大狼兵士と崖の国の妃

 大狼兵士ティダ・ベルセルグ。前がガラスかそれに類する透明で顔全体を覆う兜のような物を被っている。アシタカに似た肌の色。面長で切れ長の凜とした目が印象的な男だ。想像通りの鋭く頑なな瞳をしている。しかしどうしてだかその黒い瞳が急に困惑の光を帯びた。


「セリム!済まなかった!大丈夫か⁈」


 首を動かすのもしんどい。アシタカの声にセリムは顔を向けることが出来なかった。


「おい!大丈夫か!」


 ティダが鋭い眼光を取り戻したと同時にぐるりと体を回した。ティダと同じ兜を被って転びそうになりながら大声を出して駆け寄ってくるアシタカの姿と、その後方ですっ転んだパズーらしき男が見えた。


「色々あって勝手に来てしまった。手荒いなペジテは……」


 安心したのか脱力感に抗えない。早くラステルとハクを迎えに行かなくては。そして一刻も早くペジテ大工房前の争いの火種をどうにかしなければ。なのに痺れが酷くて指一本動かない。


「本当に済まない。ティダ。僕が変わろう。早く医務室へ」


「構わん。このまま連れて行こう」


 少し震えた声を出したティダがセリムを抱えながら歩き出した。


「おいセリム!生きてて良かった!なんて無茶するんだ!撃たれた時は死んだと思った」


 そばかすの目立つどちらかというと日焼けしていない白い顔が更に蒼白だ。涙でぐしゃぐしゃに頬を濡らすパズーにセリムは大丈夫だと笑いかけた。ますますパズーの眉間に皺が寄った。


「おいパズー、あの縁起の良い兜を持ってきてやれ」


 パズーが口を開きかけた時、ティダが顎で後方を示した。


「あれが無かったら死んでた。優秀な狙撃手が居るんだな」


「何を呑気な事言っているんだ!死ぬところだったんだぞ!」


 呑気なんじゃなくて疲労と安心、それに痺れで力が出ないとパズーに言いたかったが声を出すのも辛くなってきた。瞼が重い。


「急ぐか。揺れるが辛抱しろ」


「山脈麓……ラス……テル……」


 セリムは力なく呟いた。糸が切れたように視界が真っ白になって意識を失った。


***


 セリムの前で緑色の血飛沫をあげた黄色い三つ目。そしてラステルの憎しみの赤い瞳。


「ラステル!」


 叫ぶと同時に視界が開けた。白い天井と左手に感じる温もり。覚えのある滑らかさだった。


「セリム!」


 聞き慣れたラステルの声には悲痛がこもっていて、セリムの顔は自然と動いた。もう体を動かすのは辛くなかった。セリムは飛び起きてラステルを抱きしめた。生きてる。死ななかった。全身が小刻みに震える。今頃恐怖が襲ってきてセリムは深く息をした。


「生きてた……生きてる……」


 セリムはラステルの首筋に顔を埋めた。花のような匂いに全身を包む体温。確かに生きている。


「どこか痛いところない?何が辛い?動いて大丈夫?」


 セリムの体を押しのけるように離れたラステルが矢継ぎ早に質問した。セリムは空いている右手を持ち上げて握ったり開いたりして確認したが問題なさそうだ。微笑みを浮かべるとラステルがブワッと大粒の涙を零した。セリムはラステルの頭を右手でそっと撫でると繋いだ左手に力を入れた。


「オホン」


 わざとらしい咳払いがしたので目線を移動させるとラステルの背後にパズーが立っていた。青い瞳の周り、白目が真っ赤に充血している。


「やあパズー。良かった元気そうで」


 素直な感想だったのにパズーは鬼のように眉毛を釣り上げて近寄ってきた。その手にはセリムの兜が握られている。王家の紋章飾りに弾丸がめり込んでいた。やはりそうか。自らの幸運、風の神の加護に感謝するしかない。


