崖の国の王子の憂鬱と幸福
よくよく見れば
「セリム!」
幸せそうなラステルがセリムに駆け寄ってきた。
「セリム聞いて!あー、ごめんなさい。私のせいで
たった一瞬でラステルの幸福そうな顔が消えていってしまった。セリムが余程情けない顔をしているせいだ。嫉妬も動揺も押しのけてセリムは無理やり笑顔を作った。
「こってり絞られた。反省して成長するよ。ラステルにも姉上から伝言があるよ」
怯えるかと思ったがラステルは興味津々そうだった。クイが考えるラステルは違うんじゃないかと思えてしまう。
「何だって?」
不安そうではあるが私なんかという気持ちは全くなさそうだ。クイの杞憂ではないだろうか。確かに故郷の村であまり良い扱いをされてきていないようだが、ラステルに愛情をたっぷり注いだ養父がいる。
「私ごときに屈するようではセリムと諸外国の方と渡り合えません。精進しなさいだって」
ラステルの顔が明るくなった。俯いて心底嬉しそうに微笑んで若草の瞳を揺らしている。ちょっと前ならこの可憐さに手を出すところだがセリムは耐えてジッと眺めた。ゆっくりとしっかり見ていると分かる。嬉しいよりも感謝、それも祈るような。胸の前で握りしめた両手も何かに祈りを捧げるように見えた。
「セリムと同じでセリムの家族もみんな不思議ね。でもセリムを育てた方達だものね。私嬉しいわ」
予想外の台詞とラステルが上げた顔が泣きそうだった事に驚いた。
不思議ね。
何となくクイがセリムに伝えたかった事が分かってきた。確かにセリムはラステルに対して盲目過ぎて何も見えていなかった。問い詰めて追求したりさり気なく諭すのも違う。セリムの家族だからラステルを認めたんじゃないと伝えたところで感謝はしても信じないだろう。
変なの、不思議、ありがたい、それで終わりだ。
セリムって変なのという言葉に隠された無意識の不信。セリムは胸を撃たれたかと思うくらい苦しくなった。セリムが心からラステルに捧げた敬愛と賞賛は「セリムだから言ってくれる。違うけどありがとう」と受け止められている。悲しいことに信頼が厚過ぎるせいでラステルに真心が届いていない。むしろセリムの真心に応えようと益々張り切る。
「セリムどうしたの?」
「へんてこ人間……へんてこりん……」
セリムはぽそりと呟いていた。
嫌いだった蟲を愛せる人間は人の輪から外れている変な奴。ヘンテコ人間は人もどきの
--それに変な人。私を妻に望んでここまで離したくない人なんて世界中でセリムだけよ
偽りの庭でラステルはそう発言した。なんで気づかなかったのだろう。
「へんてこ?アピ君が何か言ったの?セリムってへんてこ人間だものね」
くすくす笑いながらラステルがセリムに「蟲の家族だものね」と楽しそうに囁いた。クイの言う通りこれは骨が折れるし、セリムには無理だ。蟲姫を丸ごと受け入れて夫にしたセリムではラステルを人の輪へ入れられない。ラステル自身がセリムは人の輪から外れていると思い込んでいるから。今度はセリムの家族もそうだと思い込んだ。そもそも人には蟲と違って意思疎通の輪なんて無いのに。
ラステルのために励んでしまうセリムとそれを見て頑張るラステルは手を取り合って、二人揃って、平穏から遠ざかり激動に身を投げる。クイが心配しているのはラステルだけでなくセリムもだ。
「そうだ。異形だろうが全部愛する僕は変だってさ。でもラステルの事は蟲としても人としても両方好きだよ。どっちもラステルだ」
耳元で囁くとラステルがくすぐったそうに身をよじった。途轍もなく機嫌が良い。
「やっぱりセリムって変ね。とっても変!」
セリムを見上げた真っ直ぐな親愛の若草色に歓喜で目眩がした。身に余る
逆に恐ろしくて吐き気もした。絶対に裏切らないがラステルを地獄に叩きつけるのもセリム。クイの忠告は軽率で直動的なセリムの重枷となってくれるだろう。親の背中はなかなか越せない。
「セリム?」
「……君の聞いて、を考えていたんだ。いつも逆だからね」
ラステルがセリムの手を取った。人前なのに御構い無しなのはよっぽど何かが嬉しいのだろう。セリムの発言の前、心底幸福そうだったラステルを作った何か。またパズーと目が合った。震えるように首を振ったパズーが目を大きくした。セリムが怒ると思ったのだろう。些細な事でヤキモチを妬くとパズーにバレている。
