後夜祭での誓い
大広間の前方に設けられた王族の席の少し後方。護衛兵が集まる席でテトはぼんやりと髪飾りを眺めていた。ラステルが頭に飾る花のような形の襞をした髪飾り。形はそれと同じ。色はテトの好きな紅。それを支える銀色の金具の裏には羊の刻印が彫られている。
「すまないなテト。パズー今年こそはと意気込んでいたのに。」
隣でセリムが心底悪いというようにしょんぼりとしている。我が国の王子様は変わっている。普段は凛々しく逞しいのに時折人が変わったみたいに幼くなる。こんな風に一人一人に心を寄せる。崖の国の民みんなの兄で息子で孫。そして時に弟。パズーではなくセリムがアシタカに連れていかれていたら昼間の大広間の大騒動どころではない。国中の者がレストニア城に押しかけるかもしれない。セリムはその思慕をよく理解している。その中に混じる恋心というのにはとことん鈍いようだが。
「信じないわ。」
テトは立ち上がってニッコリと笑ってみせた。セリムとラステルが顔を見合わせて首を傾げた。
「だって直接聞いていないもの!帰ってきて私に何か言うのを待ってる?待たないわ!こんないい女を約束もなく放っておく方が悪いんだもの!」
強がりだけど本心だ。別れの餞別に髪飾りを贈られたって困る。欲しいのは今目の前にいるラステルのように、惚れた男に手を繋がれる事だ。
「いい加減手を離したら?みんな見てるわよ。」
隣で護衛兵と葡萄酒の飲み比べをしていたラファエがドンと空になった器を机に置いた。次々と護衛兵の男達をのしている。泣きつかれたのか前方から護衛兵に呼ばれた
「情けない男たちだ。こんな美人にしてやられて。いや美し過ぎて酔いが回りやすいのかな?私が勝ったらそうだな、素敵な夜の旅へ案内しよう」
ラファエの手を取ってクワトロがその滑らかで白い手の甲に唇を落とそうとした。先の丸まった口髭がラファエに触れる寸前でセリムがクワトロの服を引っ張って止めた。
「兄さん。これ以上側室を増やしたら妃達に後ろから刺されるよ」
セリムが冷ややかに告げた。振り向いたクワトロは既に酒臭い。エルバ連合の王達が軒並み苦しそうにしていた。クイやケチャが介抱している。クワトロは王達と飲み比べて勝ったのだろう。男というのはどうしてこうも酒や女が好きなのだろうか。パズーも去年舞踏大会で鼻の下を伸ばしていた。思い出した苛立ちで髪飾りを握っている左手に力が入った。
「おお!我が弟よ。野暮は卒業したようだな?何度見ても可愛い方だ。どれ兄が感謝の抱擁を……っ痛!」
手を広げてラステルに近寄るクワトロの前に立つとセリムがクワトロの髭を引っ張った。多分思いっきり。
「痛い!痛い!冗談だろう?兄になんてことを!」
涙目でクワトロはセリムの肩を叩いた。
「酔い過ぎですよ。セリムのお兄様」
ラステルが水の入った器をクワトロに差し出す。クワトロは惚けた顔をしてからラステルの両手を握った。
「良い。もう一度言ってくれ。セリムのはいらない。お兄様とだけ」
ラステルに近寄ろうとしたクワトロの脛をセリムが蹴った。また思いっきりのようでクワトロの体が痛みで弾んだ。
「痛いって!」
「セリム!少し酔っているだけよ。暴力なんて酷いわ」
「ラステル!兄さんはこんなもんじゃ酔ったりしないよ!近寄ってはいけない」
ラステルを後ろから抱き締めてセリムが番犬みたいにクワトロを威嚇する。酔っ払っている護衛兵がもっとやれと囃し立てた。ラステルがセリムの腕から抜け出してテトの隣にきくる。セリムはまだガルガルと唸りだしそうなくらいクワトロを睨んでいた。セリムってあんな顔をするんだと幼馴染の意外な一面に面食らう。喧嘩は良くないわとラステルが腕を腰に当てて二人を諌めたが聞こえていないようだ。
「よしセリム。今年こそは勝負だ。いつもいつも逃げおって。兄の晩酌くらい付き合え。」
セリムはいつでも出動出来るようにと余程のことが無い限り酒を口にしない。
「分かりました。僕が勝ったら飛行機を一機もらいますよ。」
応戦するのか。テトはまた面食らった。
「なんと自信家!
