ラステル・レストニアの若草の祈り歌

 総司令室の望遠鏡画面に映るセリムの小さな姿をラステルはずっと見つめていた。白い獣を撫でた時、きっと子どもみたいに目を輝かせていただろう。あれがきっと大狼だ。ペジテ大工房への道すがら、何度も何度も見てみたいと口にしていたセリムの笑顔を思い出すと泣き出しそうだった。


「ラステル、大丈夫?」


 パズーの方が辛いだろう。ラステルよりもずっと長くセリムと一緒だった。手の届かない場所、いつ死ぬかも分からない所にいる。


「平気よ。見てセリムったら馬に夢中よ」


 大鷲凧オルゴーで飛ぶと言っていたのにドメキア王国軍に混じって馬に乗っているセリム。怯えて怖がる蟲の行進の後ろにいるであろう唄子をいつ撹乱するのだろう。ラステル一人で対抗するにはセリムの陽動が必要だ。それにある程度、音が届く距離も必要。ティダから聞いた作戦によればまだまだ争いは起きない予定だが、今すぐにでも唄子として働きたい。不安で押しつぶされそうだ。


「ラステルさんも災難だな。セリムはいつも巻き込むんだ」


「あら、セリムが私に巻き込まれたのよ」


 どちらもだと思う。出会うべくして出会った。運命だと思いたい。蟲がラステルを多羽蟲蟲の王の仲間だと認めているのならば、ラステルは蟲を導けるはずだ。化物ではなく偉人だと言ってくれたたった一人の為に生きたい。


