第6話

 私という小さなコップに蛇口を全開にして言葉の水を注ぎ込まれている気分だった。


 器に入りきらない言葉が、受け止められる限りに、ノートに書き殴られて形になっていく。私が書いているという実感が無い。何かに突き動かされているような、とはこういうときに使う表現なのだろう。


 切っ掛けは分かっていた。三者面談だ。


 昔、保険の授業で習ったことがある。ストレスに対しての応答にはいくつかの種類があるらしい。子供っぽく振る舞うことで自分を守る"退行"とか、無理矢理に自分を納得させる"合理化"とか。


 "昇華"、とか。


 お母さんと一緒に誰かに会うことになると、いっつも胸が苦しくなる。お母さんの友達とか、先生とか、ピアノ教室の生徒の保護者さんとか、誰と会うときでも。


 私は悪い子になる。


 ならなくちゃいけないから。


 でも、でも。私は大袈裟に言ってしまえば、幸せだ。不幸では無い。悪い子なのはそのときだけ。それに私が悪い子だからって、そのときだって幸福だから。お母さんはそういうとき生き生きとしているし、私はお母さんが好きだし、生き生きとしているお母さんを見るのが幸せじゃないわけがなかった。


 例え嫌な気分にもなったとしても、少しは幸せを感じられることに、変わりは無い。


 それをうんと大袈裟に表現してしまって、何か問題があるだろうか。


 ほんのちょっとでも幸せだと思えるのなら、胸を張って幸せだと言い張っても良いはずだ。ちょっとでも幸福ならば幸福で、幸福ならばとても幸福で。その誇張を、修飾を、控えてなんてあげない。


 幸せなのは本当なのだから。


 ノートに文字が連なっていく。私という小枝にこんなにも瑞々しい青葉が茂るのだ。考えて出てくる言の葉では無かった。でもそれで良くて、それが良かった。神秘的だとも思う。私から考えずに出てくる言葉がキラキラしていた。


 見たことも無い種に水をやっている気分だ。私は見ているだけだ。自然に芽吹き、自然に育ち、自然に花開く。命が吹き込まれていく。


 楽しい。楽しかった。手が、止まらない。


 それがストレスに対する応答なのだと、片隅で理解してしまっていることだけが、針のようにちくちくと私を苛んでいた。



 ☆



 大事件の起こった十二月二十三日。


 あの日は帰ってからも色々と大変だった。友達を家に呼んで遊んでいたらしい妹にバウムクーヘンを差し入れて一悶着。そして何を考えたのか夕飯の席でその話をぽつりと妹が零し、紆余曲折あって母さんが泣いた。意味が分からない。当事者である俺も何がどうなったのか把握出来ていないぐらいだ。風が吹いて桶屋が儲かったと言って良い。


 それと緒志金の奴に彼女が居た件。


 去年かららしい。つまり中三、受験生の頃からだ。メールで聞かされたが、それ以上を聞くことは断固拒否した。黙って聞いていたら精神に多大なダメージを負う結果が容易に想像できる。惚気話には殺傷力があると知らずに刃を振るう輩には何度も血を吐かされてきた。


 その衝撃が尾を引いたせいで、イブもクリスマスもぼんやりとしていたらもう終わっている。今は二十七日、クリスマスと年末年始に挟まれた微妙な日だ。


 その夜。


 ……苑夢からメッセージが来た。


 苑夢からの連絡が!


 一斉送信だけど! 来てしまった!