セリムはラファエが置いた器を掴んだ。
「煩いな。兄さんとは違って噛まれなくたってそんな事しない。」
「目に入れても可愛いってか?ははは!愉快だぞ!お前のそんな顔は!大きくなったな!
クワトロがセリムを羽交い締めにして癖毛をくしゃくしゃと撫で回した。護衛兵がまたまた囃し立てる。セリムはクワトロの腕から抜け出してラステルに器を握った腕を伸ばした。
「ラステル。数えて。」
甘えるような声を出したセリムがラステルに腕を伸ばして器を傾ける。ラステルが困ったように葡萄酒を注いだ。なんだあの甘い声、背中がむず痒い。ラファエは愉快そうにクワトロに葡萄酒の瓶を渡していた。手酌で葡萄酒を器に注ぐとクワトロはラステルを見つめた。
「俺が勝ったら一晩借りるぞ!」
「駄目に決まっているだろう!僕も触っていないのに!」
言い終わってからセリムが真っ赤になった。テトの隣でラステルがセリムを睨んで全身を桃色にしている。二人の頭から湯気が出ているようだ。
「おやまあ。おやまあ。律儀な弟だからな。ではさっさと誓いを立ててもらおう。こんな可愛い娘さんを指を咥えて見てたら
「きちんと手順というものが……。」
セリムは真っ赤なままラステルをチラリと確認して今度は青褪めた。真っ赤なラステルが怒っていると思ったのだろう。ラステルは首を横に振ったが、それでますますセリムは顔を青くした。浅黒い肌が蒼白に変わる。意思疎通が噛み合ってない二人は互いに青くなっている。護衛兵が吹き出して笑い出す。クワトロ様!という歓声とセリム様負けるなという応援合戦が始まった。
舞台の上では民族舞踏を披露する山岳地域の者達が迷惑そうにこちらを睨んでいる。しかし騒ぎの中心はクワトロとセリムという王子達。仕方がないと文句の一つも言わないで踊りを続ける。
ユパが一瞬こちらを見たが諦めたようにため息をついて何やらアスベルに耳打ちした。騒ぎがひどくなったらアスベルが止めに来るに違いない。それまでは黙認という事だ。
「構わん構わん。嫁を取らんと思ってたんだ。どうせ持ってくる縁談も飛んで逃げるんだろう?いつも通り好き勝手やればいいんだ。根回しようとしていたんだろうがユパ兄そっくりだな。セリム俺が勝ったらとっとと舞台へ上がってもらうぞ!」
「望むところです!飛行機はもらいます!」
すっかり頭に血が上ったのかセリムは挑発に乗って、クワトロが出してきた本当の条件をあっさり飲んだ。二人は葡萄酒の入った器を高く持ち上げた。まずはクワトロが一気に葡萄酒を飲み干す。
いーち!
護衛兵が合唱する。
「セリム。ゆっくり飲んでね。」
まだ頬を赤らめているラステルがセリムに向かって応援するように拳を握った腕を振った。セリムの顔に少し血色が戻った。ゆっくりと葡萄酒を飲んでいく。
「あのセリムがねえ。」
いつの間にか後ろに立っていたポックルが腕を組んでいた。その顔は満面の笑顔だ。
「ラステル。彼がポックルよ。」
「初めまして。ラステルです。セリムから仲の良い御友人だと聞いています。」
ラステルがにっこりと微笑んで右手を差し出した。ポックルは見惚れている。そういえばポックルの好みは大人しそうで柔らかな雰囲気の女の子だ。本当のラステルはちっとも大人しくないけれどとテトは笑ってしまった。
後ろでにー!っと合唱が響いてそれからセリムの「ラステル次。」という声がした。ラステルが葡萄酒を注ぎに行ってまた戻ってくる。ラステルの背中越しにセリムがポックルを妬ましそうに睨んだ。ポックルは声を出さずに「あほう。」と口の形を変えた。ラステルが不思議そうにセリムの方へ振り返ると、セリムはヒラヒラと嬉しそうに手を振った。焦点の合わない目。もう酔っ払っているのかもしれない。
ラステルが改めてポックルに腕を差し出した。ポックルは両腕を胸の前まで上げて握手を拒絶した。傷ついたようなラステルにポックルは首を大きく横に振った。
「触るだけで怒られそうだ。パズーの代わりにこんな可愛い子を連れてくるなんてやるなセリム。」
「そうね!ラステルの方がパズーよりずっといいものね。」
不意に出たパズーの名にテトは心配で泣きそうになって強がりの発言をした。墜落していないだろうか。眠る時間はあるのだろうか。お腹は減っていないのだろうか。何故テトに髪飾りを置いていったのか。行かないで欲しかった。
「ちょっと行って帰ってくるだけよ。パズーさんは。だから心配しないで笑って待ってましょう?」
ラステルがテトの背中をそっと撫でた。ラステルに睨まれたポックルがあははっと空笑いをした。
さーん!
