一生に一度の夜
愛別離苦の数日前
***
セリムは新妻を横抱きにしたまま大橋までやってきた。レストニアを急襲した毒胞子は潮風の塩分でとっくに死滅している。人の手で消し炭にされた毒胞子が、生命の爪痕と言わんばかりに大橋を黒く汚していた。まるでセリムとラステルの行く末を暗示するような不穏な道。
「セリム見て。」
甘えるようにセリムの胸元に顔を寄せたラステルに視線を落とす。見つめていると暗くてもラステルが照れて頬を赤らめたのが分かった。
「違うわ。私じゃなくて空」
若草の瞳が見上げた方角へセリムも視線を向けた。
「タリア川みたい。星の煌めきって水面みたいね」
「美しい」
セリムは息を飲んだ。昨夜の星も綺麗だったがそれよりも今の方が美しい。幸福が世界をこんな風に変えるのかと思わず足を止めた。幸先は明るいと言わんばかりの煌めき、セリムは再びラステルの顔を覗き込んだ。
「うん。美しい」
大きな瞳も、高くはないがスッとした鼻も、少し小さく厚い唇も何もかもがセリムの胸を満たす。不安な足元よりも希望のある未来を見るその心を美しいと思う。
「変よセリム。知らない人みたい」
「そう?僕もそう思う」
羞恥でなのか腕の中で身をよじったラステルはあまりに可愛らしかった。こんな感情があるということをセリムはラステルに会うまで知らなかった。
「計画は滅茶滅茶だ。明日の朝に経つと宣言してしまったし急いで準備する」
「私が勝手をしたから」
「いや。これでも迷っていたんだ。決心させてくれてありがとう。時間が惜しい。急ごう」
セリムは黒くすすだらけの大橋を駆け足で進んだ。
「セリム。私自分で走るわ」
「いや。このままがいい」
ラステルを抱える両腕に力を込める。
「何を手伝えばいいか教えてね」
「起きれればな」
「どういうこと?」
口にすると恥ずかしいのでセリムは黙っていた。
「何で笑ってるの?」
「後で分かるよ」
ふと疑問に感じた。ラステルの中身は人間なのだろうか?その内側の構造は未知。
「セリム?」
少し不機嫌そうなラステルの声にセリムは走る速度を落とした。それからラステルを見つめた。頬を膨らませているラステルの額にそっと唇をつけた。腕の中の愛らしい新妻。手を出すなというのは無理だろう。
「部屋に行く」
「うん。持っていくものを選ぶんでしょう?」
「いや。とりあえず寝る」
セリムは笑った。おそらくみっともない笑顔かもしれない。
「早く寝て早く起きて準備ね」
うんうんと頷くラステルにセリムは吹き出した。
「昨夜は我慢したから」
ピクリとラステルの体が跳ねた。触れている肌に熱が込み上がるのが分かる。自身なのかラステルのなのか、どちらもだろう。
「そう?あの。セリム。時間が惜しいんでしょう?その。」
ごにょごにょと言い淀むとラステルがセリムの胸に顔をつけた。
「準備はそこまでないよ。でも昨日の続きをしてそれから出立の準備。忙しいだろう?」
またピクリと体を跳ねるとラステルは小さく「うん」と呟いた。顔を隠しているがおそらく真っ赤だろう。セリムも、多分赤い。
「私の体大丈夫なのかしら……」
不安そうにセリムを見上げたラステルにセリムは立ち止まってキスした。
「これが平気なら多分大丈夫だろう。それにちょっと無理かな。また耐えるの」
突然ラステルが笑い出した。
「本当に知らない人みたいよセリム!変なの!すぐに行こうって言いそうなのに」
ラステルが踠いて暴れるのでセリムはラステルを下ろした。照れたからって笑わなくてもいいだろう。
「拗ねてるの?」
「うん」
素直に告げるとまたラステルがころころと笑い声を上げた。今度はセリムが頬を膨らませた。
「一緒に歩いた方が早いわ」
ラステルがそっとセリムの指にすべすべとした指を絡ませた。
「そうだな」
きつく手を握ると二人で足早に歩き出す。
「星が落ちてる」
ラステルが空を指差した。夜の暗い空に星が流れ落ちる。一つ、また一つキラキラと星の川から落下していった。こんなに美しい夜をセリムは知らない。足は止めないが息を飲んで魅入る。
「流星か。僕らは祝福されている。目出度いな」
「不思議。星も動くのね」