『おっすー。書けたお話があるんだけどみんな読んでくれない?』


 『いいよ』と返すのに三十秒も掛からなかっただろう。あまりにも早すぎる返信だった。


 "こんなに返信が早いなんて苑夢のことが好きなのでは?"と思われるかもしれないと気付いたのはもう送った後だ。いや好きなんだけどね。うん。取り消すわけにもいかず悶える様は端から見れば奇人変人の類だっただろう。


 しかも送信時間を添えてメンバー全員に届くチャット形式だ。完全にセルフ羞恥プレイである。流石に我が身のアホさを呪った。


 色々あったせいで完全に浮き足立っている。何をするにも失敗ばかりだ。どれもこれも緒志金に彼女が居たせいだろう。ゆるされない。


 少し遅れて、緒志金と穂上からも似たような返信が送られてきた。別にそんなに長くも無いだろうし、断る理由は無いはずだ。満場一致だった。


 だが――、


『じゃあ明日か明後日にどこかに集まれるかな? 大丈夫?』


 そうメッセージが続いて、雲行きが変わった。


 今は冬休み。明日も明後日も学校は無い。なのにその日しか選択肢に無いというのか。


 まさか今すぐという話だとは思わなかったのだ。それに面と向かって見せる形式だとも。まぁ俺は暇は暇なので、明後日までならどちらでも大丈夫だったのだが、問題は緒志金だった。


『ごめん実家だからすぐは無理だー来年まで待ってくれー』


 どうやら帰省しているらしく、申し訳なさそうに緒志金が断りを入れる。そして穂上からのメッセージは、


『明日の三時ぐらいまでなら何とか』


 だった。おーおー急だなーと思いつつ俺は『両方行ける』と返して、


 ――はたと気が付く。


『よし。明日の午前中で。場所はどこが良いかな?』


『私の近場で良ければのんびり出来る喫茶店知ってるけど』


 あれよあれよと進行していく話し合いを今更止められそうも無かった。俺だけ離脱することは出来ないだろうか。何も考えていなかった。


 苑夢と穂上と、三人で集まる?


 休日に。女子二人と、俺が一人で?


『へーミヤコ喫茶店行くんだ! 行ってみたいっ!』


『三枝駅まで来てくれたら案内するよ』


 待ってくれ。


『うん! 矢尾っちもそれで良い?』


 断れ。頑張れ俺。断るんだ俺!


『うんん』


 ……、……。


 うんん、とは一体。



 ☆



 一度挫折した行動を、もう一度やり直すにはかなりの気力が要る。なにせ失敗の経験が鮮明に残っているのだ。まぶたにちらつく光景は声なき声で自らを諫めるだろう。それが正しいかどうかはさておき、本能は叫んでいる。やめておけ、と。


 何が言いたいのかというと。


 手が滑った結果、断るための勇気が枯渇した。もしも俺が元気もりもりでパワーに溢れていれば再トライ出来ていただろうがそんなことを言っても仕方ない。精神修行だと考え諦めて準備をする。自分自身でもこの人間関係に対しての免疫の無さは何とかしないといけないとは思っていた。


 これは鍛錬だ。外出を意識すると竦む心を叱咤する。トレーニングとは自らをいじめ抜くことだと聞く。ならばこれもまたそうなのは明白だ。俺は自分自身の軽率な言動に追い詰められているのだから。自業自得とは、自己鍛錬を指す言葉なのである。


 そうやってうろちょろする俺の行動が奇異に見えたのだろう、母さんが目を丸くしていた。


「何ミノル、朝からいそいそと。出掛けるの?」


「あー、うん」


 壁を見ながら答える。目を合わせても表情を気取られても何か良くない展開になりそうな気がした。親子の付き合いは長い。考えていることが表情に出やすいと評判の俺だ、それはもはやただの予感では無く、確信の出来る予測と言った方が良い。


「どこに?」


「いいだろそんなこと。と、図書館図書館」


「……女の子?」


 ――ばれた。


 まぁ、分かっていたとて避けられるものでも無かったのだ。ばれるものは、ばれる。むしろばれたのが当日なのが不思議なぐらいだ、昨日から様子がおかしかったろうに。


 壁に額を付ける。ほんのりひやりとして心地良い。


 女の子。そう、女の子だ。しかも二人。しかも緒志金シールドが無い。そんな装備で大丈夫か。


「っるせー」


「えっ、ほんとなの?」


 どうしてこう、一回もそれっぽいことを言ってはいないのにどんどん事情を悟られていくのだろう。顔に書いてあるとは頻繁に聞かされるのだが。俺は否定をしていないだけで肯定もしてないだろうに。態度があからさまなだけで。


