ガンとの対峙

捻じれカザフを降りてしばらくラステルの姿を待つ。けれども今日も一向に現れる気配はない。

セリムはカザフの枝に座って小羽蟲の群れが眼前を横切るのをぼんやりと眺めた。

ラステルと最後に会ったのはもう一月も前になる。ラステルと出会って半年以上、こんなことは初めてだった。

初めて会ってからセリムがこの辺りに来れば、ラステルはほとんどセリムの前に姿を現した。それもそんなに時間も経たずに。

約束をしたこともあるが、ほとんどは突然の来訪だったけれど会えない日は無かった。

ラステルの村の蟲服を着て森を案内してもらいスケッチを手伝ってもらった。オルゴーで飛んだり、人目につかなそうな場所で他愛もない話をして、セリムは仕事以外は殆ど蟲もりで過ごしていた。思い出して楽しい筈の記憶が途端に切なく感じる。

最後に会った時に喧嘩をしたわけではないし、むしろ贈った髪飾りをとても喜んでくれていた。


「やっぱり何かあったのかな。」


蟲森の奥深くへ行くにはセリムのしているマスクでは役に立たない。空気が淀み、薄紫の霧が見える場所より奥には決して足を踏み入れることが出来ない。レストニアのマスクでは役不足。無鉄砲なセリムも流石にアスベル先生のきつい忠告に従ってきたし、ラステルからもよくよく言い聞かせられている。

いくらセリムでも生死に関わる事に関しては注意を払う。

ラステルの村はその中の土の下にあるという。ラステルが外界へ踏み込まないようにセリムもまた奥へ行きたいとは言えなかった。

それどころか興味が強くともラステルの村で使用しているマスクを欲しいとも、調べたいとも口に出来なかった。

住む世界が違うという意識からなのか、そこまでの信頼を得ているという自信が持てないからなのか。今思えば両方だったのだろう。これほど誰かに臆病になることは珍しかった。

心配しかできないのが歯がゆくて自分の無力さが骨身にしみる。植物研究など全く身に入らないが、ただぼんやりとしている事は時間の無駄だ。

蟲森の植物採取と研究は自身の好奇心を満たすだけの行為ではなく民の為でもあるのだから無意味なことをしているわけにはいかない。重たい腰を上げてセリムは歩き出した。

直後、目の前に何かが落下してきた。身を引き確認するとそれはラステルの村で使うマスクのようだった。周囲を窺がいながらそれを手に取って確認する。

目に当たる場所も口のところも長方形に出っ張っていた。ラステルが使っている物とは形が違う。ラステルが身に着けていたのは丸が並んだもので、もっと分厚いものだった。今手にしているのは薄くて軽い。


「ギギ……ギ……」


低い蟲の鳴き声。

顔を上げるとガンの群れがセリムを取り囲んでいた。十数羽のガンが四方の岩茸の上から珍しい若葉色の瞳でじっとこちらを見つめている。

青でも赤でもない知らない色はラステルの瞳を思い出させた。

セリムは様子を窺がいながら背中に手を伸ばした。逃げるには閃光弾が一番有効だと判断したが、その行為にガンの群れが一斉に飛行体制になった。

銃を構える動作をしたら攻撃されるだろう。セリムはそのまま注意深くガン達の様子を観察した。それから足を小さく動かして、目線だけを落として何かを踏み潰していないか確認した。卵か幼生を踏み殺してしまったとしか思えない状況なのに、足底には特にそういう感触は無かった。

ふと眼前の風が大きく揺れた。一際体の大きなガンがセリムの前に降りたった。思わず構えた長銃がガンの節足に薙ぎ払われた。鞭を素早く抜いて長銃を捕えると、セリムは近くの岩茸の陰へと転がるように身を隠した。ガンの目が真っ赤に変わる。


「ギギギギギギギギギギギギ!」


ガンの群れが鳴き、その大きな鳴き声に耳が痛んだ。バサバサと大きな羽音と入り乱れる風。向かい風の強い方向を確認し、閃光弾が一番有効そうな位置を定める。風が抜けていく場所と合わせて逃走する道を探った。

