第56話 命の代償(2)
「リサ、気づいてるとは思うが……」
「ええ、大丈夫よ」
橋を渡って東南区に戻るとすぐに、尾行者の気配を感じ取っていた。
何者か考えるまでもない。ヤンの放った密偵だ。
(ということは、やはりもうバドは……)
彼らに捕らえられたと考えるべきだろう。
もちろん、バドがまだ逃げ続けているという可能性もないわけではない。
だが、リサの知る限りヤンはそのような失態を犯す男ではなかった。
(生きていてさえくれればいいのですが……いや、その点は心配する必要はないですかね)
どう考えても返せる見込みのないバドに貸すのだから、ヤンの目的は金ではない。
若く壮健で命知らずの男を、借金で縛りつけていいように使おうという腹だろう。
だから、万が一にも殺したり、重傷を負わせたりするようなことはしないはずだ。
もっとも、あのバドがおとなしく捕まる姿は想像できないので、一連の過程の中で殴ったり殴られたりはしているだろう。
グウェンが知ったら、せっかく治してやったのにむやみに怪我をするなと激怒するに違いない。
(ともかく、こちらから動く必要はなさそうですね)
いずれ迎えに行かなくてはならないが、ヤンの方から接触してくるまでに対策を練っておきたい。
そう考えて『カモメの歌声亭』に向かっている途中で、二人の行く手を遮るように見慣れた馬車が止まった。
「何の御用でしょうか、ヤン様?」
前に出ようとするモニカを軽く抑えて声をかけると、ヤンが相変わらず口元に微笑をたたえて姿を見せてきた。
「ええ、実はお弟子さんのことで少々困ったことが起きましてね。ご同行いただけますか?」
「リサ、あたしも行こう」
「大丈夫よ、モニカ。先に戻って……そうね、私の幸運を祈っていてくれる?」
苦虫を噛み潰したような表情のモニカに軽くウィンクを送り、リサは馬車へ乗り込んだ。
「一体何があったのです?」
馬車が走り出すとすぐに、真向かいに座るヤンに尋ねた。
詳しい事情は屋敷で、ということであったが、こちらとしては考える時間は少しでも欲しい。
聴ける限りの情報は今の内に聞いておきたかった。
最初は屋敷に着いてから、と言葉を濁したヤンであったが、何とか食い下がると苦笑を浮かべて語り始めた。
「ええ、実は例の借金の件ですけれどね。どうも彼――バド、ですか。利子のことで納得がいかなかったようで」
「貸し付ける際に、利子のことはちゃんとお話したのですか?」
「ええ、もちろん。彼も承知の上で私から借りたわけです。疑わしいというのであれば、書面をお見せしましょうか?」
その必要はないので断った。彼が手抜かりをするはずもないからだ。
だが、いずれにせよバドが利子というものについて正しく理解していたかは、非常に疑わしい。
「それで……バドは一体何をしでかしたのです?」
「私の部下が利子の件を話したところ、『そんな話は聞いていない』と言い始めましてね。どうにも話が通じないので……」
「それで、私の所に?」
「いえ、実はですね。部下が貴女の名前を出した途端、彼が大暴れしましてね」
思わず拳を固く握り締めてしまった。ヤンが部下に命じてそう仕向けたに決まっている。彼の単純で粗暴な性格を利用したのだ。
「大変だったようですよ。『師匠は関係ないだろ、汚ねえぞ!』なんて叫んでいたらしいです。こちらは真っ当な商売をしているだけなのに、困ったものです」
暴利で貸し付ける高利貸しが、果たして真っ当な商売といえるかはともかく、よりによって金を借りた側が先に手を出してしまったのだからどうにも分が悪い。
「おかげ様で、うちの若い者が何人も怪我をしてしましてね。幸い、重傷ということでもありませんし、やられたのは単にこちらがだらしないというだけの話なのですが」
ちなみに暴れた場所は、ヤンの息がかかった酒場らしい。
何から何まで最悪だ。
テーブルの一つや二つでは済まない暴れ方をしたであろうことは想像に難くない。
ヤンはまるで茶飲み話のような口調で、こちらにとって不利な情報ばかりを伝えてくる。
頭を抱え込みたい気分だった。
借金に加えて、彼らの治療費まで負担させられる可能性がある。
いや、それ以上に彼らのメンツを傷つけた代償を払わなければならないだろう。
「しかもですね、リサさん。何とか皆で取り押さえたのですが、それでも元気いっぱいでしてね。ふふ、よりによってうちの元締を『卑怯者』だの『臆病者』だのと罵ったようで」
(……あのバカ!)