 沈黙は金だ。


 黙して語らず、手早く身支度だけ済ませてさっさと家を出ることにした。何をしようと墓穴を掘ることになるのは間違い無い。経験から学んだ心得、"口は災いの元"だ。人間と喋ればろくなことにならない。災いの元なのは人間なのでは? 人間が憎い。人間滅ぼそう。


 どこぞの勇者のようなことを考えながら、唇を真一文字に引き結び、黙々と作業をする。


 服を箪笥からあるだけ引っ張り出した。取っ替え引っ替えしては姿見の前に立つ。寝癖は直した。あんまり張り切りすぎるのもそれはそれで恥ずかしいし、髪型はいつも通りで良いだろう。良いことにする。そう信じる。ただ服装は捨て置けない。髪型は普段通りでもそんなもんかと流されるものだが、服装が変な場合は問題だ。


 もちろん苑夢も穂上もそれで馬鹿にしてくるような奴じゃないだろう。たぶん。だが、気を遣われるのも心に刺さるものだ。何とも言えない表情は罵詈雑言の次につらい。目は口ほどにものを言う。


 興味深げに観察してくる親の視線を振り切って、俺は支度を終えた。時間にはまだ余裕があるけれど、家に居るのはとても気まずい。さっさと玄関先に向かおうとして――、


「送ってってあげようか? ミノル? どこ行くの?」


 背中に、母さんから声が掛けられた。


「いや、いい」


「……」振り払うように吐き捨てた俺の言葉に、母さんの声が萎む。「そう……」


 そういう反応は、卑怯だ。


 俺が母さんにぶち切れたのは無かったことになんてなっていない。


 母さんに怒鳴ったこと。妹にメールしたこと。バウムクーヘンを買って帰ったこと。


 立て続けに俺は妙な行動を繰り返していた。自分でもどうしてそんなことをしているのか分からないが、やってしまったのは確かだ。それが重なって、当然、家の中はぎくしゃくしている。


 だから母さんもどこか悲しげで、表情や仕草で気持ちが読み取れてしまうと、その度に困っていた。


 ――きっと。


 きっと、俺が、俺の感情の振れ方さえ、制御できるようになれば。この家は上手くいくのだろう。


 振り返って、見る。


 母さんのことは嫌いなんかじゃ無かった。理解しているからだ。この人は心配性が過ぎるだけだし、そもそもそうなってしまったのも俺が原因だった。なんとなく、家族だからだろうか。母さんは俺のことも妹のことも見限らないと思う。どれだけダメな生き物だったとしても。だからこの人は心配性になることを選んだのだ。諦めること無く。


 それは愛されているということだ。


 魚心あれば水心。愛されているのなら、嫌うのは難しい。母さんが何かを解決してくれたことは無い。決して『実』を伴わないのだからそれが伝わらなければいいのに、在りもしない行間を読むのは得意なのだ、俺は母さんを信じてしまっている。


 家族仲が悪くて良いことなんて無い。


 だから、だからだ。


 母さんの目を真正面から捉える。大人のくせに不安げに揺らめく瞳が苛立たしい。だけど言う。父さんも母さんも妹も、嫌いじゃ無いから。


「よく考えたら遅れそうだから、やっぱり送ってほしい。駅まで」


 水面に一石を投じたように、まるで波紋が広がっていくように、俺は悲しげな表情が喜色満面に変化する様を目撃した。


 ――これで良い。


 計算する。この人が何を望んでいるのか。それに従えば良い。母さんの望むこと、妹の望むこと。父さんは居ないようなものだ。だから二人分の条件さえを満足すれば、家族の不和は解消される。そこに何も問題は無い。


 二人が望むように振る舞えば良い。それで良いんだ。


 そう決断することには度胸が必要だったけれど。何、今から向かうところを考えれば、軽いものだ。うちの不仲なんて、その程度のものでしか、俺一人でどうにか出来る問題でしか無いのだから。

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頭の悪いラブコメ 針野六四六 @zakozasf

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