兜に何かがぶつかりセリムは頭上に長銃を向けた。先ほどの大きなガンがじっとセリムを見ている。もう目は赤くない。やはり若草と同じ色をたたえてセリムを凝視している。それからガンがまた短く大きく鳴いた。

その後、途端に訪れた静寂。


「何か目的があるのか……」


力を抜いて長銃を下ろすとセリムは目の前のガンを眺めた。その瞳に浮かぶ感情が理解できるわけもなく途方に暮れ一歩ずつ後ろに下がった。足に何かが当たりセリムはちらりと視線を向けた。そこにあったのは先程手にしたマスクだった。

その隙を見計らったようにセリムを見つめていたガンは羽ばたいて急上昇した。岩茸の上から次々に他のガンが飛び立っていった。その数は視界に入っていたガンの群れよりずっと多く四十、いや五十。なんて多い。

ガンだけではなかった。いやガンなのかもしれないがセリムには分からない。似たような樽型の体をしていて羽の数が異なる蟲が次々と飛び去っていく。

大小は様々で良く見ると節の位置や節足の数も違う。初めて見る蟲達にセリムは思わず岩茸から身を乗り出し無防備な姿勢で上空を見上げた。

鉛色の蟲森の空にセリムを見下ろすように滞空してるガンと視線が合った。恐らく先ほどの奴に間違いない。

大きく上下に頭を振っているがこちらに襲い掛かってくる様子はない。状況が飲み込めず困惑しかない。ふとセリムは重要なことに気が付いた。


「マスク。」


身を隠した岩茸の方へ戻り、あたりを探すとそれはすぐに見つかった。これがあればラステルに会えるかもしれない。柔らかな風が降ってきて、セリムはガンが近くに移動してきたのだと思った。案の定視線を上げると岩茸の上に奴が戻ってきて居た。落ち着いて観察したのでこいつだけは区別がつく。体の横に大きなバツ印の傷がある小振りなガン。


「これ、持ってきたのか?」


通じるわけないと思いながらもセリムはガンに尋ねた。反応は無い。相変わらず頭を振ってセリムをじっと見つめる。緑色の3つの瞳に無数のセリムが映っている。感情を感じることも読み取ることも出来ない。こちらが手を出さなければ襲われる心配はないとは分かった。セリムはガンを無視することにした。    

マスクを身に着けようとしたが兜が邪魔で外す。マスクには頭に固定するものが無かった。紐を通すような金具はあるのでなくなったのだろう。道具袋から太糸を出してみる。紐のようなものはこれしか無い。結べるように糸を調節して金具に通した。マスクを顔に当てると幸いにも飛行眼鏡の厚さがあっても十分余裕があった。後頭部で糸を結ぶ。ずれないようにすると革帽子越しでも後頭部に食い込んで少し痛かった。

押さえつけてマスクをしっかり密着させる。手鏡で隙間がないか確認したがマスクの内側の淵についている固い綿のおかげで大丈夫だった。ただかなり呼吸がし辛い上に視界もより狭く暗い。

兜を上からかぶれるか試してみた。予想していたがマスクが淵に引っ掛かって無理だった。

兜をかぶるのをあっさり諦めた時、バツ印のガンが羽ばたいた。ゆっくり背を向けて岩茸から節足を離す。


「ラステルが呼んでいるのか?」


ゆっくり飛行するガンに問いかけても鳴き声は返ってこなかった。背を向けて振り返る事も無く、濃くなる紫の霧に消えていった。セリムが蟲と繋がることは不可能なのだろう。  

兜を掴んでセリムは見えなくなったガンの方向へと足を進めた。

蟲森に足を踏み入れた時から何度も言い聞かされた、蟲森の奥では五分で肺が腐るというアスベル先生の注意が脳裏を過る。マスクの信頼性も未知数。

濃霧に消えては浮かぶガンの後ろをセリムは信じた。ガンはラステルの使いなのかもしれない。それだけが躊躇いや不安が払拭した理由だった。いや、ただ単に彼女に会いたくてならなかった。

この先できっとラステルが自分を待っている。

肺が腐敗する時間はとうに過ぎ、濃霧が徐々に晴れていった。

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