本格的に頭が痛くなってきた。
やってはいけないこと、言ってはいけない台詞というものがバドには分からないのだ。これは確かに、若気の至りなどでは済まされない。
「借金は踏み倒す、付け馬は殴り倒す、うちの経営している酒場を壊した挙句、元締の悪口まで言いたい放題、と。これはもう、軽くお仕置きして帰すだけというわけにもいかなくなってしまいましてね。何しろ我々、侠を売る稼業ですから」
あまりにもやり過ぎた。その場で殺されてしまってもおかしくない話だ。
だが、まだバドは生かされている。
やはり金ではなく、彼を利用することが目的なのだろう。
(ですが、バド一人を手に入れるためにここまでしますか?)
師匠のリサが言うのも変な話だが、そこまでの価値がバドにあるとも思えない。
そもそも、抗争に備えて命知らずの若者が必要というのならば、候補者は他にいくらでもいるだろう。
ヤンがわざわざ罠を張ってまで、バドを拘束する理由が分からなかった。
「元締もああいう方ですからね、多少暴れた程度であれば笑って許してしまうところです。ですがまあ、さすがにそこまで言ってはただでは済みません。『そいつのケツ持ちは誰だ!』と、怒り心頭の様子でして」
「そこで師匠の私が呼び出された、ということですね」
「ええ。まあ、元締もリサさんの名前を出したら少しは落ち着いていただけましたよ。さすがですねえ」
そう言われても、まるで誇る気にはなれなかった。
ともあれ、この危険な状況を打開する方策をすぐに練らなければならない。
カーテンが下ろされているので外の様子は分からないが、まだグイードの屋敷に着くまでに多少の時間はある。
交渉には万全を期して臨まなければならない。
リサはまず、最悪のケースを想定してみた。
リサもバドも殺される――最もまずい結末だが、その線は薄いだろう。
何より彼らに利益がまるでない。
人斬りグイードとその一党の恐ろしさを世間に知らしめることはできるが、モニカを初めとして多くの人間を敵に回すことになるはずだ。
たとえグイードが激昂し、二人を始末するよう命じたとしても、ヤンが止めるに違いない。
次に、理想的なケースを考えてみる。
リサもバドも、無傷で彼の屋敷を辞する――借金の件は必ず返済する、と約束の上で。
(いや……これはさすがに虫が良すぎますね)
先程のヤンの話を全て信じるなら、バドはあまりにも派手にやらかしてしまっている。
それを許したことが世間に知れ渡れば、裏社会におけるグイードの名が失墜することは間違いない。
ヤンの言う通り、彼らは侠を売る稼業なのだ。
メンツを重んじる侠客としては、やはり何かしらの落とし前はつけさせなければならないだろう。
リサとしては、この最悪と最善の狭間にある『落としどころ』を見出したいところだった。
状況は非常に厳しいが、配られたカードで何とかして『手役』を作らなければならない。
それができなければ、彼らの要求を一から十まで呑まなければならなくなる。
裏社会における交渉において、それは致命的な結果を招く。
(それにしても解せませんね……)
ここまでの一連の絵図を描いたのは、間違いなくヤンだ。
リサの知る彼は、何よりも理と利を重んじて行動する。
無駄なことは決してしない人間だ。
(今回の件、損得で考えたら、どう見ても釣り合いがとれません。どうして、こんなことを?)
