再訪、旅人アスベル
バタバタと騒々しい足音を立てて飛び込んできた青年は、息を整えながら満面の笑みを浮かべた。それがセリムなのだと分かるのにアスベルは僅かに時間を要し、それから月日の流れを痛感した。
「アスベル先生、お久しぶりです。ご無事で何よりです。」
「見違えた、一瞬誰だか分らなかったよ。」
頭を撫でようと無意識に手が出た。だが途中で気がつきその手を引っ込めた。自分よりはるかに小さかった少年は、少し見上げなければならない程大きくなっていた。
黄金に実る稲穂のような少し癖のあるサラサラとした髪と、菫色の瞳は昔とまったく変わらない。
目鼻立ちは確かに自分が知るセリムの面影を残している。だが輪郭や肉付きは大人のそれに代わり、声も変わった。すらりとしてはいるが、鍛え上げられた筋肉質な体躯。その成長を嬉しいと思う反面、寂しくもある。
「もう3年経ちますから。」
「ありがとう。しかしそんなになるのか。旅をしているとどうも時間の感覚が麻痺してしまう。」
後ろから現れたケチャがくすりと笑った。先ほど同じ言葉を彼女に告げたばかりだった。
「先生、話したい事が沢山有るんです。」
瞳を輝かせてセリムはアスベルの手を取った。自分と同じくらいの大きさの掌まで成長し、柔らかだった指は骨ばっていた。風凧操作だけではない剣術や鞭の修練を続けていると分かる固い豆。子のいないアスベルが幼少から関与し続けたのは彼だけだ。息子がいたら、こんな感情を抱くのだろう。
「それは是非聞きたい。」
「セリム、話は後だ。」
寝台の上で横たわるジークの一言でセリムは周囲の様子を見やった。城叔父の面々に兄弟達の集合している様を理解してアスベルの手を放す。
後で聞いてくださいと神妙な顔で頭を下げると、セリムはクロトワの右隣に腰かけた。その隣にケチャがさりげなく腰を下ろした。その仕草は大人の対応で、会議からアスベルを無邪気な笑顔で連れ出していた少年の姿はどこにもなかった。
「どこまで話したかな?」
「ドルキア王国とベルセルク皇国が休戦したと。」
ジークに促されアスベルは話を続けた。無論アスベルの旅の目的は大陸の政情を調べることではない。だがこの閉ざされた国への一番の手土産がこれなのだということも十分理解できる。だからこそ話すのであるが、一方で自分の研究に興味を示してもらえない切なさもある。
「何でもエルバ連合ともグルド帝国とも外交で手こずっているからだとか。末の姫にベルセルクの皇子を婿に迎え、協定を結んだとの噂です。単独侵攻を諦めて連合軍として攻めてくるのではと大工房ペジテは籠街準備をはじめています。その手紙もそれに関与するものかと。」
「不可侵の法律に従う大都市がこの小国に何を?」
「私は預かっただけで内容は知らんよ。ペジテにも恩義があるから断れなかった。政治に関与するつもりはない。」
何と無く予想はしているが口にはしなかった。もしかしたら、もう1人の弟子がこの国へ来訪するかもしれない。後でセリムにだけは自分の口から伝えよう。
「そうか。大陸1対立していた毒蛇とハイエナが手を組むとは誰も思わなんだ。北にグルド第1帝国、東にエルバ連合、南に大工房ペジテ、何処に何を仕掛けるつもりなのか。」
「グルドは第1帝国と第2帝国で相変わらず権力闘争、エルバ連合はここ数年の飢饉で人手も生活も余裕がないようだ。どこから手をつけるつもりなのか、ドメキア王国とベルセルク皇国の動きには気をつけた方が良い。」
無言でジークが頷いた。
「父上、軍に少し力を入れておきましょう。何があるか分かりません。」
若き日のジークに瓜二つのユパが厳格な表情で発言した。寝台でかろうじて半身を起すジークと、その寝台の脇に堂々と腰かけるユパ。アスベルに深々と頭を下げた。これで終わりだという合図。
