第47話 追う者と追われる者(3)
翌朝――。
昨日に引き続き、空は一面雲に覆われていた。
風がほとんど吹いていない。
湿った空気の塊に周囲がすっぽりと包まれているようだ。
いつ雨が降るか分からない、そんな空模様だ。
河原の稽古場に現れたバドに杖を与えると、早速修行を開始した。
島にいた時に父の弟子たちを指導した経験があるが、いずれも真面目な若者ばかりで、バドのような荒くれ者は皆無だった。
果たして彼が、紫電流杖術の修行に取り組めるかという一抹の不安もあったが、
「五十一、五十二……」
意外なほど熱心に打ち込んでいた。
気性は荒いが、根は素直という見立ては間違いではなかったようだ。
(もっとも、これがいつまで続くかは分かりませんが……)
武術の稽古は、基本的には地道な動作の繰り返しだ。
決まった形を何度も反復し、身体に覚え込ませる。
頭で考えるのではなく、身体が自然に動くようでなければならない。
流れるような一連の動作を身につけるには、気が遠くなるぐらいの歳月を要するものなのだ。
リサの場合は物心ついた頃からずっと、それこそ朝から晩まで続けたものだった。
だが、さすがに今のバドはそうはいかない。
自分の食い扶持は自分で稼がせなければならないから、稽古にかける時間もそこまで長くはとれないだろう。
(まあ、体力作りに関しては、それほど必要なさそうですけれどね……)
今、バドに命じているのは『素振り』だ。
上段に構え、そこから真っ直ぐに振り下ろす。
傍目には、ただそれだけの簡単な動作としか映らないことだろう。
しかし、身体の軸をぶらすことなく、正しい動作で素早く杖を振り抜くのは決して容易なことではない。
リサの目からすれば、バドの素振りは、
「背筋が曲がっていますよ! 踏み込みももっと強く!」
指導しなければならない点が、多々見受けられた。
もっとも、修行初日なのだから当然のことだ。
グウェンの許可を得たとはいえ、傷の痛みもあるだろう。
(しばらくは、これを続けてみるとしましょう……)
紫電流杖術の修行には、これといって決まった順序というものは無い。
それぞれの能力や適性、体格や年齢などに応じて指導していくことになっている。
リサはまず、バドの精神面を鍛えることに重点を置くことにした。
ひたすら素振りを続けさせることで、根気を植え付けようという狙いである。
とりあえずは、彼の短気な面を矯正しないことにはこの世界で生き抜くことすら困難であろうと判断したからだ。
(これで投げ出してしまうようでは、私でも手に負えません……)
もちろん弟子とした以上は、最後まで面倒をみるつもりだ。
彼が過ちを犯せば、師匠として責任をとる覚悟はできている。
「バド、夕方になったら『カモメの歌声亭』に来てください」
「へ?」
修行が一通り終わったところで、声をかけた。
ひたすら素振りを続けたバドの顔には、びっしりと玉のような汗が浮かんでいる。
底無しの体力を持つ彼も、慣れない動作を反復するのはかなりきつかったようだ。
「……あ、もしかして、飯奢ってくれるんですか?」
「違いますよ。まあ御飯くらいは構いませんが、そうではありません。港へ行きましょう」
「港? うお、もしかして修行の旅ってやつですか!?」
「何ですかそれは。人の話は最後まで聞きなさい。貴方の仕事を探すのですよ」
「あ……仕事っすか……」
「はい。当然ですが、殴り屋なんて稼業は許しませんよ。今後一切足を洗いなさい。南区ならともかく、東南区でそんなことをすれば、命はありませんからね」
厳しい口調でたしなめると、叱られた子供のようにたじろいだ。
顔が露骨に引きつっている。
こめかみを伝い落ちる汗は、稽古のものとは別種だろう。
恐らく、いつの間に自分の過去を調べたのかと驚いているのだ。
「し、師匠は何でもお見通しなんっすね……やっぱりすげぇや……」
