嵐の前の前触れ

アシタカは蟲の体液まみれの体を海水で洗い終わり、用意された新しい衣服と靴を身につけた。

それから不意に思い立ってアスベルの手で解体されていく蟲に黙祷を捧げた。セリムの言葉が耳の奥で燻る。


アシタカがクロスボウを構えたあの時、眼前のセリムの手から鉈がするりと溢れ落ちた。


-大丈夫だ、森へ帰ろう


予想していなかった発言に、胸が熱くなった。そしてアスベルとの会話で不憫に思った。駆けつけた衛兵や同じ服をした者たち、おそらく城仕えの者、彼等国民は一様に恐れと戸惑いを示した。愕然としていた国民がアスベルの指示で何とか動き出したその様に、今回の件は珍事なのだろうと察しがついた。


殻を剥ぎ取っているアスベルと視線がぶつかる。頼むと言うようにセリムに目線を向けるとアスベルが小さく頭を下げた。アシタカは返事の代わりに深く頷いた。


丘の下にいるセリムとラステルの方へと足を踏み出す。セリムは俯いて座り込んでいる。上半身裸でラステルになすがままに体を拭かれていた。彼女の両足には包帯が巻かれている。


あの後何があったのか、逆光でよく見えなかった。座り込んだのだろう小さくなったその影がお互いを慰めるように重なったのは分かった。程なくして衛兵達の姿が現れ、慌ただしくなったのでそれきり。


近寄りがたい雰囲気の2人を、衛兵と城仕えであろう老人達が取り囲んでいた。アシタカが進むと人垣が割れた。


「驚いたよラステルさん。まさか馳せ参じるなんて。」


銃をという単語は飲み込んで、平静を装って声を掛けた。瑞々しい若草色の目がアシタカへ向けられる。赤く見えたのは錯覚だったのだろうか。遅れてセリムが顔を上げた。悔恨に歪んだ表情が、作り笑いに変わった。


「間に合わなかった。」


ぽつりと呟いたラステルを見上げて、セリムが慌てたように立ち上がった。


「みんな、心配すまない!僕は大丈夫だ。」


無視されていた国民達がどよめく。心配を取り払うようにセリムは白い歯を見せて笑った。


「さあ、手が空いている者はアスベル先生を手伝ってくれ!汚れ物はなるだけ早く処理して欲しい。」


拒絶の意思を汲み取って、誰もセリムには踏み込まなかった。1人また1人と黙って頭を下げて去っていく。


「お召し物はそちらの甲斐甲斐しいお嬢さんにお願いして宜しいかな。」


衣服を抱えていたミトが最後まで残っていた。物思わしげな微笑でラステルに服を渡す。


「あ、はい。」

「愛らしい方にばかり世話してもらってセリム様も人が悪い。」

「僕は別にそんなつもりは!」

「いえ、あの、私が勝手に。」


悪戯っぽく笑みを浮かべるミトに、セリムとラステルがほとんど同時に当惑の苦笑いをした。2人揃って顔が赤くなっている。


「ええ、ええ。頼まれましたからね。この後のお仕事も託しましたよ。」

「はい。」


含蓄のある様子に、ラステルが強く首を縦に振った。隣で頬を赤らめたセリムがばつが悪そうに足首を回している。


「お客人もセリム様を頼みましたよ。」


自分にはお手上げというように肩を竦めて、ミトはアシタカの腰を叩いて背中を向けた。ゆっくりだが堅実な足取りで去っていく。どこの国も年寄りというものには敵わない。


「あの蟲も君に気をかけてもらって少しはうかばれるだろう。」


一歩近寄ってセリムの肩を叩いた。笑顔は消え去り、憮然といわんばかりに口を真一文字に結ぶ。軽薄を装いすぎたかもしれない。気まずさを取り払ったのはラステルだった。


「私は間に合わなかったけど、セリムがあの子を助けてくれたんでしょう?」


微かに見える解体作業を見つめて、ラステルが穏やかな声を出した。セリムが唖然とした様子で口を開く。


「ラステルさん?あの銃は?」

「私、落としてしまって……。」


きょろきょろと辺りを探るラステルの肩を掴んでセリムが眉を下げた。


「助けたって?ラステル、教えてくれ。」

「どうしたの?あんなに苦しいのに死ねなくて、辛かった。意識が遠のきそうで、残ってるの。だから助けを求めたのよ。」


まるで自分の事のように語る無垢な瞳に寒気がしてアシタカは後退りしそうになった。ラステルが不思議そうに小首を傾げる。セリムがアシタカに向かって首を横に振った。それを無視して告げる。


「セリムはあの蟲を帰そうと迷ったんだよ。アスベル先生が国に害なすととどめを刺した。」

「帰すって何処へ?逃げて来たのに?」

「逃げるって、何から?」

「知らないわ。でも逃げてきたの。あの……私……。」


かぶりを振って俯くとラステルは蒼白になって唇を噛んだ。セリムの手が微かに震えている。ラステルが怯えたように目を見開いた。それからセリムとアシタカを交互に見て心細そうに顔をしかめた。