「大馬鹿野郎!死んでたぞ!」


「少し迂闊うかつだった。まさかあそこまでの敵意を向けられるとは驚いたよ」


 ラステルから奪うようにパズーがセリムを抱きしめた。それから耳元で馬鹿野郎と震えた声を出す。


「それからよくも公務を投げたな。お陰で僕はペジテにいる!戦争間近の!隠し事しすぎだろ!」


 ゆっくりと体を離したパズーがセリムを睨みながらポロポロと泣いて「本当に死ななくて良かった……」と呟く。パズーはおいおいと声を上げ始めた。隣ではラステルが目元を手の甲で拭いながら泣き続ける。セリムは苦笑して二人の頭を交互に撫でた。二人の後方でアシタカが申し訳なさそうな表情で俯いている。隣でハクが泣かないとしているのか顔を斜め上にあげて口をへの字にしていた。その奥に腕を組んで壁にもたれかかるティダが険しい顔をして床に視線を落としていた。


「アシタカ。僕はどのくらい寝ていた?ペジテ前方で野営している者達がいる。その奥に蟲の群れがいた」


 まだ少し恐怖で体が震えるが、過ぎたことだ気にするなと伝えたくてセリムは精一杯笑いかけた。アシタカは目を丸くしてそれからさらに申し訳なさそうに顔を歪めた。


「一時間程。ラステルさんとハクさんを迎えて戻ってきたばかりだ」


「そうか。あの野営の軍に避難指示を出したい。あと蟲を止める方法を考える」


 顔を上げたパズーが信じられないという目でセリムを見つめた。アシタカとティダも同じだった。それからハクが嗚咽し始めた。ラステルだけは怯えた表情ながらも小さく頷く。ティダが壁から離れて近寄ってきた。それから立膝になってセリムの顔を覗き込むように見上げる。


「我が妻率いるドメキア王国の第四軍だ。あれは放置して良い。蟲を迂回して後方のドメキア第二軍と衝突する算段だ」


 冷めた声とは反対にティダの目にはメラメラと炎が燃える。強い決意と敵対心を感じてセリムは体を強張らせた。


「どういうことだ?」


「我が第四軍はこれから本国に反旗を掲げる。蟲の怒りを味方にし第二軍へぶつけて勝利を掴む。ペジテには関係ない戦にさせる。いや、必ずそうする」


 その意味を全部は理解できないがセリムは怒りでティダに掴み掛かりそうになった。それより先にラステルがティダの両腕を伸ばしてティダに手首を掴まれた。


「なんて酷い!あの子達を道具にするなんて!」


 セリムはラステルを後ろから抱き竦めてティダを睨んだ。セリムの腕の中で力強くもがくラステルを抑えているとティダがそっとラステルの手首を離した。ラステルの白く細い手首に赤黒い跡がついている。


「あの子達?」


 ティダは不可解そうだ。


「そうよ!関係無いのに!あんなに怯えているのに酷いわ!道具にするなんて極悪非道よ!」


 細い体のどこにそんな力があるのかというくらいラステルは暴れた。腕がティダを殴ろうと空を切り、掌がティダの頬を払おうとするがティダは軽く体を逸らして避ける。益々ラステルが暴れた。


「ラステル落ち着け。僕が何とかする。僕と君で何とかしよう。な?落ち着け」


 セリムはきつくラステルを抱き締めながら片腕ずつラステルの腕を捕まえた。探るような視線でティダはラステルを眺めている。


「許さない!こんな酷い仕打ち……絶対許さない……」


「そうだ。許されない。だから落ち着いて考えよう」


 怒りで体を震わせていたラステルが少しずつ大人しくなった。しかしセリムがそっとラステルを離した途端、ラステルはティダに飛びかかった。


「ラステル!」


 意外にもティダはそのままラステルに押し倒された。馬乗りになったラステルの腕が天井に振り上がったまま停止する。


「殴らないのか?」


 明らかに戸惑っているティダの上でラステルは激怒で震えながら拳を振り上げたまま下ろさない。セリムは寝台から降りてラステルの横に屈んだ。憎悪に燃え盛る赤い瞳とセリムの愛する若草の緑が交互に揺れている。