「それにしても蟲森で暮らしてるって驚いたよ。それに蟲を操る術なんて。そりゃあセリムが気にいるわけだ」


 意外にもパズーはすんなりラステルの出自を受け入れてくれた。先入観のなさはセリムと通じるところがある。彼等が単なる幼馴染ではなく親友というのはしっくりくる。


「あら、私はセリムにとって珍獣と同じ扱いなのかしら?」


「かもね。珍しい上に可愛らしけりゃ鼻の下も伸ばすさ」


 こんな状況で顔色は悪いのにパズーは屈託

なく笑った。テト、貴方の想い人はとても素敵な人だ。ラステルも笑い返した。


「ありがとう。セリムに言われるよりも真実味があって嬉しい……そうよテト!」


 大切な事をパズーに伝えていなかった。


「そういえばテトの話をしていなかったな。ラステル様、私から話しましょうか?」


 ラステルの横で剣を握りしめてピタリと背後から離れないハクが口を開いた。


「ラステルでいいってば。あのねパズー、テトなんだけど」


「あー、その顔は悪い話?」


 みるみる顔を青くしてパズーが俯いた。


「ううん!でもパズーからみたらそうかも。その、あの、テトは今私の故郷にいるの」


「何だって!!」


 総司令室中にパズーの絶叫が轟いた。ヤンとその部下達の視線が集まった。ジロジロと見られるがパズーは気がついていない。


「崖の国からの友好を示す使者としてタリア川ほとりの村へ行くって。姉様と婚約者、それにお父さんと蟲達がついているから大丈夫だと思うけど。テトから伝ご……」


 物凄い剣幕でパズーがラステルの両肩を掴んで体を揺らした。


「蟲達ってどういうことだよ!」


 パズー相手なら迷う必要はない。そう信じたい。ラステルはなるべく周囲に聞こえないように小声を出した。


「私変な女なの。蟲に蟲だと思われている。それで私は蟲に頼んだの。テトの事を守って欲しいって。蟲は承諾したってセリムとイブン様がそう言っていたわ」


 一瞬パズーが固まった。離れるかと思ったのにパズーはラステルに一歩近寄って囁き声になった。


「セリムが蟲の声が聞ける⁈」


「つい最近みたい。崖の国へ蟲が来たでしょう?あの後だって。理由は分からないらしいの」


 知りたがりのセリムが疑問を口にしないのでラステルはセリムが理由を知っていると踏んでいる。いつか話してくれるだろうと信じて、沈黙に土足で踏み込むことはしていない。


「イブン様って誰?」


「姉様の婚約者よ。ホルフル蟲森では地位がある。その方もテトを庇護してくれているから大丈夫よ」


 しばらくパズーは黙り込んだ。それから顔色を良くして面をあげた。


「つまりテトに強力な護衛がついてるって事か。凄いよラステル」


「怖くないの?多分、化物よ私」


 返答がどうであれ表情や態度で分かる。見るのが怖くてラステルは足元に視線を落とした。


「セリムの奥さんだろ。こんな可愛い化物いるかよ。それにテトが信じた人を疑うか」


 ハッとラステルはパズーを見上げた。そう言いながらパズーの顔は引きつっている。しかし胸を張って精一杯ラステルに向き合ってくれた。こういう崖の民の気性をラステルは好ましく感じる。まずは真心を。セリムが崖の国を誇り、愛する理由がよく分かる。


「私、その誇りを忘れない。テトに恥じない女でいるわ。この美しい地を緑の血で汚させない。鮮血を流させない。絶対に」


 チラリと望遠鏡画面を見るとセリムの姿が少し大きくなっていた。月毛色の馬に跨るセリムの顔は何故か楽しそうだ。蟲森での騒動といい、緊張感が足りないのでとても心配になる。


「テトの奴、とんでもない女だな。置いて行くんじゃなかった」


「とてつもなく良い女よ。さっさと求婚しないから」


 パズーの頬が痙攣したようにひくついた。


「僕は別にテトとか。そんなんじゃ。それにしてもアシタカの奴遅いな」


 パズーが話をすり替えたのでラステルもそれ以上は何も言わなかった。罵られる覚悟があった。恐れられる決意をしていた。それなのにパズーはそんなものを軽く飛び越えてくれた。心の底でパズーなら大丈夫と感じていたけれど、事実だと判明すると喜びはひとしおだった。崖の国でテトとパズー夫婦(予定)だけはセリムとラステルを本心から祝福してくれるだろう。それが涙が出そうなほど嬉しい。


「すまない遅れた。大丈夫か?」


 勢いよく総司令室の扉が開いてアシタカが飛び込んできた。汗だらけの顔に荒い息。よほど急いで来てくれたらしい。後ろからブラフマー長官が現れた。こちらは涼しい顔をしている。


「良かったアシタカ!そろそろだ!何でかセリムは馬に乗って遊んでるんだよ」


 パズーが望遠鏡画面の一つに指を伸ばした。にこやかなセリムが颯爽と馬で雪原を駆ける。


「よく分からない男だな」


「いつもそうさ。考えてないようで考えてる。でも考えているようで考えてない」


 ラステルは妙に的を得ていると思って思わずクスリと笑ってしまった。アシタカは呆れたようにセリムの姿を眺めていた。しばらくしてから口を開いた。


「ヤン、護衛ご苦労。全国民に避難命令が出ている。地下室へ行って構わない。ありがとう」


 名前を呼ばれたヤンがアシタカの前まで移動した。


「アシタカ様の友人セリム殿から作戦を聞きました。ここに残る者は崖の国の民を守ります。ペジテの誇りにかけて」


 アシタカが目を丸めた。


「いつも通りだよセリムは。みんな……セリム!」


「セリム!」


 事情を説明しようとしたパズーが叫ぶのとラステルがセリムの名を叫ぶのは同時だった。灰色で分厚い雲に向かって青々とした煙が上がり、セリムが蟲の行進へ向かって駆け出していた。


「早くないか?」


 パズーが眉間に皺を寄せた。ラステルはずっと握っていたペジテの縦笛をさらにキツく握りしめた。手汗がずっと止まらなくて、縦笛が滑り落ちそうになったので服の裾で汗を拭った。肝心な時に指が滑ったら台無しだ。