バドに貸した銀貨十枚はともかく、他の経費と人員がかかり過ぎている。
そこがどうにも理解できなかった。
だが、この謎――彼の真の目的を見抜けないことには突破口は見出せそうにない。
あくまでも直感だが、その謎は決して複雑な結び目のようなものではなく、もっと単純明快なもののような気がした。
(私は何かを見逃しているのでは? よく考えて、冷静に……)
もう一度頭を整理し、逆の立場で一から考え直すことにした。
戦いの時には敵の心理を読め、そのためには「もし自分が相手の立場だったら」と考えることだ――傭兵の師匠に教わった極意の一つだ。
もし、自分がヤンの立場であったならば――。
元締を補佐し、来るべき大きな抗争に備えなければならないとしたら、どうやって戦力を集めるだろうか。
(烏合の衆を集めるよりも、戦い慣れた者を傘下に組み入れますね)
ただ数を揃えるだけでは、かえってマイナスになることすらあり得る。
その辺にいる不良たちでは、一人ひとりの素性も信用できない。
戦闘面での訓練も、忠誠心を植え付けるのも手間のかかる事だ。
一番手っ取り早い手段――それは、リサたち傭兵を雇うことだ。
傭兵は差異こそあれ戦闘力は期待できるし、忠誠心は皆無に等しいが契約を反故にする者はそうそう多くはない。
しかし、長期戦ともなれば費用がかさむ。
できれば、正式な配下として組み入れる方が後々のためにもなるだろう。
(ですが……私たち傭兵は……)
誰かに仕えるのではなく、己の意志で戦うことを望む者たちだ。
何より自由を求める傾向がある。
気楽な反面、いつ死んでもおかしくない危険と背中合わせであるが、それでもいいと割り切っている者が大半だ。
だからこそ、傭兵稼業を選んでいる。
帝国正規軍でも、保安隊員でも、グイードたち地廻りの子分でもなく――。
リサも、モニカも、ディノもそうだ。
だが、もしもそんな傭兵を『屈服せざるを得ないどうしようもない状況』に追い詰めてしまえば――。
(まさか……)
馬車が止まった。
ほぼ同時に思考が終着点に達したリサは、はっと顔を上げた。
向かい合うヤンと目が合う。
彼はもう、微笑を浮かべていなかった。
真剣な眼差しをこちらに向けている。
その表情には平素の余裕も、ましてやバドに対する怒りもない。
ただ、目には強い意志の光が宿っていた。
彼の目は、『リサ』ただ一人に向けられていた。
(そういうことですか!)
真直ぐにリサを見つめる彼の表情から、その胸に秘める真の目的を悟った。
瞬時に、背筋に寒気が走る。
(バドではなく、私を傘下に組み入れる……ということ!?)
バドの生殺与奪の件は、すでに彼らの手の中にある。
これからやることは至ってシンプルだ。
もう金で解決できる問題ではないと決めつけ、バドの命を救う代わりに手駒になれと申し出るのだ。
もちろん、答えを留保する暇など与えてはくれないだろう。
証文を用意し、儀礼を済ませればそれで終わりだ。
リサはもう傭兵ではなく、グイードの配下として働くことになる。
つまり、銀貨十枚でバドを罠にかけ、彼を餌にしてリサを釣り上げようということなのだ。
(それならば、全ての辻褄が合いますね……)
最初から『人喰いヤン』が狙っていたのは、バドではなくリサだったのだ。
グイードとヤンが、以前から自分を高く評価していることは知っている。
それに、もしリサが配下となればモニカやディノたちも共闘する可能性は高い。
彼らからすれば、貴重な戦力をまとめて一気に手に入れられるということだ。
だが――。
(それは断固、願い下げです!)
グイードという人物は決して嫌いではない。
むしろ好感を抱いている。
ヤンは不気味な一面もあるが、この街に必要な人物と認めていた。
彼らと――地廻りの組織と敵対するつもりは毛頭ない。
むしろ、リサにとっては仕事上の得意先の一つだ。
しかし、だからといって傘下に入るというのは別の話である。
リサは自分の信じる『正義』に従い、自分の『判断』をもって行動する。
だが、組織に入ればそうはいかない。
グイードの掲げる『正義』がたとえリサの信じる『正義』と真っ向から対立するものであっても、唯々諾々と従わざるを得なくなるのだ。
それは、リサの望む生き方ではなかった。
望まない生き方をするというのは、己を偽り、自分自身を忌み嫌い貶めながら生きていくことに他ならない。
それは到底、リサには耐えられないことだ。
言ってみれば、生きながらにして死ぬということであろう。
(これはもう、本当に命懸けでやるしかありませんね)
リサは覚悟を決め、グイードとの交渉に乗り出すことにした。
(続く)
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