「アンリエッタ、君の方が酷い。男を次々と袖にしたのだろう?比較し、俺の理性も試している」


 突然勢いよく抱きしめられ、呆気に取られた。力は強いが壊れないようにという優しさ。男を比較したことなんて一度も無い。アンリの人生にティダのような激しくて抗い難い男はいなかった。だからつい「知らない」「居ない」「初めてだ」と思ったことを口にしてしまう。比較とは違うのだが、どうも変にねじれて伝わるらしい。


 広い胸板。自分が小柄だから余計にそう思った。かなり鍛えられている。幸福感よりも、羨望せんぼうが湧いてきたので、少し余裕が出来た。女の自分には決して届かない、はがねのような体躯。服の上からでも分かる。


「本当にひらひら、ひらひら。俺が欲しいではなく俺の力が欲しいとは。少しは酔え……」


 右肩に顔をうずめられて、背中にティダの指が這った。昼間噛まれたところがうずく。何て甘くて切なそうな声を出すのだろう。


「どちらも欲しいわ……」


 悲鳴のような声が出た。こんな自分知らない。欲しい。欲しくてならない。とっくに酔っている。背中に手を回したら、突き離されるかもしれない。それでもアンリはそっと腕を上げた。


 案の定一気に体が離れた。


「俺が猛毒で朦朧もうろうとしている、昼間のうちに言うべきだったなアンリエッタ。早くて五日だ。しかし長くて死ぬまで一生手を出せん」


 絶対に、という台詞を口にした後、ティダは流し目と魅惑的な笑みを残してアンリに背を向けた。あっという間に部屋から出て行って、扉も閉められた。また置いていかれた。


「猛毒は自分の方じゃない……」


 自然と大きな溜め息がこぼれた。どうしてこんなに激しくアンリを捕まえようとするのだろう。ここまでされなくても、昼間の時点でアンリの心は奪われている。


「少しは酔えよって、絶対に余所見をするなよって意味が分からないわ。何なのかしら……」


 アンリはこんな状態なのに、おかしい男だ。座り込んだら動けなくなりそう。泣き出したら止まらないだろう。とんでもない男に落ちたばかりでなく、相当気に入られている。こんなのを嬉しいとは、アンリもおかしくなったのかもしれない。


 絶対に見抜かれている。ふざけて楽しんでいるのだろう。


 アンリは自分の頬を両手で軽く叩いてから部屋を出た。表情を引き締める。アンリが扉をくぐると、勢いよくラステルが駆け寄ってきた。


「アンリ、かじられ無かったのね。良かった。大丈夫そうね。何ともないという様子だもの」


 安心したというように微笑んだラステルに、アンリは顔を綻ばせた。「あんな妹、欲しいだろう。やらんがな」と豪快に酒を飲むドーラの姿を思い出した。こう慕われるとこそばゆい。


「先程もだけど、かじられるとは何なのかしら?」


 落ち葉色の髪を撫でたい衝動を抑えた。


「セリムから聞いたの。パズーがおでこを撃たれたのよ。アンリの話でティダ師匠を揶揄からかったから。ほら至宝に飾られる真珠パールがアンリのあだ名なんでしょう?あと週刊誌?よく分からないけど。それも……」


 アンリは首を横に振って、ラステルの肩に手を乗せた。顔が熱いので俯いた。楽しまれていたのではなく、妬かれていたようだ。余裕ではなく、全力の必死。今日の今日でアンリの何をそんなに気に入ってくれたのか、変な男だ。


「パズーを怒らないでね。フォンさんや護衛人さん達と仲良くなったと、自慢したかったのよ。口は災いの元ってセリムが呆れていたわ。でも良かったわね。ティダ師匠ご機嫌だったもの。全然怒ってなかった。やっぱりセリムが変なのね」


 ラステルが唇を尖らせた。ティダがご機嫌ということに、苦笑いが起きた。


 仲良くなる手段に、嘘か真かも判断出来てない噂話とはセリムの願いとは違う。異国の価値観や文化を学んで欲しいという、ごく当たり前の方法を何故取らなかった。アンリはため息を堪えた。


「セリムさん、どう変なの?」


「何にでも焼きもちを焼くの。義兄様おにいさまやシュナ姫やアンリ、崖の国にもよ。変でしょう?セリムの家族、セリムの友達、セリムの国。セリムって名前をつけないと伝わらないの」