「ドメキア軍はあの紅旗の第四軍にペジテへ攻撃させる。ペジテからの反撃で蟲を怒らせる。逃げる四軍に逃げ道を与えずに味方もろとも蟲をペジテへ襲撃させるんだろう?セリムはラステルの唄子っていう術が届くようにギリギリまでペジテに近づくって……」


 セリムが後方の蟲の群れへと向かって行く。


「アシタカさん。私、初めます。あの軍に何人唄子がいても負けません。必ずセリムを守ってみせます」


 準備されている音響拡散器スピーカーと繋がるという機械の前に立った。アシタカがその機械に触れる。なにやら動かしたようだ。


 縦笛に口をつける。蟲の気を引く音階は何度も父に教わった。今蟲を惑わし、混乱させて誘導している唄子と同じであろう調べ。こっちの音を聞け。私の調べに惑え。


 望遠鏡画面の向こうでは相変わらず蟲の群れが黄色い瞳を点滅させている。さあ聞いて。私の調べこそが指令である。ゆっくりと音階を変える。


「点滅の仕方が変わった?」


 アシタカがラステルと望遠鏡画面を見比べながら呟いた。セリムが駆けた場所からもくもくと煙が上がっていく。第四軍だというドメキア王国の紅旗を翻す兵士たちが霧散していった。セリムが大鷲凧オルゴーで飛行し始めた。セリムの乗っていた馬がこちらの方へ走ってくる。


 ラステルは縦笛を隣にいるハクに渡した。一歩前に出る。


 腹の底から唄子声を出す。


 出会ったばかりの頃セリムに蟲だと思わせると言ったが、ラステルは違う。蟲に蟲だと思われている。本当の意味でラステルの唄子声は仲間からの声。


 緑連で自分だけは異質だと感じていた。必ず蟲が従う。それは隠さなければならないと父に強く言われて、滅多に使ってこなかった。


〈テルム〉


 そうだ。テルム。


〈テルム〉


 声を出すたびに、音を変える度に胸の奥に響いてくる。テルムとは何なのだろう?


 蟲森でセリムが風と呼んだ。テルム


 それならどうかテルムよ届けて欲しい


 愛しい者への祈りの唄


 しかし蟲の群れにラステルの声は届かないのか、効かないのか止まらない。確かにこちらの唄子唄に影響は受けているようだが、隊列が乱れただけで雪の大地を小さく右往左往している。


 セリムが蟲の後方へと飛んで行く。


 風を切って飛行する様はペジテへ一人向かって行った時と同じように見えた。ドメキア王国軍の標的になっている。


 早くしないと。


 早くしないとセリムが死ぬ。


 必死に声を上げて願いを込めても蟲の瞳は若草に戻らない。


 お前達を縛るものはない。


 故郷へ帰ろう。


 勝手に命令する者よりも私の唄を聞け。


 美しく静かな森へ帰ろう。


 私と共に。


 早くしないとセリムが。


 お願い。


 激しい爆発の柱が上がった。大鷲凧オルゴーが爆風で吹き飛ぶ。


「セリム!」


 ラステルが叫んでも遠すぎる。


 何も出来ない。


 望遠鏡画面の向こう、爆発の煙とセリムの撒いた煙幕にちらちらと黄色と赤が点灯した。


 憎い。


 憎い。


 なんて憎い。


 私の愛する人を奪おうとする。


 私達を利用しようとする。

 

「ラステルさん!落ち着いて!」


 何か聞こえたけれどよく分からなかった。


〈姫〉


 見上げると仲間が飛んでいた。


〈審判〉


 テルム。


 そっと手を伸ばすと仲間がラステルの体を抱きしめた。


「----!」


 人間が何かを叫んでいる。


 ラステルには理解出来ない。


 憎い相手の事など理解出来ない。


〈どうする?〉


 ここの人間は何もしていない。


 手を出すべきではない。


〈王が待っている〉


 ラステルは小さく頷いた。


***


 アシタカの背筋が凍った。不思議な唄を歌っていたラステルの瞳が若草から徐々に赤が混じっていくことに。そして望遠鏡画面の向こうでセリムが爆撃に吹き飛ばされた瞬間、新緑は真紅へと変色した。