「ああ。あの星まで届く望遠鏡があればいいのに」
動いて消える星はどこへ行ってしまうのだろう。
「ペジテにはあるかもしれないわね。大都市なんでしょう?」
「ああ。楽しみだな。ラステルのそういうところ好きだよ」
目を丸くしてセリムを見てからラステルは顔を逸らした。
「私も好きよ。そういうところ」
恥ずかしそうに口元を手で覆うラステルを今すぐ抱き竦めたかった。どこにも行かないように閉じ込めて照れた顔を眺めたい。
ようやくレストニア城の城門まで来るとセリムはラステルを駆け足で引っ張った。多分ハクは置いていかれるものかと飛行船で待機しているだろう。下手したらポックルもいるかもしれない。急に計画を大幅に変えてしまって混乱しているラファエはテトと不安な夜を過ごすだろう。
それでも今夜だけは。
セリムは部屋に着いて扉を閉めると同時に、願望通りラステルを抱き竦めた。欲望のままにラステルにキスを注いで寝台に押し倒す。するとあまり痛くはない平手が飛んできた。ぶたれた頬に手を添えて組み敷いたラステルを見下ろす。真っ赤な顔でラステルが唇を尖らせていた。
「私。綺麗にしたいから待って!」
叫びに思わずセリムは口を開いた。
「君は綺麗だよ」
正直な感想を述べてセリムはラステルにキスしようとしたが、ラステルの両腕が力一杯セリムの体を押し戻した。
「そうじゃなくて!湯浴みさせて……」
全身を赤くし体を震わせてラステルが拒絶するのでセリムは諦めて上半身を起こした。ラステルも恥ずかしそうに俯きながら体を起こした。眉毛を下げてセリムの視線を確かめるように見上げてまた目を逸らした。仕草が、反応が、いちいち楽しくて愛おしい。
「洗ってあげようか。っ痛!」
兄の真似をして軽口をたたいてみるかという悪戯心に拳が飛んできた。ラステルに胸元を殴られたけれどそんなに痛くない。けれども大袈裟に胸を抱えて体を丸めた。ラステルがそっとセリムの背中を撫でた。
「ごめんなさい。軽くのつもりだったのに……。まあ嘘なのね!」
込み上げる笑いがおさまらなくてセリムは胸を抱えて笑っていた。ラステルがセリムを押して寝台から抜け出す。
「意地悪ばっかり!」
「まさか!」
図星を突かれてセリムは慌てて首を横に振った。部屋を出て行こうとするラステルの手首をセリムはそっと握った。それからバツが悪くて手持ち無沙汰なのでラステルの手首を指でくすぐった。振り返ったラステルの頬がほんのり桃色に染まっている。
「向こうの扉に浴室があるよ」
「そうなの?」
城勤め人用の大浴場を使ってもらっていたのでラステルが知らなくて当然だった。
「これでも一応王子だから。実は隣の部屋も繋がっている」
「隣って」
ラファエと喧嘩したラステルに与えた部屋。ラステルは怒ると思ったけれど予想に反して微笑んだ。照れ臭そうに。
「寝顔がこっそり見たいななんて思ったり思わなかったり」
「結局着替えでしか使ってないわね」
ラステルがくすくすと笑った。
「湯を沸かそう」
「ありがとう。手伝う」
立ち上がってセリムは浴室の扉を開いた。栓を捻って水を浴槽に貯め始める。興味深そうにラステルがセリムの手元を追い浴室を見渡す。やっぱり我慢したくないなとラステルの肩を抱こうとしたら手の甲を抓られた。セリムは苦笑いするしかなかった。
大人しそうな容姿なのに崖の国の女達よりじゃじゃ馬かもしれない。
「外のボイラーで火を焚くとお湯に変わる。ちょうど良い温度になったら栓を回して止めて」
「ボイラー?」
ラステルは興味津々といった表情を浮かべた。
「駄目。遅くなるから」
一緒に行くという興味津々なラステルを連れて行ったら、あれこれ説明しているうちに夜が明けてしまいそうだ。
「少し見るだけよ?いつも蟲森の散策でご教授していたのは誰かしら?」
仁王立ちしたラステルをセリムは壁際に押し付けた。
「それは僕の可愛い意地悪な奥様だ。ラステル。お願いだからこれ以上焦らさないでくれる?」
「そんな顔しないで?」
ラステルがまた赤くなって俯いた。それから上目遣いでセリムの表情をうかがう。
「どんな?」
「知らない人みたい」