「ごめんなさい、私、間違えてるのね……。」

「いや、違う。だから教えて欲しい。気になっていたんだ。あんな風に解体して、ラステルは悲しむと思っていたんだ。それに銃はアスベル先生に向けられたんだと。」

「何の役にも立たない方が酷いわ。どうしてそんな事考えたの?」

「どうしてって、僕は助けてあげられなかった。だからせめて悼むだけでもと……。」

「普通はそうなの……?」

「そんなものは無いんだ。勝手に決めつけた。あの蟲のことも、君のことも。」


明かりに身を焦がすのに、まるで望むように飛び込む、本能に抗えないかが蛾に重なる。アシタカはセリムの腕を掴んでラステルから引き離した。


「君は蟲の民か?」


古代遺跡の最深部、大技師の末裔しか知らない、まだ理解しきれない壁画を脳裏に浮かべてアシタカはラステルを見下ろした。

太陽を知らない程白い肌、覗かせた深紅の瞳、異質な思考。伝承に酷似している。

そうだとしたら毒婦になりえる。


「蟲の民?」

「アシタカ、ラステルは。」

「彼女に聞いてるんだ。」


間に入ろうとしたセリムの胸板を押し返し、一歩詰め寄る。


「テルムを知っているか?」

「私は川ほとりの村に住む民よ。アシタカさんは私達の事を知っているの?テルムって他の川の事?」

「ラステルさん、貴方の村はどこに?」


縋るようにセリムを見つめて、ラステルは胸の前で両手を握りしめた。


「そういう話は閉ざされた場で執り行うべきではなくて?」


声の方へ視線を向けると数十歩程城の方角に、今朝屋上から駆け下りてきた佳人の姿があった。艶やかな黒髪が風に広がり、踊るように靡く。背筋を伸ばし、ゆっくりと近づいてくる。通りすがりに、儚げに涙を零していた娘の姿は消え去っていた。


「汝、名をなんと申す。」

「我が名はアシタカ。西の果て、ペジテの大技師の息子。」

「我が名はラファエ。私の村の娘に許可なく詰問する事を許しません。」

「ならそなたに問う、彼女は、いや貴方がたは蟲の民か?」

「否。我らは砂漠に住む者。汝の言う蟲の民とは何であるか?」


ラステルの乳姉妹ラファエ。似ているといえば降ったばかりの雪のような肌ぐらい。頑な拒絶の空気に、アシタカは気圧されそうだった。


「我はテルムの子孫。それが解だ。」

「その名を知らぬ。」


アシタカはラステルに視線を移した。いつの間にかセリムが庇うようにして背中に隠している。完全に怯えきった小動物のようだ。真に知らない様子と、セリムとラファエに睨みつけられるのに疲れてアシタカは肩を竦めて口角を上げた。


「知らないようだね。早とちりか。というより伝説なんだ。僕らの大都市に伝わる。」

「どんな?」

「その名の通り、蟲と生きた民。絶滅したと言われてる。」


興味深げなセリムにラファエが咎めるような眼差しを投げた。セリムは一瞥すらしなかった。


「そちらの麗人の言う通り、こんなおおっぴらな所で話す内容ではないかもな。それに……。」


ちらりとラファエを横目で確認する。獣のような威嚇の光。知らないのは本当だろうが、何か別のものを隠している様子。一筋縄ではいかないだろう。崩しやすいとすれば。


「人目のつかない場所でなら、教えてくれるのですか?」


目的にした人物は自ら飛び込んできた。セリムの腕を掴んでいたラステルがぐいっと前に出てくる。意外にも強気な顔つきに面食らった。


「君が秘密を教えてくれるのならね。」

「セリムが同席するなら。」

「ラステル!何を勝手な事を!」


突然振り上げられた腕がラステルに急降下した。パァンとぶつ音が響く。セリムの頬が真っ赤に変色した。驚愕していたラステルが自身を庇ったセリムの頬を見て悲痛に顔を歪ませた。


「姉様!なんて事を!」


今度はラファエに張り手が飛んだ。ギュッと目を瞑ったラファエの柔らかそうな白い頬からペチリと優しい音が鳴った。行き場を無くしたラステルの掌が宙を彷徨った。


「暴力は良くない。2人きりで構わないから落ち着いて話し合いをするべきだ。ラステルも、大事な交渉を軽々しく決めるべきじゃない。」


素直にありがとうと口にしたラステルをセリムが優しく見つめた。いたわるようにセリムの赤くなった頬を撫でるラステル。それを傷ついたように、ラファエが傍観していた。それからそっと後ろ姿を見せた。

一瞬見えた真っ赤に染まった耳に、今にも泣き出しそうだった横顔。


-あの目に燃え盛ってたのは憎しみだった。


罪だな、とアシタカは苦笑いしてセリムの背中を叩いた。意図が理解出来ないのだろう、セリムが少し凛々しい眉毛を眉間に寄せた。


「ペジテへ来いセリム。君に見せたいものがある。」

「是非。」

「その時は私も連れて行ってください。」


即答したセリムにラステルも続いた。


「ラステルさんはお姉さんをきちんと説得出来たらだな。」


ゆっくりと振り返ったラファエには再び平然とした態度が戻っていた。難儀な性格で損をしてそうだなとアシタカは思わず笑ってしまった。侮蔑されたと感じたのだろう、ラファエが冷え冷えとした視線をアシタカに投げた。敵意と警戒が揺らめくその目を、自分も別の炎で揺さぶってみたいと、そんな事が頭に浮かんだ。


「あらそう。ではお言葉に甘えて。行くわよ、ラステル。」


気分を害したのかラファエはラステルの腕を引っ張って城の方へと足を踏み出した。ラステルの顔が一度だけセリムに向けられ、口の形がまた後でと動いた。セリムが小さく手を振り返す。その慈しみに満ちた青い視線は一度たりとも隣の美しくたなびく黒髪には移らなかった。


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