「そうなの、聞いて!パズーが私を大親友だって!私のためなら大狼にだって嚙みつくって言うのよ!パズー
ラステルは「きゃあ怖い」「
「僕だって君の為なら大狼を噛むよ」
対抗してからしまったと口を閉じた。ジーッとラステルが上目遣いでセリムを覗き込む。それからセリムの手を引いてパズーの方へと歩き出した。
「無理よ。セリムは大狼を噛まないわ。代わりに友達になるんでしょう?ふふふ。ねえセリム、パズーのご両親は知ってるのよね?沢山お礼を伝えてね」
他の男のために可愛く甘えてねだる姿についイラっとした。自覚していても勝手に湧いてくる嫌な気持ちは制御するのは一苦労。セリムは苦笑した。
「パズー!悪かったな!沢山世話になっているのに全然礼が出来ていない」
嫉妬の権化にならなかったのかとパズーはセリムを驚いた後にホッとした目で見つめた。幼馴染だから何もかも見透かされている気がしてならない。
「クワトロ様が夜の祝いの宴で僕の席をラステルの隣にするって。セリムの反対側。服も貸してくれるって。不出来な弟には賢兄がいるから礼はいいよ」
「それじゃあ僕の気がすまない」
「それじゃあ僕の気がすまない」
パズーがニヤニヤしながらセリムの肩を叩いた。
「当たり!人が居ないところで話そうぜ。ラステルがああ言ってくれたから僕の実家に行こう。セリムもラステルもうんっと褒めてくれよ。いきなり夜の宴で僕の姿を見たら爺ちゃんの心臓止まっちまうからな」
ラステルがセリムから離れてパズーと腕を組んだ。真剣な面持ちで前を見据えている。
「緊張するわね。私頑張るわ。おかしなことは言わないでねセリム!」
道も分からないのにラステルは意気揚々と歩き出した。振り返ったパズーが怯えて困惑した目をセリムに向けた。
「ひぃ!なんで睨むんだよ!僕がラステルを……」
「セリムってヤキモチ焼きなの。変な人。こうやって歩くのが崖の国では一番パズーのお礼になるのよ。行きましょうセリム」
ツンっとセリムを無視してラステルがまた歩き出した。やはりセリムは尻に敷かれる。そしてパズーに一生頭が上がらない。元々暴走しがちなセリムの非公式世話係みたいなものだったが夫婦揃って世話になるようだ。
もう細かい悩みも喜びも嫉妬も飛び越えて苦笑しか出なかった。
***
優雅にパズーの実家に入ったラステルは目的を忘れてしまったのか、そわそわキョロキョロ崖の国の家に目を輝かせている。セリムとラステルの反対側、テーブルの向こうでパズーの父親ウルと祖父モトロが怯えきっている。間のトエルはラステルとセリム、そしてパズーを感極まった様子で眺めている。
「突然すみません。妻がどうしてもパズーの家族に会いたいと。勿論僕も久しぶりにお会いしたかったです」
セリムの言葉にウルが机に手をついて身を乗り出した。
「申し訳ありません!勝手に飛行機を使用し外国へ行くなど恥さらし!」
ウルが隣のパズーの頭を押さえつけた。モトロも石の机が磨り減りそうな勢いで頭を下げた。
「まあ何てこと!そんな嘘が独り歩きしてるなんて大惨劇だわ!」
ラステルの叫びはほとんど悲鳴だった。一人だけ頭を下げなかったトエルが嬉しそうに綻んだ。ウルとモトロが恐々と面をあげた。毎度の事ながら見た目も中身もパズーそっくりなのが笑えてくる。
「パズーのお父様、お母様、そしてお爺様。初めましてラステルと申します」
ラステルが緊張した表情で深々と頭を下げた。つられるようにパズーの家族がみんな会釈をした。
「この度……」
「父さん、母さん、爺ちゃん!今までお世話になりました!」
パズーが目をつぶって勢い良く立った。ラステルの目が点になった。セリムはパズーが自分を褒めさせるためにラステルとセリムを実家に招いたのではないと悟った。
「あまりにも偉大すぎるこのラステル姫とペジテ大工房の至宝アシタカ、あと大狼を従える偉大な男ティダに奉仕することに決めました!崖の国の誇りとなるまで帰りません!」
セリムが笑い出すとラステルがセリムの腕をちょこんと掴んで体を揺らされた。悔しいことにパズーの台詞に自分の名前が無かった。
「放っておくと我が国皆の弟セリムが死んでしまうので側で見張ります!」
言い切ってからパズーが恐る恐る目を開いた。セリムは言葉を失った。
何だって?