 ラステルがもう一度「セリムって変なの」と呆れ声を出した。ラステルがどことなく嬉しそうなのが、自分の気持ちと同じようで恥ずかしい。誰かに話を聞いてもらいたかったのだろう。しかし、このお喋りと仲良しの軽薄男を放置しておくと、またティダにとんでもない目に合わされる。


「仕事を頼まれ、納得したの。セリムさんの護衛よ。セリムさんに挨拶してくるわ。その前に勝手な噂話についてパズー君に止めてって話をするわ。もっと身を引き締めてもらわないと」


 パズーだけではない。ヤン長官ともあろう人が、部下が信憑性しんぴょうせいのない噂話をするのを放置するとは。遠足ではないのだから、緊張感を持ってもらわないと困る。ついでに今の内に全員の口を縫い付けないと、アンリの心臓が止まる。何かの折に、アンリがアシタカの弱点と勘違いされ計略に組み込まれるのも良くない。芽を摘んでおかないとならない。


「アンリ殿。災難だったな。この私室を出て右手の部屋は空だ。パズー殿達をいさめるのに使うといい」


 何もかも見透かしているというようにシュナがニヤリと笑った。ちょんちょん、と髪を示されたので、アンリの髪が乱れていたのだろう。平静を装って髪をなでつけた。


 慌てた様子でラステルがアンリの腕にしがみついてきた。


「ラステル。パズー君を庇うのなら最初から口を閉ざしておかないと。もう少し考えてから話をしないといけないわ」


 アンリは青くなったラステルを引きずりながら部屋を出た。シュナが可憐に手を振りながら見送ってくれた。


 部屋の前に見張りとして伏せている王狼ヴィトニルに唸られた。少し離れたところに立っていたのは丁度ヤン長官だった。ヴィトニルの唸りで振り返ったヤン長官と目が合う。頬が引きつったので、アンリの苛々を察したのだろう。

 

「ヴィトニルさん、隣の部屋に行くだけです」


 嘘ではないと伝わったようで、王狼ヴィトニルはすぐに伏せてくれて静かになった。


「ヤン長官!貴方の部下を全員集めて下さい!私は明日からヴァル殿の護衛官を務めます。貴方の部下から一名、補佐を選ばせていただきます!」


 意識して低めの声を出し、右隣の部屋を指を揃えた手で示した。ヤン長官が顔を引き締めて小さく頷いた。


「さて、パズー君ね。ヴィトニルさんが許さないだろうからラステルは部屋に戻るか、隣室よ。好きな方をどうぞ」


 腕にしがみつくラステルをアンリは引き剥がして王狼ヴィトニルへと押しやった。


「アンリ……パズーを怒らないで。私が軽率だった。ごめんなさい」


「怒る?注意をするだけよ。彼、目付なんでしょう?」


 ティダが連れて行くというし、しっかりしてもらわないと困る。王狼ヴィトニルの口がラステルの服を噛んだので、アンリはラステルを置いてこうとした。パズーは確かゼロースの部屋。


 動き出した時、左手の部屋からセリムが出てきた。


「アンリさん。ティダから僕の護衛官になってくれると聞いて挨拶しようと思ったんだ。君もとは嬉しいよ。気が合うね」


 にこやかなセリムがすぐにアンリに右手を差し出してくれた。


「こちらこそ大変光栄です。これから副官を選びます。それから大切な話しもしますので、よろしければパズー殿と共に同席していただけますか?」


 セリムの後ろにアンリの目当ての人物が呑気に立っていた。目が合ったので微笑んでおく。視線を泳がせたパズーが、ラステルの姿を捉えた。なかなか勘も観察眼も優れていそうだ。尚更、腹立たしい。セリムが何か言いかけたがアンリは背を向けた。


 シュナが空いていると言っていた部屋に入り、壁際に後ろ手を組んで立つ。隣にセリムが並んだ。その隣にパズー。程なく護衛人十五名が整列した。高揚した様子なので、ヤン長官が集会の理由をもう話したのだろう。


「疲れているだろうがヤン長官から話があったように、私はヴァル殿の護衛官に任命された。よってこの中から副官を選びます。ヤン長官、是非ヴァル殿の前へどうぞ。よろしければ護衛人と気心知れてくれたパズー殿も」


 ヤン長官はおだてに弱い。この言い方なら自分が副官だと勘違いするだろう。パズーには棘を込めた笑みを投げた。セリムが眉根を寄せて首を傾げた。しかしパズーを見て微笑んだ。護衛人と気心知れた、の台詞が嬉しかったのだろう。


「護衛官の副官はフォン!精鋭として恥ずべき口の軽さ、至らないヤン長官の代わりに私が叩き直す!」


 腹の底から声を出すと、一同が固まった。


「セリム殿が異国の価値観や文化を共有して打ちとけるように、素晴らしい提案をしてくださった。我らが至宝も同じ願いを抱いているでしょう!それを何ですか!真偽不明の国内の噂を流すとは恥を知りなさい!何の事かは自身が良く理解しているでしょう」


 晒し者にされたフォンが、不服そうに顔を歪めた。パラパラと失笑も漏れた。アンリはヤン長官を思いっきり睨みつけた。それからパズーにもそれ以上の睨みを投げた。異国の王子の目付を、堂々と叱責するわけにはいかない。これで十分通じるだろう。


「上官の忠告にあからさまな不満。全体への話なのに他人事とは何事ですか!国の誇りを背負った輝かしい精鋭だという意識が薄い!ヤン長官!そもそも貴方が腕自慢なんて愚かな真似をするから、部下が育たないのです!アシタカ様の期待で気負っているのは分かりますが、期待に応えて下さい!私からは以上です。忌憚きたんのない意見をどうぞ。私は長官としては若輩。学ばねばなりません。質問も受け付けます」


 アンリはセリムに微笑みかけた。セリムの感心したという様子に、心の中で拳を握った。彼の性格ならアンリの後押しをしてくれる。


「僕も懸念けねんしていました。噂話は楽しいでしょうが、内容が内容。アンリ長官がアシタカの伴侶同然というのは、人質行為を扇動する材料となる。アシタカは国の代表。真実ではないのに、確認もせずに代表に対する軽率な発言は僕の国では感心されません」


 護衛人を無視してセリムがパズーを睨みつけた。アンリはヤン長官に微笑みかけた。呆気にとられた後に、気まずそうになったのでおそらく何も知らない。ヤン長官へ勘違いで済まないという態度も示した。後は勝手に働くはずだ。ヤン長官はアシタカの期待、その言葉に滅法弱い。


「部下の責任は私の責任です。気がついていなかったこともお恥ずかしい。規律厳しい三十班の長官からの至極真っ当な意見は胸に留めます。何か起こる前で良かった。フォン、私の副官としてアンリ長官から学ぶように。それにヴァル殿の護衛とは誉れだ。アシタカ様にも活躍を報告する。全員たるんでいる!」


 ヤン長官がアンリに敬礼してから、部下と向かい合った。護衛人全員が背筋を伸ばして敬礼し、勢いよく返事をした。最初から背を伸ばしていないというのが、そもそもたるんでいる証拠だ。ヤン長官は実力、実績申し分ないが教育という点は及第点スレスレだと以前から感じていた。これを機に励んでもらおう。


「何でしょうか?」


 ふと見るとセリムに見つめられていた。穏やかさに似つかわしくない、燃えるような目線に面食らった。


「僕はアンリさんと話をしたい。思えば殆ど話をしていない。人を導ける人間になるには手本が沢山必要です。ティダは僕に護衛人の教育方法を学ばせる為に、アンリさんを選抜してくれたのですね」


 キラキラと眩しい尊敬に気後れした。セリムはアンリよりも随分若いのに、とてもしっかりとしていて己にも厳しい。王子として、国の代表としてアシタカ同様努力を重ねてきただろう好青年。そういう認識だった。


 この目か。ティダの頑固で強固そうな心の鎖を破壊しシュナを奮い立たせている目。尊敬している、羨ましい。そういう真っ直ぐな目とシュナが評した目。その中の強欲。誰よりも優れた者になりたいという猛火。ティダやシュナはそこまで気がついているのだろうか。アシタカがやる気に満ちているのは、セリムの尊敬と、若者に追い越されるかという負けん気だろう。


 しげしげと感心していると、扉が勢いよく開いた。涼しい顔をしたティダがラステルの手を引いて入室してきた。青くなって強張っているラステルにセリムが駆け寄る。しかしラステルはパズーの元へと走っていき、パズーの腕にしがみついた。


「軽率は身を滅ぼす。心臓を握りつぶされることもある。可愛いお妃様のお喋りと、軍人や目付の話では意味合いが違う」


 何もかも知っているというように、ティダがヤン長官と護衛人達へ冷ややかな微笑を投げた。ラステルから聞き出したのだろう。


「私もお説教されるわ。し、思慮深くならないといけないもの。私は蟲の民の王子、ヴァナルガンドに相応しいお妃様になるのよ!」


 心配するか少し怒るのかと思ったら、セリムはラステルに見惚れていた。二人の上下関係がハッキリと分かる。どこの国の男女も同じ、より惚れた方が負けという奴だ。これでは足元をすくわれるから、ティダはラステルをシュナに任せたのか。


