邪神の気まぐれ

めめ

一日目 1

 まだ夏の暑さが残るころ、男は真夜中にその場所を訪れていた。まるで暗闇など介さないように、平然と明かりのない廊下を歩く。

 たまに通路の壁にかけられた絵画を見ては、満足げに笑みを浮かべる。男にはなぜかはっきりとその絵の細部が見えているようだった。絵には明るい色彩など、全くと言っていいほどない。夜の色にとけこむように、彩度の低い色ばかりがそこに使われていたというのに。

 通路は呆れるほど無装飾で味気が無いのに、絵画だけはやたらと飾られている。そのすべてに目を通しながら廊下を歩き、男はとある部屋の扉を無造作に開けた。

 中には誰もいない。ただ、開かれたカーテンから、満月にほど近くわずかに欠けた月が見えている。月夜の光を受けながら、男は口元を歪め、低く笑うように呟いた。


「始祖の本……その切れ端は……やはり、あの男の手、か」



********



 日本に名を連ねるいくつかの財閥の一つに、早見という大企業があった。古くは江戸時代、小さな宿から始まったこの家は、年を経るごとに大きくなっていき、一度は新興華族しんこうかぞくにすら選ばれた、指折りの名家である。メインは宿・旅行関係なのは変わらずとも、今では様々な事業に手を出している。特に美術系は、何代目かの当主が好きだったようで未だに結構な力を入れて後押しをしている。現在は九代目、時期十代目は誰になるのか、というのが最近の早見の大きな話題の種である。現当主があまり家に興味のない人間で、表にほとんど出てこない名前だけのような存在だから、余計そうなのだろう。

 一時期は華族だのなんだの言われていたが、現代日本においては一般家庭と大きく変わらない。テレビや漫画に出てくる、クラスに一人はいる金持ちに近い感覚だろうが、当の本人たちにそこまでの特別意識は無かった。


 そんな一人、早見優太は、大兄弟の末っ子として生まれた。

 九代目は手が早く、たくさんの女と関係を持った結果、家に九人の子供を残した。異母兄弟である早見の子供たちは、長男が既に三十九を迎え、末の優太ですらそろそろ成人になる。先の話題でもある時期十代目が誰かというのも遅く感じるほどだ。しかし、跡目争いなどというものはなく、どちらかというと皆後を継ぎたがらない早見家では、一応長男の慶一よしかずが会社の社長代理であり、時期当主という形になってはいる。本人は、いつでも辞退するといって聞かないが。

 そういった大人の事情には一切かかわらず生きてきた優太は、しかし彼には彼なりの悩みがあり、けして楽には生きていなかった。決定的に頭の出来が良くなかった優太は勉強に対するやる気もあまりなく、エスカレータ式で大学まではコネ――金持ち学校だったため、ほぼ早見の名前のおかげ――で進んだものの、その先をまったく考えていなかったのだ。趣味でロックバンドをやっている彼のメンバーはおおむねしっかりとした人間が多く、それも優太の心を焦らせる原因の一つになった。そして、なによりも一番の原因は”彼女”の存在だった。

 早見優太には、画家をやっている美人の彼女がいる。

 年上の彼女は、慎ましく、まじめで古風な大和撫子だった。二十五で、優太よりも六つほど年上である。出会いはとある早見主催の展覧会で……、という話はさておき、優太はその彼女に負い目を感じているのである。金はあるが、それは実家の金であって、優太の金ではない。そして、優太が大学にいるのも家の金。これから就職できるかと言われると、優太にはあまり自信がない。だが、大人の彼女はしっかり自分で稼ぎ、生活している。その大人として自立した輝きは、優太にはあまりにもまぶしすぎた。

 もともと童顔で、母親似の優太は男として格好いいかと言われたら、なよなよやへらへらという単語が先に出てくる程度には、へたれているように見える。そもそも金髪にピアス、ロックバンド、という時点で俗にいうチャラ男としての地位を確立させているのだから、優太が彼女に釣り合うようにいまさら真面目にしてみせたところで、優しい彼女はそちらの偽りの姿の方を許さないだろう。まあ、そこも好きなところではあるけども。

 結局、優太はいつも通りの生活を毎日続けている。いつも通りとは、朝寝坊をし、大学をさぼってバンドに行き、デートに行く毎日だ。自分でもだいぶクズであると認識しているし、実際大学をサボる事は彼女にいつも叱られている。その時は反省しても、いざそれが迫ってくると就職の事も大学のことも後で考えればいいかと後回しにして、目の前の楽しいことにふけってしまう。

 優太はそういう人間だ。

 逃げ癖、諦め癖、面倒くさがり、楽観的で適当、大雑把おおざっぱ、自分勝手、我がまま。自分をイメージする言葉がつらつらとこれだけ出てくるのも凄いだろう。優太は自分を矯正きょうせいすることすら、なかばあきらめている。