横に並んでいた。そこから背中を追う男ではなく背中に庇われる男に位置付けられた。格下げだ。人の王から人の王子の時も悔しかったが、これはもっと酷い。
「パズー……」
ラステルが涙ぐんだ。
「な、な、な、な、な、何をトチ狂った事を!どういうことだ!何の話だ?」
「何を大それた事を!まさかセリム様に懇願して……」
ラステルが勢い良く立ち上がった。
「貴方がいれば百人力よパズー!テトも絶対惚れ直すわ!」
ラステルの発言にセリムは益々凹んだ。
「どういうことでしょう?」
パズーの家族がセリムを見つめた。パズーが怯えて冷や汗をかいているのにセリムを脅すように見下ろしている。
「パズーをセリム・レストニアの側近、いえお目付役にさせて欲しいとお願いにあがりました」
これだ。パズーがニヤニヤしていた理由。セリムは頭を下げながら後で覚えてろと唇を一文字に結んだ。親友だと思ってたのに、セリムを誰より尊敬してくれてると思っていたのに守るべき弟とは屈辱だ。
ふとティダがラステルに頭を下げた時のことを思い出した。相手を認めるしかないから不満でも場をおさめるために渋々頭を下げた。自分はもっと偉大だという自負を抱えながら、頭を下げないと誇りを失うという屈辱。同じ状況ではないが、多分似ているのではないだろうか。
「パズーを?」
「孫を?」
ウルとモトロの声が揃った。
「そうです。当然です。私とセリムの命の恩人。蟲の大群にも屈強な戦士にも怯まずに立ち向かい見事に穏やかな平和を結んだ立役者。大嫌いで恐ろしくて怖くても背を向けずに受け入れる広い心。同じ道を目指すセリムと共に歩んでくれます。さすがセリムの大親友にして
高らかに宣言したラステルにパズーも含めて全員が目を白黒させた。特にパズーの家族はさっぱり理解出来ない様子だ。ラステルは何も説明してないから当然だ。パズーは言葉も表情も失っている。
セリムは吹き出した。ラステルは"私の大親友"に一番力がこもっていた。余程嬉しかったのだろう。ラステルがセリムとパズーを横並びにしてくれたことだけは安心した。
「ラステル。この度の話をどう説明するか王達が決めてる途中だ。可愛い唇をしっかり結んで自重してくれ」
セリムは立ち上がってまだ何か言いそうなラステルに耳打ちした。ラステルが赤くなって固まった。
「まあパズー。昔からセリム様の背中を追いかけていたから安心していたけど出世し過ぎて頭が追いつかないわ」
パズーの母親トエルが皺だらけの顔をさらに皺くちゃにした。年老いてからやっと無事に産まれた一人息子。連れて行って良いのだろうか?パズーは大きく頷いている。
「母さん。いえ母上。立派な男になって偉大な娘を嫁にします。しばしお待ちください。体を大事にし息子そっくりな臆病なのに勇敢な父と祖父が暮らす家をお守りください。申し訳ありませんが僕の家も頼みます」
立て膝になるとパズーがトエルの手の甲にキスした。
「あー、でも家賃とかどうしよう」
うへぇとパズーが呻いた。色々と台無しだ。
「ははっ!そんなの王族が永久保存に決まってるだろう。城塔の部屋を与えても良いけどね。余ってるんだし目付けってことは城爺だからな。どうする?」
「マジで!そっちが良い!」
まだ状況が飲み込めていないウルとモトロにセリムは片膝ついて頭を下げた。隣にラステルが同じように両膝をついた。それからラステルはウルとモトロの手を取って握りしめた。
「平穏から離れるかもしれませんが私達夫婦の我儘をお許しください。必ず守ります」
セリムよりも早くラステルが口にした。
「逆だろラステル。それに僕はあの馬鹿力に弟子入りするから大丈夫さ」
パズーがラステルの手首を掴んで引き剥がした。
「よろしくラステル。セリムが頼りにならない時は任せろ。僕が頑張ればセリムはもっと励むさ」
完全にパズーにしてやられたがセリムは徐々に悔しさよりも幸せを感じた。ここまでの友を持てる王子なんて早々いない。王子でなくても中々いないだろう。
偉大な妻に大親友。絶対に守りたいものが増えてしまって恐怖に足元をすくわれる時もあるだろう。
帰国祝いの宴でユパがパズーをセリム直属の側近に指名した際はラステルに捧げた言葉を押し付けてやる。ラステルは感嘆してご機嫌になるし、パズーへの重しだ。崖の国の機械技師の肩書きから崖の国のセリムの目付役への出世。絶対にペジテの至宝や孤高の大狼兵士よりも風詠セリムが平和の使者だと名を馳せてパズーの役割を大重圧にしてやる。
目が合ってセリムの思惑に気がついたらしいパズーがひいっと小さな悲鳴を上げた。それから怯えた顔で威風堂々と胸を張った。
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