「ラステルゥつぎぃ!」
語尾がさらに甘ったるく伸びたセリムの声。おかげでテトは愉快な気持ちになった。セリムがここまであっけらかんとしているのだからパズーは無事に違いない。そうに決まっている。呼ばれたラステルがセリムの器に葡萄酒を注ぎに行く。ラステルはセリムに腰を抱かれて捕まってしまった。ラステルは少し身をよじったが脱出出来ないようで諦めたように大人しくなって真っ赤になった。
「悪いな。そんな心配してるなんて思ってなくて。でも見ろ。大丈夫だろ?」
「うん。それにアシタカさんはとても信頼できる方だった。」
テトは握りしめていた髪飾りを髪につけた。ローラが言っていた。足げよく銀細工の娘のもとに通っていたと。この髪飾りはそうして作られた。言葉はなくともパズーのその行動を信じよう。きっとテトの元へと帰ってくる。
よーん!
「もう無理!」
セリムが器を机にそっと置いた。どよめく護衛兵たち。早すぎるとセリムの応援団が肩を落とした。クワトロはまだまだと両腕を掲げた。ラファエが手を挙げてクワトロの前に立ちはだかる。セリムがよろよろとこちらへ向かってくる。ちょっと悪戯っぽく笑っている。何か企んでいる表情だ。
「私が勝ったら欲しいものがあります。」
「麗しいお客様の願いなら何なりと。」
狡猾な笑みを浮かべてラファエがクワトロの左手を両手で握った。セリムが困ったように二人を眺めた。セリムは酔ったふりのようだ。それでもラステルは離さない。ラステルは気がついていないのか心底心配そうにセリムの顔を覗き込んでいる。
「この指輪。」
ラステルがいま左手の中指に嵌めている指輪と同じレストニア王家の刻印指輪。クワトロのそれをラファエは抜きとって掌に乗せていた。
「我が妃になれば与えるぞ!」
「いえ褒美ならば逆ではなくて?」
ラステルがセリムの手をすり抜けてラファエの前に立った。
「姉様。戯れが過ぎます。」
ラファエは涼しい顔をしている。
「友好の証ならばこれを。」
ラステルが自分の髪から髪飾りを外した。テトの髪飾りの裏は羊だった。ではラステルの髪飾りの裏は?
「これは。」
ラファエが惑っていると、ラステルの手元を覗き込んだクワトロが唸った。
「おお!これは良いな!向かい合う双頭竜!よしラファエさんが勝ったらこの刻印で我が名を刻んだ指輪を作りましょう!砂漠の民への友好として!」
レストニア王家の紋章は王族の性質とは似つかわない互いを共食いする双頭竜。ラファエが目を丸くしてラステルに渡された髪飾りを見つめていた。それから首を横に振った。けれどもラステルはラファエに何やら耳打ちして髪飾りをラファエの頭に飾った。黒い髪に白い髪飾りがよく映える。ラファエが目元を拭った。ラステルがテトの方、セリムの方へと戻ってきた。先に腰を下ろしてポックルから貰った水を飲んでいたセリムは酔っ払いには見えない爽やかな笑顔をしていた。
「姉様にあげてしまったわ。でも謝らない。」
ラステルが少しビクビクしながらそれでもはきはきとセリムに宣言した。
「もちろん。折角だ。揃いを作ろう。」
セリムの手がラステルを招いた。ラステルはセリムの横に座った。テトとポックルは見てるこっちが恥ずかしいと顔を見合わせて苦笑いして頷き、二人から視線を逸らした。
「よし葡萄酒を注げ!」
クワトロがラファエに器を渡した。クワトロの側近バルボッサが二人に恭しく葡萄酒を注いでいく。互いにゆっくりと葡萄酒を飲み干すとクワトロが大袈裟に、わざとらしくよろめいた。
「こんな美しい方を前にしたらもう飲めやしない。さすがわ弟が選んだ娘さんのお姉さまだ!」
おお!というどよめきの後に拍手が巻き起こった。舞台上の者が動きを止めて拍手に参加する。弾けるようにセリムが立ち上がった。テトが驚いているとラステルも同じようで座ったまま目をパチクリさせている。
「ラファエさんに待たされたけどラステル来てくれ。いや来てください。」
