孤影悄然
飛散した鮮緑がゴーグルを濡らした。
頭部と胸部の隙間を、力任せに切り裂いた人物に、ガンの体液が豪雨のごとく降り注ぐ。見覚えのある細い銀色の十字が横切る黒い外套。山合いから吹き付ける小渦を巻く風がそれを荒々しく翻す。
今にも弾けそうな空気、昼頃ではなく雷雨が崖の国のすぐそこまで迫っている気配。
セリムは汚れるのも構わずに手の甲でゴーグルを拭った。
暴れるのを待ち構える、うずうずした乱風。
クロスボウの矢が三本突き刺さった鉛色の殻。眼光を失った灰色の三つ目。小さく、細かく震える体。量が減って勢いを失った体液。
ふいに、憐憫を浮かべるラステルが脳裏を掠めた。
大血管の通り道、柔らかいところを正確に攻撃されて、ガンは即死したのだろう。断末魔は聞こえなかった。ラステルはどうだろう?気がつかないで、知らないでいて欲しい。絶対に教えるものか。
広がっていく緑の水溜りがセリムの足元まで届き、取り囲む。掌から抜け落ちていた鉈が姿を埋められた。セリムの足首も沈んだ。
ガンの体液が滴る剣を握った後姿が振り返る。外套で剣を拭ったアスベルの鶯茶色の瞳は冷え切っていた。
「アスベル先生!」
セリムの後方からクロスボウを構えたアシタカがアスベルに駆け寄っていった。
「先生、大丈夫でした?」
「ああ。それよりセリム……。セリム?」
疑問符の後、セリムの胸中を察したのか、アスベルの顔に微かに苛立ちが覗いた。
「アスベル先生、なぜ混乱している迷い蟲にこんな非道な真似。」
「迷い蟲だと?」
「そうです!彷徨って怯えていた筈です!」
「何故分かる?」
アスベルから発せられた濁った太い声に首に膨らんだ青い筋。アシタカも困惑したように眉間に皺を寄せている。
「あんな黄色い目を見たことがない!森へ返せたかもしれない。」
「かもしれない?お前の不確定な推測で崖の国を蟲森の底に沈没させるつもりだったのか⁈」
「そんなつもりありません!可能性があるのに、目の前の救える命を自ら捻り潰すなんて……。」
極悪非道という台詞が喉まで出かかった。蟲が人里に襲来したら即座に殺せと教えられた。アスベルの失われた故郷の惨劇。何度も、何度も聞かされてきた。
蟲に関わるならば身を守る術をと剣を弓を銃を徹底的に指南され、蟲の共通構造と即殺方法も仕込まれた。
「守るべき家族を生贄に化物を救うつもりだったのか?私が来なかったらどうなってたか想像してみろ!」
「そんなの分からないじゃないですか!まだ何もしていなかった!」
「蟲森遊びは構わんが己を過信するな!たった1人で何が理解できる!1人で死ぬのは勝手だが、叶わぬ理想に他者を巻き込むな!」
怒号でセリムの台詞を遮るとアスベルが睨んだ。セリムは「でも」という言葉を飲み込み、肩を落とした。
苦くて吐きそうだ。国民を負って蟲と対峙したのに、迷った。己の仮定に根拠がないのに、方法も知らぬのにセリムは惑い、その一瞬の判断で愛すべき国民が死へ誘われたかもしれない。突きつけられた事実に身震いが沸き起こり全身を覆う。
叶わぬ理想。アスベルの本音を知っていても、耳にしたくなかった。どうして決めつける、何故試してみない?