そうだろう。セリムもラステルに会うまで知らなかった自分。無かった感情。
「このまま部屋に戻るかここにいるかどっちかにしてくれ」
セリムはラステルの首筋に顔を埋めた。少し汗の匂いが混じっているが果実のように甘い錯覚がする。
「汗臭いから近寄らないで!」
セリムを突き飛ばすとラステルは自分の体を抱き締めるように両腕で体を守った。これ以上くっつけないと言うほど壁に体を寄せている。
「そんなこと……」
セリムは口を閉じた。不機嫌そうなラステルに余計な事を言ったら今夜は一人で寝る羽目になるかもしれない。乙女心というものをもう少し学んでおくべきだった。
「よし。君はここにいる。僕はボイラーへ行く。鍵もかけるといい」
セリムは言うが早いが浴室を出て礼服を椅子に脱ぎ捨てた。もう二度と袖を通さないかもしれないが大事な正装。炭で汚すわけにもいかない。
部屋奥の隠し階段から外へと出る。まだ流れ星が煌めいていた。新婚早々、新妻の為に薪をくべて火を起こす夫。ラステルの強情さと逆らえない自分。セリムも歴代のレストニア王族のように奥方の尻に敷かれるのかとため息が出た。でも悪くない。むしろあの強情をこれから手に入れると考えると胸が踊る。
「本当に知らない人みたいだな」
火のついた薪をぼんやり眺めながらセリムは一人呟いた。
部屋に戻るとラステルの姿がどこにもなかった。あまりの衝撃にセリムは寝台に座り込んで俯いた。
「セリム?」
顔を上げると隣室の扉を半分開けてラステルが小首を傾げている。寝巻きに着替えただけのようだ。安堵と同時にすぐセリムは立ち上がった。途端にバタンと扉が閉じられた。
「ラステル?」
「セリム。真っ黒よ」
扉の向こうから教えられてセリムは自分の両手がまだ汚れていると気がついた。
「洗ってくるからちゃんとこっちで待っててくれる?」
返事はない。セリムの湯浴みが終わったら鬼ごっこが始まるかもしれない。セリムは頭を掻いてクローゼットから寝間着をひったくると浴室へ向かった。
水気をきちんと拭き取られた床に丁寧に畳まれたタオル。セリムは思わず口元を綻ばせた。何度か体を濡らしたタオルで擦ったあとに浴槽に全身を沈めて体を洗う。それでもお湯が結構汚くなったので確かにこれは良くなかったと反省した。
今日という夜は一生に一度しかない。
恐る恐る浴室から出ると、予想に反してラステルは背筋を伸ばして寝台に座っていた。ラステルがセリムをチラリと見て顔を赤くして俯く。
「ラステル」
おいでとラステルを手招きした。鬼ごっこをせずに済んでホッとする。
「セリム」
手を取り合って向かい合う。照れ臭くて顔をそらしてまた見つめ合う。ここからどうしよう。
「ラステル・レストニア。崖の国の王子セリムの妃。今日からそう名乗れ。その身を風の神が守ってくれる。」
「はい」
はにかみながら微笑むラステルの手にセリムは力を込めた。
「タリア川ほとりの村緑連に属する唄子ヴァルの息子。唄子ラステルの夫。そう名乗って。その身を守る時があるかもしれない」
「はい」
緑連?と聞き返したかったが野暮なのでやめておいた。ラステルの手が力強くセリムの手を握り返す。
大事なことを言い忘れていたとセリムは喉を鳴らして口を開いた。
「あいしっ痛」
こんな時に舌を噛むなんて情けなすぎる。ラステルが抱きついてきた。セリムは自棄気味にラステルを抱き締めた。それからそっとラステルの耳元でもう一度言い直す。
「愛してる」
セリムの耳に吐息がかかった。
「愛してます」
あまりに我慢の限界で激しくラステルの唇を奪ったら、真っ赤になったラステルが身をよじってセリムからまた逃げ出した。やっぱり鬼ごっこするのかとセリムは苦笑まじりに追いかける。ラステルが部屋の灯りを消した。それからセリムの腕の中に戻ってきた。
「セリム。もう一回言って」
甘えた声に堰を切ったようにセリムは何度も囁いた。
この幸福感は困難に立ち向かう支えになる。
嵐に身を投じようとする自分達の柱。
誓いの第一歩。
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