崖の国の奇怪な王子の噂

 背の高い建造物の数々。活気に満ちた民の好奇の視線。馬のいない馬車のような乗り物の窓を通り過ぎていく光景に、思わず目を見開きたくなる。ティダはなるべく涼しい表情をと顔の筋肉に力を入れていた。なのに。


「凄いよこれ。どうやって動いているんだ?あんなに大きな建造物!」


 隣で騒ぐパズーに冷静を掻き乱されそうになる。


「後でゆっくり案内しようパズー」


 すっかり元気になったアシタカに一番驚きを隠せない。僅かに一時間もせずにアシタカの怪我は治り熱も下がった。通された部屋で白い服の男達に囲まれた簡素な寝台に横たわるアシタカ。その人垣がどうアシタカを治療したのかは全く見えなかった。一方パズーは包帯を巻かれただけ。


「大工房はグルド帝国にも劣らない程に医療技術も優れていると噂に聞いていたがそこまでとはな」


「ああ。あれは流石に大袈裟なんだ。お陰で貴重なラルドの泉が減っただろう」


 聞いたことのない名にティダは素直に首を傾げた。


「死人以外を蘇らせる神の涙。何十年に一度しか作れない貴重な治療薬さ」


 まるで忌々しいもののようにアシタカは吐き捨てた。遠い目ばかりをするよく分からない男だ。


「不思議だな。そこまでの技術を有しているのに籠の中に閉じこもっている。ペジテという国が俺は昔から疑問だった」


 天候など関係のない穏やかで清浄な空気。行き交う「自動荷車」オートカーと呼ばれる移動機械。陽も落ちたというのに燦々と灯りがともる街並み。踏み入れてみれば外界とはまるで別世界。数年前に興味本位で上空からみた、七つの小都市群の眩い光。そこに居るのが夢のようにも感じられる。


「だからペジテから風と大地を求めた民によりベルセルグ皇国が生まれた。憧れを抱いても恐怖で踏み出せない大自然。死に脅かされても共存を選んだ。君の祖先達」


 アシタカがまた遠い目をしてしばらく無言になった。はしゃいでいたパズーが口を閉ざす。沈黙が横たわる。しばらくして自動荷車オートカーがガタガタと揺れ出した。舗装されていた道が砂利道に変わり建造物は消え、林に変わる。


「あの関所の向こうに僕の家がある。ここからは歩く」


 自動荷車オートカーが背の高い壁の前で停止した。操縦していたブラフマーという護衛者が先に降りて扉を開く。


「ありがとう。ブラフマー長官」


 アシタカは優雅に自動荷車オートカーを降りるとゆっくりと頭を下げた。その自然な動きにこちらが真の姿だろうなとティダは思わず苦笑を浮かべた。アシタカの豪気さに混じっていた虚勢はこれか。関所の前に背の低い口髭たっぷりの老人が杖をついて立っていた。背後に聳え立つ壁から銃口がいくつも飛び出している。白髪だらけで皺まみれだがその目はアシタカの黒羽根色の瞳と瓜二つ。こいつがペジテ大工房の象徴大技師ヌーフか。


 祭事でその名の書簡が幾度となくベルセルグ皇国に贈られてきた。平和と善良を説くその手紙をティダは命令で何度も燃やした。消し炭にする前にティダはこっそりと読んできた。人知れず火にくべられるその手紙にティダは何度も心を打たれてきた。そしてこの国を焦がれた。ティダの発する真の平和の供与方法、それがペジテに行けばあると信じてきた。


 不可侵を掲げ、二千もの年月侵略を行わずに存在し続けているペジテ大工房。大都市を束ねあげるに相応しい男がこのような弱々しく柔らかそうな老人というのは意外だった。


「よきかな。よきかな。風に沢山吹かれたのうアシタカ」


 ほっほっほっとヌーフが優しい笑い声を上げた。深くなった皺も笑い皺。上に立つ者でこのような男にティダは出会ったことがない。このような雰囲気を知らない。無防備ですぐ首を絞められそうなのに、近づいてはならないと全身に警鐘が響く。これを真の偉大と呼ぶのかもしれないとティダの全身に鳥肌が立った。


「父上。この方々は……」


 アシタカが言い終わる前にヌーフは背を向けた。


「良い。狼君の噂は耳にしているから検討はついている。そちらののっぽ君は分からぬがのう。掟ばかり破る息子よ。もうしばらく自由を許そう。我が愛しき鳥の子よ。明日には鳥の友もくるぞ」


 関所の門が開かれた。ヌーフが背を向けてゆっくりと歩いていく。門の向こうには黄金の稲穂と瑞々しい緑の草原が広がっていた。鳥が羽ばたき草原を獣が走る。緑の海に大狼の舛花色ますはないろがちらりと見えた気がした。