 だけど、彼女とは別れたくない。

 金持ちの家に生まれたゆえか、生来のものか、早見優太はどこまでも欲張りな人間だった。


*****


「優太、朝だよ、起きて」


 十九歳、大学一年生になって早数か月、だらしない優太はある声によって起こされた。その声の主は優太には分かっていた。一人暮らしを始めた優太の家にわざわざこうして来るのは、一人しかいない。

「あにき……うるさい」

 優太は布団から顔も出さずに呻いた。ため息が聞こえて、優太はより深く布団を被る。

「優太、うるさいじゃないでしょ。朝御飯作ったよ」

「……後で……」

 肩を揺さぶられ、優太はいらいらしたようにそう告げた。

 すると、静かになったので諦めたのかと思った優太の視界は、唐突に揺れる。その衝撃に思わず目をぱちくりすると、目の前にはいつの間にか兄の秀麗な顔があった。

「……え」

「おはよう、優太」

 にこりと笑う兄は、朝から大変美しい。

 どうやら布団ごと兄に持ち上げられ、抱えられてしまったらしい。それを認識すると、優太は顔を赤くし、兄の身体を思い切り両腕で押す。

「ちょっと……俺も兄貴もこんなことするような歳じゃないっしょ!」

「はいはい、優太はこうでもしないと起きないんだから。早く起きてくれれば、俺だってわざわざやることもないんだけど」

 兄は素直に優太をベッドに下ろし、その頭に軽く手を乗せた。寝ぼけた優太はむすりとしたままそれを払う。兄はおっと、と言いながらさっと手を引っ込めた。弟に邪険にされてもどこか楽しそうで、優太はそれに更にいらいらを募らせた。

 兄は、早見家四男、祗朗しろうという。今年二十九になる彼は、容姿端麗、文武両道、天才を地で行く早見の誇る優秀な息子の一人だ。からすの濡れ羽色とも言うべきつややかな長い黒髪を後ろで縛り、ダークブルーの瞳、白い肌、日本人離れした高い鼻と185cmの高身長を持つ、欠点を見つける方が難しい高スペックの持ち主だった。もちろん内面も良く出来た人間で、正義感が強く上下関係なく気遣いのできる男だ。一つ重大な欠点を抱えていたが……。

 そんな祗朗は現在、早見の会社に勤めている。以前は東京本社に在籍していたが、今は転勤のため京都支部に籍を移していた。

 もちろん、優太の住むマンションは東京である。

「……兄貴、なんでまたいるの」

 寝起きのいらいらとした態度を隠すことなく、優太はぽつりと呟いた。兄は一瞬寂しそうな顔をしたあと、苦笑する。

「だって、優太が心配でさ……」

 今日も大学サボる気だったんだろう? と聞いてくる兄に優太は気まずそうに目をそらした。あながち間違いではなかったからだ。昼をまわった時間に起きて、もう遅いなぁと思いながらだらだらして大学に行かずそのままバンド練習へ行き、帰って寝るのは夜中、というのがほぼ毎日の優太のパターンだった。

 それを兄は、週に何度かの朝、京都からわざわざ東京まで来て優太の世話を焼いて帰る、という面倒なことをやってのけるほどのブラコンぶりだ。仕事は大丈夫なのかといつも優太は心配しているが、どうせ兄は優秀なので、出勤が遅れても怒られないんだろう。実際聞いたことはないが。

 これが優秀な兄の、重大な欠点だと優太は思う。

「あ、もう行かなきゃ。優太、朝ごはん作ってあるから、ちゃんと食べていくんだよ。二度寝しちゃだめだよ」

 はいはい、と適当な返事をしながら、兄がばたばたと部屋を出ていくのを見守る。優太は頭の後ろをぽりぽりと搔きながら、寝起きの鈍い頭でこれからの予定を考える。のっそりとベッドから降り、あくびをしながら簡単にシーツなどを整える。優太は二度寝をしない。寝ぎたない癖に、二度寝はあまり得意ではなかった。

「めちゃくちゃねっみい……兄貴め……」

 それでも昨夜の就寝時間は夜中……いや明け方の四時頃だ。その時間に寝て昼に起きるのが常の優太にとっては朝八時というのは早すぎる。

 だらしない生活をしつつも、現代若者らしく潔癖けっぺきのきらいがある優太は洗面や歯磨き、身づくろいを欠かさない。自慢の金髪を整え、青のピアスをはめる。鏡の前でいい顔をして今日の笑顔をチェックするころには、もうだいぶ目が覚めていた。兄のことも、もういつものことだと流せるくらいには心に余裕ができる。

 今日は朝から登校する必要のある講義はなく、のんびりとリビングに向かう。普段は朝ご飯を食べることがあまりない優太だが、兄が用意した日だけはきちんと食べる。兄の料理は、そこらへんの店よりもおいしいのだ。

「あ~……今日は和食ね」

 兄の気分によってジャンルは様々だが、今日は一汁三菜いちじゅうさんさいしっかりとした日本の朝ごはん、といった風体ふうていだった。偏食へんしょくの多い優太の好きなものしかないところは、兄の甘さがうかがえる。いつもはもっとゆっくりしていくのに、今日に限って忙しそうだったな、と優太は味噌汁みそしるに口をつけながら兄の事を思った。


 のんびりとテレビを見ながら食事をとっていると、講義の時間がすぐそこまで迫っていた。早起きしたにも関わらず、結局優太は慌てて家を出たのだった。



***



「優太、また寝てるのかい?」

 机につっぷしていた優太に声をかけてきたのは、同じ学年の平野ひらのだった。素朴そぼくな青年で、黒髪を短く揃え、眼鏡をかけている。ザ・真面目と言った風か。

 そこまで仲が良いわけではないが、こうして講義がそろえば一緒に話したりもする。優太は基本、誰にでも話しかけるし、話しかけられても嫌がらない人間だったから、少し気の弱い風で引っ込み思案でもある平野とも気兼きがねなく話す、稀有けうなタイプだったと言えるだろう。だから、こうやって平野からも話しかけてくるようになっていた。

 優太は、先にもあったとおり大学デビューとばかりに髪を金に染め幼馴染おさななじみと共に買った青いピアスを両耳につけていたから、見た目は軽薄そのものだった。しかし害が無いと思われているのかは知らないが、知らない人間にも良く話しかけられるし、優太も人見知りではないためにすぐ仲良くなる。兄に「優太のそういう所は、才能だね」と言われたことがあるが、当の優太は意味が分からずに首をかしげた記憶がある。

 平野の言葉に、優太は低い声で唸った。

「だって、今日も早く起こされたんスもん」

 朝、兄に起こされたことは眠気が再びやってきたことで怒りがぶり返していた。邪魔するなと言わんばかりにパーカーのフードを頭に被せてまた机に突っ伏す。

 優太は今日もバンドメンバーと練習がある。ギターケースもばっちり大学構内に持ち込んでいた。見えないように机の下に置き、たてかけるように隠す。

「相変わらず自由だな、うらやましいよ」

 それを見ながら苦笑するように平野は言うが、優太はそれに応える余裕などなく、まもなく意識を落としていった。


 つつがなく大学の講義が終わった。

 優太はほぼ全てで睡眠をとりつつも、ちゃっかり出席票も提出したのだった。

 今日予定していたすべての講義に遅刻せず出ることが出来たのは、ひとえに平野がわざわざ起こしてくれたおかげだ。そこは感謝するべきところだが、実際のところ単位などコネや金の力で何とかなるのではないかという非道徳的な考えが優太にはあったので、そこまでかと言われたら心の底からの感謝ではなかった。実際、大学に出ていた日数なんていちから数えた方が早いくらいだ。

 ギターケースをよいしょと背負った優太は、帰る準備をしている平野の顔に目がいった。

「ひらのっち、今日顔色悪くないッスか?」

 平野は、それを聞くと不自然なほど動揺していた。

「え……そう、見える?」

「自覚なし? ちょっと青白いッスよ」

「優太みたいに日焼け止め塗ってるわけじゃないんだけどなあ……」

「ひらのっちは真面目すぎなんスよ! ちょっと肩の力抜いて、一週間くらい学校休んじゃえば」

 優太がそう言いながら笑うと、平野は苦笑しながら帰り支度じたくを終えてかばんを担いだ。

「優太じゃないんだから……一週間も休んだら追いつけなくなっちゃうよ……」

「えー! 酷いッス! そりゃ、今やってること全然分かんねえッスけど……」

 ぶーぶー口をとがらせて文句を言う優太は自分を過大評価しているつもりはなかった。自分が全く勉強に追いつけておらず、試験を受けるまでもなく点数をとれないだろうことも、分かっている。だからといって開き直っていい理由にはならないが。

「どこまで行くんスか? 途中まで一緒に行こうッス」

 優太が深い意味もなくそう言うと、彼は目を泳がせて困り眉になった。

「あー……ごめん、僕ちょっと教授に会ってこないといけないんだ」

「あ、そっスか……じゃあ、また」

「うん、また」

 優太は大して気にせずに別れを告げ、ぎこちなく笑う平野に手を振る。会ったら絶対怒るだろう教授に会う気はさらさらなかったし、平野にそこまで付き合う義理もない。そういうさばさばしたところも、優太が好かれる理由の一つなのかもしれなかった。

「次、いつひらのっちに会えるかなあ」

 のんびり構内を歩きながら、優太はそう呟いた。平野は真面目な生徒だったので、優太が行くと高確率で大学にいることが多い。今回は少し顔色も悪かったから心配だったのと、同時にいつ自分が大学に行くか分からないという皮肉めいた意味も込めてそう口に出したのだった。


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