ラステルに向かってセリムがひざまづいた。騒いでいた護衛兵も静かになっていく。拍手も小さくなっていった。ラステルがそろそろとセリムの手を掴もうとするとセリムが先にラステルの手を掴んだ。それからその手を掲げて舞台の方へと進んでいく。
純白の礼装に身を包んだ王子に宝物のように導かれるラステル。ケチャの服を着たラステルもまたお姫様のように美しい服装だ。よく似合いの二人に大広間中でほうっと感嘆の声が漏れていく。テトの隣にきたラファエが寂しそうにそれを眺めている。
「寂しいですか?」
「ええ。とても。憎らしいけれど。あんな男会ったことがない。」
ラファエのこぼした台詞にテトはハッとした。
「ラファエさん。」
「婚約者が村で待ってるわ。優しい方よ。」
ラファエは泣き出しそうなのに微笑んでいる。
「去年幼馴染が私に言ったんです。お前とは踊らないって。私一晩眠れなかった。食欲も無くなったし世界が灰色だった。」
「そう。」
「でもまた色鮮やかになる。この世界は美しい。そうでしょう?ラファエさんの村にも私行ってみたいです。」
少し沈黙が流れた。ラファエがじっとテトを見つめた。何かを考えているような表情に一瞬拒絶が浮かんだ。それが柔らかく弛緩していく。
「私の村人が貴方のように美しくなって私が真に人の上に立てたら。必ず貴方を初めに招くわ。必ず。」
嬉しすぎる言葉にテトが感激しているとラファエがテトの耳元に口を寄せた。
「蟲森の深淵。セリムさんでさえ踏み込んだことが無い。恐れないのなら待っているわ。貴方だけへの秘密よ。」
蟲森。その単語にテトが固まっているとラファエは舞台の上へと顔を向けた。その唇は少し震えていた。テトも恐れおののいた。
「風の神に祈りを捧げ実りに感謝を。あらゆる生に真心を捧げよう。我らは誇り高き崖の民。強く逞しくそれでも優しい者であれ。」
凜としたセリムの声が大広間に響き渡る。讃えられて広間の熱気が上がった。それでも静かだ。ラステルと向き合って少し強張った面持ちをしているセリムの緊張が伝わってくる。ラファエの言葉を飲み込めずにいるテトはセリムとラファエを交互に見た。
真心。
誇り高き崖の民。
「ラファエさんが居るのならばいつでも招かれたいです。」
ラファエは返事をしなかった。じっとセリムとラステルを眺めている。大広間のなかで二人がこれから立てる誓いの意味を知るのはおそらくラファエとテトだけだ。女の勘がそう言っている。我儘王子の身勝手な交流。レストニアはいつか彼をなじるだろうか。罵るだろうか。厄災がこの国を覆うのだろうか。違う。きっと新しい道が開かれようとしているのだ。その美しい瞬間を眺めることを崖の民の中でテトだけが許された。その誇りは大切にしなければならない。
「憎しみで殺すよりも許して刺されろ。喧嘩を咎めるセリムの口癖です。」
テトもラファエを見なかった。人知れず幕を開けようとしている新たな時代。それはきっと破滅や混沌ではない。これも女の勘だ。ラステルに何故ここまでセリムが惹かれるのか分かった。セリムの好奇心を掻き立ててその胸を燃やすにはこの崖の国の女では役不足。ラファエではなくラステルなのはまあ好みだろう。どちらと先に知り合ったのか知らないが。ラファエには悪いがラステルの方がセリムとよく似合いだ。見た目も性格も取り巻く雰囲気も。
「我が名はセリム。崖の国レストニア前王ジークの息子にして現王の弟。セリム・レストニア。心美しき娘ラステル。死が心臓を貫こうとも真心を捧げよう。
ユパが立ち上がった。しかし何も言わない。ラステルが驚いたようにセリムを見上げている。多分この大広間でセリムの求婚を予想していなかったのはラステルだけだろう。先程のクワトロとセリムのやり取りも恥ずかしさで飲み込めていないようだった。それほどまでにラステルは呆然としてぼんやりと瞬きをしている。凛々しかったセリムの顔が迷子の子供みたいに情けないものに変わった。
「え?あれで振られるとか俺なら耐えられない。」