 頭を掻いて苦笑いするアシタカに促されれてティダとパズーは関所の門をくぐった。ブラフマーはついてこない。門が閉ざされる。


「これより先は大技師一族と招かれた者しか入れない。君たちは僕の初めての客人だ」


 そう言ってアシタカは壮大な自然を背景に両腕を広げてニコリと笑った。長くも短くもない黒髪がさらさらと風に揺れる。いつの間にかアシタカに寄り添っていた赤鹿がアシタカの頬を舐めた。くすぐったそうにしながらアシタカは赤鹿の体を撫でる。無防備でなんとも穏やかな光景だった。


「偽りの庭。君たちの目にはどう映る?」


 自虐的なアシタカの呟きにティダは答えられなかった。


「崖の国の畑みたいだな。でも風が全然少ない」


 ティダの隣でパズーが呑気そうに歩き出した。勇敢なのか臆病なのか妙な男だ。


「セリムは気に入らないかもな」


 またその名だ。親しげなアシタカの声色に思わず顔をしかめた。エルバ連合に崖の国というのが存在する事も知らなかった。崖の国のセリム。崖の国。一体どんな所なのだろう。大工房の御曹司がここまで親愛を示す王子。


「そんなことないさ。あれ大狼だろ?それにあんな鳥見た事ない。あいつなら大興奮さ」


 自国の民にあいつ呼ばわりされる王子。同じ立場であるのにティダとは違う。どんな男なのだろうか。顔を見合わせて笑う二人にティダは疎外感を覚えた。このような感情が湧いて来るのは何年振りだろう。大義を胸に秘め、野心と怒りに突き動かされ続けてきたティダにはこの場所は不相応。そう感じた事以上に二人と笑い合ってみるのも悪くないのではと思い浮かんだことに愕然とした。しばらく呆然と立ち尽くしてしまった。


 長年の緊張の糸がプツリと切れた。


***


 偽りの庭と呼ばれた小都市は、通ってきた高くそびえる建造物が密集する小都市とは打って変わって、煉瓦造りの小さな平屋がまばらに存在するだけだった。その一つがアシタカの家だった。脱力して言われるがままに椅子に腰掛け、渡された飲み物を口にした。故郷でも良く飲む緑茶だ。


「どうした。急に大人しくなって」


 指摘通りだとティダは肩を竦めた。


「いや。崖の国のセリムというのはどんな男だ?気になってな」


 ティダの隣に座っているパズーが目を丸めた。アシタカも同じような表情を浮かべた。


「変だろう。間も無くベルセルグ皇国の支援を受けたドメキア王国が蟲を率いてペジテ大工房へ進撃する。それを止めに来たのだが俺はそのセリムという奴が気になってならない」


「蟲⁈進撃⁈」


 パズーがガタッと音を立てて立ち上がった。手に持った器から緑茶が溢れてパズーの手にかかった。


「熱っ!」


 手を振って涙目になるパズー。アシタカがパズーを無視して口を開いた。


「蟲というのはどういう事だ?」


 身を乗り出して両手を組むとアシタカは神妙な面持ちでティダを見つめた。


「アシタバ蟲森から誘導している。ベルセルグ皇国には蟲を操る秘術がある」


 元々はなかったその術はティダの母親の故郷から奪われた。そこまで開示する必要は無いだろう。


「何故それを我らに伝えにきた。ベルセルグ皇国第三皇子ティダ」


 話が逸れたなと思ったが本来はこちらが本筋。崖の国など無関係。ティダは段々と緊張感が戻ってくるのを感じた。それを惜しいと思う自分にまた驚愕する。悟られないようになるべく涼しい表情を繕う。


「生きる為だ。俺は先代皇帝狼陛下の一人息子。父を暗殺した憎き仇である現皇帝により宿敵ドメキア王国へ送られた。ペジテ侵攻に対する両国の同盟を象徴する婚姻と言う名で厄介払いされた」


 アシタカが小さく頷いた。どこまでベルセルグ皇国の内情を知っているのだろうか。


「婿入り先はドメキア王国で最も地位の低い姫。予感的中、ペジテ侵攻の先陣は俺達だ。ドメキア王もベルセルグ皇帝も大義名分で俺達の背中を打つのを楽しみにしている。裏切って巨大国家に庇護してもらうのが生きる為の最善と考えた」


 アシタカの瞳には疑問と疑惑が揺れている。


「本当の目的は?ティダ皇子。貴方の向こう見ずながらも鬼気迫る生き様。理由もなく生きる男ではないだろう?」


「ドメキア王国に恩を売り成り上がる。狙うはベルセルグ皇国の頂点。毒蛇とハイエナの小競り合いにこの国は無関係だ。巻き込むべきではない」


 またアシタカが小さく頷いた。やはり懐疑が残る目をしている。


「ペジテ大工房にも恩を売る。良い考えだ。そういう事だろう?」


 口にしなくとも良いのにわざわざアシタカは疑惑を口にした。ティダはその清々しさに笑い声を上げた。


「想定内という訳か!まあその通りだ。だが俺は殺戮や残虐は好まない。それは本心だ。信じろとは言わない。信じてもらおうなどとも考えていない」


 無駄な血を流させるのは誇り高き一族の名を汚す。ティダの信念は誰にも理解されなくともティダだけは曲げない。理解されようとは思わない。シュナの言葉を思い出した。生き様こそ全て。あの台詞には中々痺れた。


「作戦を全て漏洩する。その前に聞きたい。何故空から降ってきてわざわざあの様な真似をした?」


 大方予想はついているが聞いてみたかった。アシタカという男をティダの中でどこに位置させるか決めたい。


「あれは事故だ。急いでいたら飛行機が故障して。そしたら偶然君を見つけた。君への信頼の提示をと考えたんだ。中々良い作戦だったと思うのだが」


「良い作戦⁈急ごしらえの思いつきだろ!風向きは酷いし死ぬかと思った!」


 小さな火傷をした手を撫でながら大人しく傍聴していたパズーが怒声を出した。


「いやあ見事だったよパズー。流石は風を詠む民」


「風を詠む?」


 耳慣れない単語にティダは鼻息荒いパズーに問いかけた。狙ったようにパラシュートが飛んで来ると感じたが、その通りらしい。


「だから僕はセリムみたいには無理だって言ったのに!あの砲台だらけの砦に突っ込んでたら……生きてて良かった。必死だったんだぞ!」


 まだ怒りがおさまらないパズーはティダの問いには気がつかない。アシタカが悪びれもしていない様子なのが余計に腹立たしいのだろう。アシタカはティダが作戦通りにアシタカを受け入れたこととペジテ大工房へティダを招けた事に対して誇らしげな顔をしている。


「珍妙な男だな。信頼したり疑ってみたり忙しい目だ」


「信頼は友の真似だ。僕には中々難しい。悪かったよパズー。君の望みは何でも叶えるよ」


 何でもという言葉にパズーがピクリと身体を跳ねた。正直な男だ。おまけにペジテ大工房の御曹司と知っているのか知らないのか良い度胸だ。役に立たないがパズーの方がアシタカより信頼できる、そう位置づけたのは揺るがなそうだ。


「そんな甘い罠にはかからないからな!もう二度と頼み事をするな。セリムだけで充分だ」


 口を開けばセリム。セリム。パズーはよっぽど崖の国の王子を慕っているようだ。

 

「どんな男だ?」


「さっきも気にしていたな。そもそもはセリムと二人で君と会おうと思っていたんだ。シュナ姫の忠臣という兵士がペジテと密通しているという情報があったから」


 さらっと大事な話をしたアシタカを無視してティダはもう一度パズーに尋ねた。小難しい政治話はこれから何度もするだろう。だが今この三人という穏やかな時間で無ければ聞けない気がした。正確にはティダの心が珍しく凪いでいて関心がどうしてもセリムという人物に向いている。


「お前の国の王子はどんな男なんだ?」


「え?あの、その、それ、いま聞くこと?なんか難しいいざこざの話は?」


 パズーは目を泳がせて縋るようにアシタカを見た。アシタカがにこりと微笑むとパズーがそろそろと口を開いた。


「うーん。どんな男?子供っぽくて自由で我儘で空馬鹿で。立派といえば立派だし良い奴だけど。うーん……」


 崖の国というのは一体どのような自治を行なっているのだろう。まるで友人みたいに王子を語る。突然パズーが目を見開いて叫んだ。


「さっきのアシタカのお父さん!あのお爺さんみたいな奴だよ!なあアシタカ?」


 良い例えを見つけてしてやったという自慢げなパズーにアシタカがポカンと口を開いた。


「え?ああ。ん?父上と?そうか?違うだろう?」


「いやそうだ。人懐っこい雰囲気。変な空気」


 アシタカは苦笑いして首を傾げている。ティダはセリムなる人物像を考えるのを放棄した。


「父上が先程セリムが明日来ると言っていた。自分で確かめるといい」


「え?セリムが来る?アシタカのお父さんは何で知ってるんだ?」


 人口数百万を有するというペジテ大工房の信仰対象が「アシタカのお父さん」というのが愉快でティダは思わず鼻で笑った。ペジテ大工房の大技師一族は別名ペジテの至宝らしい。その総帥をつかまえて近所のおじいさんのように呼ぶとは、無知は恐ろしい。アシタカも同様なのかケラケラと笑い出した。パズーだけが呆気にとられている。


「何だよ二人して」


「いや。すまない。それで大技師ヌーフ殿とセリムなる王子は知り合いなのか?」


「いや。父は預言者だ」


 思わぬ発言だったがあり得るとも思ってしまう。それほどまでにヌーフは異質な老人だった。パズーはヌーフと自国の王子が似ているという。息子は違うという。


「預言者?アシタカって一体何なんだよ」


 パズーが素っ頓狂な声をあげた。アシタカは腹を抱えて笑いだした。アシタカは笑うだけで自分が何者なのかは、答えなかった。


「明日が楽しみとは久々だ」


 ティダは声高々に笑った。意を決し死を覚悟して巨大要塞の前に歩き出したのがもう随分昔のように感じられた。

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