「貴方の誠意に免じて、そして誇り高き夫を汚さぬ為にラステル・レストニアは……貴方を殴りません……」


 振りかざしていた震える腕をそっと下ろしたラステルの目は、瑞々しく美しい芽吹いたばかりのような緑だった。憎々しげな表情のままのラステルからポタポタと涙がティダの顔に落下していく。思わぬ妻の発言にセリムは息が詰まった。感動して泣きそうになる程胸が熱い。ティダが心底驚いたという風に大きく目を見開いてラステルを見上げていた。


「夫⁈ラステル・レストニア・・・・・⁈」


 パズーの悲鳴に似た叫びが部屋にとどろいた。全員がパズーに注目して場の空気が変わった。張り詰めていた場の雰囲気がプツンと途切れて弛緩する。


「ど、ど、ど、ど、ど、どういうことだよ!あれから、あーっと5日?はーーーーっ?」


 今はそんな話をしている場合ではないとセリムはパズーに向かって首を横に振った。ぽかんとしていたラステルがティダの上からどいて立ち上がりパズーの前に移動した。


「パズーとアシタカさんが出発した後に結婚しました。この通り未熟で不束者ですがよろしくお願いします」


 ラステルはパズーに向かって深々と頭を下げた。それから何故かアシタカにも頭を下げた。怒りを鎮めて冷静になる為か?パズーは呆然とした様子なのにラステルにつられたのかラステルと同じように深く体を折り曲げた。アシタカは驚きの表情で固まって瞬きを繰り返している。


 ティダがそっと立ち上がった。その酷く打ちのめされたような弱々しい表情にセリムは驚きつつも安心感を抱いた。ティダがラステルの肩にそろそろと触れる。ラステルがビクリと体を跳ねさせたがセリムは動かなかった。ティダはラステルに手を出したりしない。振り向いたラステルの顔は怯えていたがティダの触れ方で何か感じたのか無防備に立ったままティダを見つめた。セリムは立ち上がって二人の脇に移動した。


「俺の誠意とはどういうことだ……?」


 ティダが少し屈んでラステルの顔を覗き込む。ラステルは顔を背けて俯いてティダを見なかった。唇を真一文字に結んで震わせている。


「憎しみで殺すよりも許して刺されろ」


 小さく呟いてからラステルは胸を張ってティダに視線を移した。憎しみでも悲しみでもなく見下すような表情。


「殴られようとする者にそのまま手を挙げるなど恥です。貴方を誇り高き者と信じただけです」


 吐き出した言葉とは真逆で、ラステルの発言には軽蔑の色が滲んでいた。ティダの顔が引きつった。


「私は夫と戦を止め蟲を森へ帰します。どうか協力してください。知っていることを話してください」


 両手を握りしめてラステルはティダの足元に両膝をついて祈るように軽く頭を下げた。どうしてだかティダの血の気が引いていく。拒絶なのだろうか。セリムもラステルの隣に同じように膝をついて頭を下げた。


「ティダ・ベルセルグ皇子。他国の抗争に首を突っ込む野暮はしたくないが争いは別の戦争を起こす。どうか穏やかな道を共に考えて下さい。敵も味方も関係ない。人も蟲もだ。どれも尊い命。貴方の誇りに相応しい決断をお願いします」


 しばしの無言の後にティダが乾いた笑い声をあげ、それから絞り出すように声高に笑いした。長く続いた大笑いはふっと途切れた。


「崖の国のセリムの妻ラステル殿!我が気高き魂が穢れるところだった。礼を言う。どうか無礼をお許しください」


 セリムとラステルが顔を上げるとティダはゆっくりと腰を下ろして胡座をかいた。血管が浮き出るほど強く両方の拳を握りしめて膝の横の床に突き立てた。それからセリムとラステルよりもずっと低く、床に額がつくまで体を折り曲げた。


 ああやはりラステルは僕には偉大すぎる誇りオルゴーだ。ラステルの白く凛とした横顔を見つめていると自然と笑みが浮かんだ。

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