「ヤン長官の即座の反省と向上心。私も見習います。これより先は分相応ぶんそうおうで無いしょう。一言だけ。至宝に飾られる真珠パールとは恐れ多く光栄だが、勘違い。残念ながら私は矜持抱き自ら光る円正十字クロスだ!以後アシタカ様との関係を邪推する者がいれば、護衛人は声を上げて否定するように!ペジテの至宝に隙があるなどと決して思わせるな!」


 アンリはその場を後にした。やられたらやり返す。それがなってない根性からきたものなら、叩き直す。護衛人全員、ヤン長官にしっかりと育ててもらわないとならない。ヤン長官もこれで教育の重要さを少しは実感しただろう。


 すれ違う時にアンリはティダにしたり顔を投げつけた。護衛人をより高みに引き上げる。ティダが嫉妬していたことを見抜いて、原因を抑える。ついでにセリムへアンリの性格と向上心を見せる。それなりの結果を残しただろう。


 長官の役職は飾りではない。必要なら大いに頼ってもらう。


「合格だ。へえ、恐れ多く光栄か……」


 目を細めた冷笑。小さく唸るようなティダの声に、アンリは踵を返した。そこに引っかかる⁈言葉選びを失敗したらしい。アンリはパズーからラステルを引き剥がして、セリムの元へと移動した。それからフォンを呼んだ。


「ヴァル殿。副官フォンと共に色々確認させて下さい。それに私も貴方から学びたいです。ラステル様も心配でしょうから少し話をしましょう」


 逃げるが勝ち。これも大切な戦法。絶対にティダと二人きりにならない。あの目線なら、それに尽きる。


「お二人共、よろしくお願いします」


 護衛するべき相手を盾にするのは忍びないが、戦場ではない。アンリはセリムの陰に隠れるようにティダの横を通り過ぎた。


「アンリ長官。口は災いの元。良く分かってらっしゃる」


 ティダのわざとらしい台詞にアンリは無反応を提示して、部屋を後にした。昼間、噛み付かれた右肩がぞわぞわとする。


「アンリ?」


 思わず座り込みそうになり、アンリはラステルの腕を掴んでいた。アンリの顔を覗き込んだラステルは、何となく察してくれていそうに見えた。


「近いうちに、ば、ば、爆発苔とラステルの噛みつきが必要になるわ。そのうち助けを求めるかも……。でもまずは一人でも負けないように戦うわ」


 セリムとフォンが顔を見合わせて、不思議そうにしたがラステルはハッとしてアンリの肩に手を回した。


「大丈夫よ。とても大切にしてくれそうで良かったわねアンリ。あんなに優しそうなのを見るのは初めてよ」


 ラステルの嬉しそうな可憐な笑みに、アンリはがっくり項垂れた。ラステルの思考回路がさっぱり分からない。洞察力も低いかもしれない。「セリムって変なの」というラステルのボヤボヤ認識にセリムは振り回されて、夢中にさせられているのかもしれない。アンリもそこまで突き抜けられたら楽になれるかもしれないが、想像したらしゃくに障った。


 あの余裕ぶった態度、絶対に壊してやる。


 その夜、アンリは恐怖と不安、そして湧き上がる悦喜えつきのせいで中々寝つけなかった。


 女としてではなく一人の人として認められている。「合格だ」の台詞とセリムを任されたということがどうしょうもなく嬉しい。怖いが溺れてしまおう。女としての幸せも、護衛人長官という真逆の誇りのどちらも欲しいが無理そうだと戦う人生に傾きかけてた。


 ティダのアンリが何より欲しい、必要だという黒真珠ブラックパールのような瞳がアンリの欲望を叶えてくれる。そんな人、この世にいるとは思っていなかった。


ーー相応しくないからと逃げても無駄だ。俺は逃げても地の果てまで追いかけて地獄に連れ戻す。道が分かれたら引きずって隣に立たせる。


 望むところだ。女遊びが好きだったという男が、手慣れた様子の男が、よく言う。こっちこそ心変わりさせてなるものか。絶対に逃さない。死んだ女に敵う女は居ない?いつか必ず隣に並ぶ。


 震える程怖いが、これが本物の恋にして最後の恋。


 そんな予感で胸が甘く痺れた。

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