「対策を立てましょう。それから召集時の対応も考えなければ。」
「皆、それで頼む。」
ジークとユパ以外の者は一様に不安気な様子。レストニアはエルバ連合に属する小国。エルバ連合とどこかの国で戦争が起これば、兵役召集に物資支援が必要となる。長い歴史において、崖の国が大規模な戦場になった事はないが、今後もないとは誰にも言い切れない。
定期的な毒胞子の襲撃や海風の暴動から家畜や身を守り、貧しい栄養しかない大地を工夫しなければならない、手間ひまかかる崖の暮らし。機械の遺産は少なく、蟲の殻を調達しようにもレストニアから陸路では遠いホルフル蟲森。
日々の生活を営むのが精一杯で、軍や兵器にまで手が回らないのは3年経っても変わらないようだ。
「クロトワ、フラクトリットの調整は念入りにするように。」
「はい父上。工房でもしばらくは飛行船や武器の整備を中心にしていきます。」
二人の兄の隣でセリムが不満げな顔をした。一瞬だけですぐに真面目な顔つきに戻ったがアスベルはそれを見逃さなかった。そしてそれを無性に嬉しく思った。
「アスベルさん、来たばかりであれこれ聞いてしまって済まなかった。クイ、寝室の用意は出来ているな。」
「はい父上。アスベル先生、以前使っていた場所を綺麗にしてありますので滞在中は御自由にお使いください。荷物もセリムが持ち出していないものはそのままです。足りないものは可能な限り用意します。」
さっと立ち上がるとクイはアスベルを促した。一礼してアスベルは部屋を後にした。恐らくこのまま話は続く。
部外者のアスベルがその場に残る理由はなく、勿論望まれてもいない。
懐かしい地下迷路、体が道を覚えていた。
「クイ殿、貴方も元気そうで何よりです。そういえばお子も大きくなったでしょう」
少し間が空いたので、話題を間違えたかもしれないと後悔した。
「上の子は六年前に高熱を出してあっさり。ケチャもセリムも色々と良くしてくれたんですが。」
「そうですか……辛いことを思い出させてしまって。」
「気にしないでください先生。先生がいなければ会うことも出来なかった子です。そうそう一昨年、ケチャにやっと子が生まれたんです。明日にでも会ってやってください。元気な女の子です。」
10年前に救えた命が失われていたことは辛い。微笑むクイの顔に余計悲しみが湧く。だがアスベルが表情を曇らせて彼女の気遣いを無駄にすることは出来ない。アスベルは微笑んだ。
「それは楽しみだ。そういえばセリムももうそういう歳かな?」
「あの子はまだまだ冒険に夢中です。仕事は真面目に取り組んでますが、時間が空くとオルゴーで飛ぶか植物と戯れるか。どんどん活動範囲は広がって、最近では毎日のように蟲森や研究塔に入りびたりです。」
困った様に溜息を吐くとクイは頬に手を当てた。
「あのお子のおかげで色々助かっているので皆強く言えなくて。そろそろ所帯を持って落ち着いて欲しいんです。」
「ふむ、私からも尋ねてみるよ。」
「ええ、セリムもアスベル様の話なら真摯に受け止めるでしょう。お願いします。あの子は、何を考えてるのか全く分からない。」
その言葉には僅かに恐れが含まれていた。親子ほど歳の離れた異母兄弟だが彼女はセリムの母親でもある。生誕と同時に母親を失ったセリム、初妊娠が死産でありセリムを我が子のように育てたクイ。半分しか血の繋がらない2人であるが、その絆は強い。
クイは怪我や死を恐れているという感じではなかった。それは当然あるだろうが、言葉に含まれるのは畏怖の念。それが何なのかアスベルには分からなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます