第67話 口にしてはいけない、その言葉

不敵な表情のヴァスコと、怒りを隠そうともしないお坊ちゃまがカウンター越しに睨み合っている。

もはや一触即発の状況だ。

明らかに悪いのはお坊ちゃまの方であるし、彼がもっと早い段階で一言非礼を詫びていればこんなことにはならなかっただろう。


(お互い、相手が悪かったですね……)


貴族か騎士かは分からないが上流階級の不遜な若者。

権威など意に介さない頑固者のドワーフ。

絶対に頭を下げない者同士の対立だ。

腹に据えかねることがあっても、争いを避けるために一歩下がろうなどという俗世間の知恵など彼らには恐らくない。

これが酒場で、お互いがただの酔客ならとっくに外で殴り合いが始まっていただろう。


(いえ、まあヴァスコさんの拳一発で終わりでしょうけれど……)


ドワーフ族の戦闘力は尋常なものではない。

生まれながらの頑強な肉体を、鍛錬と過酷な労働を積むことで練り上げているのだ。

背丈こそ低いものの、


「あいつらを侮るな。地獄を見ることになるぞ」


と、傭兵の師匠もしきりに口にしていたほどだ。

もちろん、そんなことをこの場でお坊ちゃまにいくら説いても無駄だろう。

傲慢な若者は一度ぐらい痛い目を見た方がいい、とも思えるのだが、


(それは例えばバドみたいな若者の話ですよね……)


上流階級を殴り飛ばせば、いくら相手側に非があろうと罪はヴァスコの側にある。

リサとしても素直に承服できぬ話だが、この国の『法』ではそのように決められているのだ。

何とかして最悪の事態は避けなければならない。


「若様、どうか、どうかお気を鎮めください……」


「黙れ、ウーノ! 我が家が侮蔑されたのだぞ、黙ってなどおれるか!」


ウーノも同じことを繰り返し言うぐらいしかできないようだ。

いっそ問答無用でお坊ちゃまを取り押さえ、外に引きずり出してくれればこちらは楽なのだが。

だが、温和そうなウーノさえいれば刃傷沙汰は何とか避けられるかもしれない――。

そう思った矢先、事態は急転した。


「由緒正しい我が家を侮りおって、この汚いドワーフの『亜人』ごときが!」


(バカ!)


リサの顔から血の気が引いた。

この世間知らずで傲慢な『若様』は、絶対に言ってはならない決定的な言葉を口にしてしまったのだ。


亜人――。

人に非ず、人に近いながらも人に及ばぬ存在――そのような意味合いを持つ、差別的な言葉だ。

エルフやドワーフといった妖精族、大鬼族や小鬼族に対して用いられる表現であるが、現在では表立って使われることはない。

それをこのお坊ちゃまは口にしてしまった。


「……もう取り消せぬぞ、ガキめが」


ヴァスコの顔が変わっていた。

もはや先程までのような、相手を揶揄するような余裕はない。

灰色の瞳から鋭い殺気が放たれている。

今にも後ろの戦斧を掴み、飛びかかりかねない様子だ。

そうなったらもう、リサにも止められない。


「……どうした、兄者?」


奥の部屋から、ヴァスコの弟のロッコがのっそりと顔を出した。

兄よりも少し背が高く、伸ばした白髪を丁寧に編んで後ろでまとめている。

日頃は不愛想で言葉数も少なく、接客は全くしない。

鍛冶仕事を専門としていて、店先に顔を出すことはめったにないのだが、


(聞こえてしまったのでしょうね……お坊ちゃまの愚かな一言が)


それ程までに重い言葉なのだ。

ロッコの目つきは、普段と変わらず茫洋としていた。

何を思うのかすぐには判断しかねる表情だが、決して穏やかではないであろうことは容易に想像できる。


(何とかして、戦いだけは避けなければ……)


どうにかして打開策をひねり出そうとした。


(一昨日のヤン様も、こんな状況だったのでしょうかね……)


あのグイード邸の一件とはだいぶ事情が違うが、不毛な争いを回避しなければいけないという点では近いものがある。

名誉を汚した者と、汚された者。

それならば――。


(言葉や金銭で解決は不可能ですし、あのおバカさんなお坊ちゃまが承諾するはずもありませんね……では、この手でいきましょう!)


カウンターの端に置かれた砂時計を見た時に、解決策が一つ閃いた。

上手くいくかどうかは、当人同士ではなく『大人』の二人にかかっている。

ともかくやらないよりはマシだと考え、リサは腰を上げた。


(続く)

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