セリムの心臓は凍りついているのに、それでも不服を抑えられない。
「殺生を好まないのは知っている。つい甘やかしたが、無理矢理にでも経験を積ませておくべきだった。」
吐き捨てるように告げるとアスベルは目を逸らした。それから剣で外骨格を引き剥がしはじめる。貴重な資源を得るのに、死後硬直前というのは理にかなっている。けれどもセリムには納得がいかなかった。
「埋葬します。離れてください。」
体を折って、手探りで鉈を探る。傷口から蟲の体液が混入する危険性は未知だというのに、止まらない。案の定鋭い痛みが指の腹を襲った。辿るように指を動かして鉈の柄を掴み、振り上げて構える。
「戯言を。どうしたというのだ、セリム?」
国のために戦場へ行く日はきっと遠くない。大陸情勢がセリムがこの国で生きる事を許さない。もしそうならば強く願ってしまうだろう。生きて帰りたい、と。
生きるために殺す日が来る。
だから今血塗れになろうが、後で血で汚れようが同じだというのに、不満が抑制出来ない。人ではない、蟲だ。意思疎通不可能な化物なのに。
「せめて手厚く葬ります。そいつに非は無かった。だから、離れてください。」
命を奪うという理不尽と傲慢に、我慢がならない。家畜を食らい、実った果実の恩恵にあずかるのもある種同類だというのに。
生きるために手を掛ける。
違いが区別できないのに、ふつふつと怒りと悲しみが沸き起こる。
万が一知ればさめざめと泣くだろうラステルに、後ろめたい気持ちを抱きたくなかった。それが1番の理由かもしれない。彼女の泣く姿を想像するだけで、胸の奥が軋んだ。
アシタカがクロスボウの矢を回収する手を止めて向き合った。一本だけ抜いた矢を装填する険しい顔つき。
「ラステルさん?」
アシタカが零した名にセリムは勢いよく振り返った。
寝巻きの薄いワンピースだけで、乳白色に近い肌を露わにしたまま、靴さえ履いていない。まだ知らぬラステルの姿にセリムは目を奪われた。惚けではなく、恐れ。芽吹いたばかりの若々しい草色が唐紅に変わり、その中に激情が宿っていた。
徐々に近寄ってくると、手に共食いする双頭竜が刻印された短銃が握られているのが分かった。セリムが護身用にと渡し、物騒な物は必要ないから部屋に置いてある、そう言っていた銃。
「ラステル……?」
「ラステルさん、何の真似ですか?」
返答はない。無表情なのに激昂を感じさせるラステルと、怪訝ながらも眉を釣り上げてクロスボウを構えるアシタカ。間に挟まれたセリムは鉈を握った腕を下ろしてた。
「ラステル?」
問い掛けを無視して、ラステルの顔が蟲の死骸に向けられた。いつでも応戦できるように軽く剣を持ち上げたアスベルがアシタカに近寄った。
「誰だ?あの娘。」
「彼女はセリムの。アスベル先生はご存知ないのですか?」
「いや?ああ、そういえば紹介したい娘がと……。」
蟲の姿を捉えてほんの数秒後、ラステルはすとんと腰を抜かしたように座り込んだ。セリムは鉈を体液の溜まりに投げて走り出した。
「ラステル!」
目の前までくるとセリムはしゃがんだ。岩と草が半々のまばらな丘の途中で無造作に座り込んだラステルは、剥き出しの足にいくつもの傷をつけていた。滲んだ鮮血に思わず手を伸ばす。
「間に合わなかった。」
溢れそうな大粒の涙を両眼に溜めて、ぽそりと呟く。深紅はセリムを映しているのに、遠くを見ている。まるでセリムなどここに居ないかなように。
「もう少し早く気がついてれば、銃弾が届いたのに。助けてあげられなかった。」
差し出そうとしていた手が空を切った。ラステルの銃口の相手がセリムの恩師だという事実と、その躊躇いのなさに驚愕が襲う。悲哀を示すのではなく、激憤に滾っていた紅の矛先にも。
「ラステル……。君は……。」
「セリム?」
瞬きで青ざめた頬が濡れた。憎悪の炎が消えて、見慣れた若草色が灯る。一縷の迷いもなかったのに、ガラリと変化して怯えたように揺らめいている。憂慮の面持ちで首を左右に振った。ゴトリと短銃が岩にぶつかって丘を転げ落ちていった。
「セリム、私……。」
-得体の知れない化物よ
衝動がセリムの体を動かした。殆ど同時にラステルが縋り付くように体液まみれのセリムの服を握りしめた。
「私、自分の事が分からないの。」
「構わないさ。僕も自分の事が分からない。」
噛み付くようにラステルの唇を奪い、腕を回す。それから隔絶感を埋めるようにきつく抱き締めた。
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