横からポックルがテトに告げた。ラファエが「ラステル!」と叫んだ。それからラファエは早く行けと言うように大きく手をラステルに向かって払った。ラステルはハッとしたようにセリムを見上げてもう一度ラファエを見つめた。新芽と同じ緑色の瞳が戸惑いで揺れている。ラステルは大きく息を吸ってセリムではなく大広間の民へと向かい合った。
「タリア川の守護を受ける娘ラステル。祖国は西の終わり。大都市ペジテの大工房。」
大広間がザワザワしだした。今度はセリムがきょとんとしている。それから腹を抱えて笑いだした。
「あの子……。」
ラファエが小さく舌打ちをしたのをテトは見逃さなかった。ユパが舞台上へと躍り出る。
「崖の国の民よ。我が傲慢と独占欲をお許しください!」
大広間に集まるのは国民全員ではない。しかし王族とエルバ連合各国の王は参列している。そこに向かってラステルが両手を握りしめて懺悔のようにこうべを垂れた。祭宴のために集められた光苔がラステルを照らし、青い宝石が煌めく。まるで背中に羽が生えたように明かりを浴びる厳かな姿に大広間が静まり返る。ラステルは涙を流しながらセリムに微笑みかけた。
「我が異形さえも受け入れるというのならば永遠を誓います。崖の国のセリム。共に行ってくれますか?」
「ああ勿論だラステル!」
静寂を破ったセリムの声が木霊した。この世で自分が一番幸福だというようにセリムは白い歯を見せて満面の笑みを浮かべるとラステルを抱き上げて深く口づけをした。そしてそのままラステルを横抱きにして歩き出す。
「セリム!どういう事だ!」
ユパの怒号が飛ぶ。セリムの前にユパが立ったがセリムは兄ではなく大広間の一同へと顔を向けた。大きく息を吸う。
「我が友アシタカ。そして我が国民にして親友パズーの元へ行きます!我儘を許してくれなくて構いません!必ずや真の平和をこの手に掴み帰ります!父上!兄上方!姉上方!アスベル先生!この国を頼みます!トトリ師匠!我が弟子を育ててください!エルバの賢王方しばし耐え忍び矜持を忘れるなかれ!風の神は誇り高きエルバの民に微笑む!そして我が愛すべきオルゴーの民!オルゴーはペジテでは誇りと言うそうだ!崖の民よ誇り高く生きよ!」
セリムはラステルを抱いたまま堂々と大広間から階段へと繋がる道を歩き出した。ラファエがさっとセリムの後ろに向かった。テトも思わず走り出してラファエの横に並ぶと、何故かポックルがついてきた。少し歩いていると風詠候補のリノがよじ登ってきてテトの横に立った。セリムのゴーグルを頭に乗せている。セリムとテトの間に今度はハクが現れた。護衛兵の若手筆頭。セリムの兄貴分。
「ハク?」
「アシタカ様に何か頼まれたのでしょう。あの男は良い。役不足ですがついて行きますよ。我が主。」
セリムは無言でハクに背中を向けた。ハクはセリムの横に出てラステルの手を取り恭しく掲げた。大広間に響いたのは祝福ではなく怒号と批難に罵倒。エルバの王達がユパと言い争いをしている。
「明日改めて会談を取り行います!愚弟は出征には送らぬ!あのようなうつけ者!」
ユパの鶴の一声で大広間は静まり返った。テトは、いや国民の誰もが感じた。ユパはセリムを許して自由を与えたと。そしてその自由は結局セリムを大渦に飲み込むだろうことも。崖の国の末の身勝手な王子はいつだって自身の為だけには生きてこなかった。そういう風には生きられない。
誰ともなしに拍手が始まりそれから大音量の拍手と泣き声が大広間を支配した。皆セリムを止められないと知っている。そして彼はついに一人ではなくなった。
セリムを繋ぎ止める者の到来。
鳥の止まり木。
異国の娘を愛おしそうに抱いてセリムは大広間を見渡すと深々と頭を下げた。それから純白の外套を翻して階段を降りていった。セリムの後ろ姿が見えなくっても大広間からは拍手はおさまらなかった。
***
時同じくしてアシタバ半島からペジテ大工房に向かって蟲の大群が進軍を開始した。
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