 柔らかな愛らしい少女の気配は姿を消した。


 身に帯びるのはけたたましい憎悪。


 激しい炎のように燃え盛る憎しみ。


 まさに激情。


--蟲愛づる姫の瞳は深紅に染まり蟲遣わす


「ラステルさん!落ち着いて!」


 アシタカの叫びとほぼ同時に総司令室に衝撃が走った。揺れのせいでうまく立てない。何度も激しく何かがぶつかる音が続き、ついには壁に大きな風穴が空き、蟲が飛び込んできた。姿形は様々だがみな一様に赤い瞳をしている。


 ラステルの体を恭しく取り囲む蟲の群。パズーが恐れで床に縮こまり、ハクが震えながら剣を身構える。ヤンと護衛人が銃を向けるが中心にラステルがいるので手を出さない。強風と共にひときわ大きな多羽蟲ガンがラステルの背後に現れた。鉛色の身体に真紅の三つ目。羽は十三?大技師に伝わる書物で見たことが無い羽の数。


 多羽蟲蟲の王


「ラステル・レストニア!セリムは無事だ!戻れ!正気に戻れ!」


 アシタカの呼びかけに何の反応もせずにラステルは背中を向けた。


 それどころか子供が親に抱きつくように多羽蟲ガンに向かって両手を伸ばした。


--王は裁きを与え大地を真紅で埋める。

 

 かつてテルム達が作り出した蟲を愛した娘は女王として君臨し、世界を破壊しかけた。


 蟲と女王を殺すために毒が撒かれ人は自らの首を絞め住処を失いかけた。


 テルムは贖罪の都市ペジテを建国し蟲と女王の秘密を隠匿したという。


 大技師だけが知っているという秘密を何度も隠れて見ようと調べた真実のかけら。


 ペジテ大工房の伝承の真実を知りたかった。


 父が時折穏やかに話すテルムの罪、ペジテの贖罪。


 狭苦しい偽りの庭よりもドームの外の大自然に焦がれた。


 風と共に生き、大地を踏みしめて暮らそう。


 罪が全て洗われるとその時は訪れる。


 生き残った蟲に手を出してはならない。


 決して。


 蟲を利用するなかれ。


 決して。


 大技師一族の伝承の詩が鮮やかに蘇った。


 ラステルは蟲だ。何人足りとも彼女を利用してはならなかったのだ。蟲に愛される蟲姫

だと油断した。


 ラステルは蟲の女王だ。いやこれからそう変わる。まだ人であった姫が蟲へと変わり女王として君臨する!


 ラステル・レストニアは救世主ではなく破壊神となる。毒婦ではなく無垢な化物。


 予感はしていた。


 警鐘はあった。


 しかし希望を抱いてしまっていた。セリムとラステルの絆の強さを信じた故に、その絆が破壊をもたらす。なぜそこに思い至らなかった!


 何故ヌーフにすぐさま彼女を会わせなかった⁈アシタカの使命はきっとそれだったのに俗世の争いに目を奪われて今の今まで気がつかなかった。


〈テルムは産まれ再審判の時〉


 どこからともなくアシタカの脳内に声が響いてきた。


 父と同じ力を発現したというのにそれが希望ではなく絶望の知らせというのが皮肉めいている。


 俗に誘惑された息子。


 テルムは再び道を踏み外した。


 怒り狂った蟲に宝物のようにラステルが運ばれていく。アシタカが手を伸ばして名を叫んでもラステルは微動だにしなかった。


 両眼に嫌悪の獄炎をたぎらせて遠ざかっていく。

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