「これぐらいは誰でも分かることです。ともかく、言われたとおりになさい」
「はいっ! ありがとうございましたっ!」
深々と頭を下げると、バドは元気に去っていった。
つい先日刺され、しかも厳しい修行の後とはとても思えぬほどの全力疾走だ。
体力もそうだが、回復力も相当なものだろう。
その背を見送り、大きく溜め息をついたリサだったが、
(あ……治療費の件、言い忘れていました……)
己の迂闊さに顔をしかめた。
といっても、どうせ夕方また会う折に話せば済むことだ。
(とりあえず、支払いだけは済ませておくことにしましょう……)
だが、その判断が誤りだったことを、リサはすぐに思い知らされることになった。
銀貨十枚を用意し、診療所を訪れたリサを待っていたのは意外な事態だった。
「え……バドが!?」
「ん? 何だ、お前さんが用立ててやったのじゃないのかい? あいつ、『ちゃんと返すんだよ』って言ったら、やけに神妙な顔して頷いてやがったけど」
グウェンの話によれば、すでにバドが治療費は支払い済みなのだという。
(一体、どうやって……)
無一文だったはずの彼が、一日で用意できるような金額ではない。
背筋を悪寒が走った。
非合法な手段を用いるか、あるいは――。
(借金を? 馬鹿な!)
二度と殴り屋稼業には手を染めるなと、朝伝えたばかりだ。
もしかしたら、昨日の夜の段階で罪を犯していたという可能性もなくはないが、バドはこの東南区に居ついたばかりだ。
裏の世界にコネもないだろう。
そんな彼に、何かしら仕事を依頼する者がいるとは考えにくかった。
グイードもアーシュラも、素性の知れない粗暴な若者にいきなり仕事を依頼するようなことはしまい。
だとすれば、考えられるのは借金だ。
それしかあり得ない。
だが、一体誰がバドに銀貨十枚もの額を貸し付けたというのか。
(まさか、ヤン様が……)
グイードの懐刀、通称『人喰いヤン』。
東南区の高利貸しを一手に束ねる男だ。
当然、その情報収集力も半端なものではない。
金に困った者の背後に、気が付けば笑顔を浮かべて現れている――そんな怪異じみた噂まで囁かれるほどだ。
バドの治療費の件を知っていたとしても、決して不思議ではない。
(早く探し出さなければっ!)
事態は一刻を争う。
ヤンが金を貸す時は、相手によって利息を変えるのが常道だ。
信頼のある相手であれば安くして少しずつ搾り取り、そうでなければ暴利を吹っかけて即座に『潰して』しまう。
バドの場合は当然、後者だ。
もし支払えなければどのような目に遭わされるか――想像したくもない。
リサは急ぎ足でグイードの館へと向かった。
「ああ、リサさん。ごきげんよう。奇遇ですねえ」
館に向かう途中、茶店の前でヤンに接触することができた。
いかにも偶然を装っているが、あるいはすでにリサが探していることを知っていたのかもしれない。
店のテラスで優雅に茶をすする彼の前に座る。
護衛の若者が二人、背後に控えていた。
(落ち着いて……焦ってはだめですよ……)
リサは、はやる気持ちを自制した。
他の者ならばともかく、ヤンは用意周到な男だ。
こちらも相手をする際には、細心の注意を払わなければならない。
油断すれば頭から取って食われかねないというのが、彼の異名の由来だ。
「ごきげんよう、ヤン様。単刀直入に申し上げます。バドという若者に、銀貨十枚を貸し付けませんでしたか?」
切れ長の目を真っ直ぐに見つめ、真剣な面持ちで問いかけた。
焦りは禁物だが、のんきに茶飲み話をしている余裕はない。
それにまどろっこしい話は、ヤン相手ではかえって術中に嵌まってしまう。
「ああ……バド君。覚えていますよ? リサさんのお弟子さんですよね。確かに昨日、貸しましたよ。だいぶ切羽詰まっていたようでしたからね。困った人は助けるのが私の流儀ですし」
爽やかな笑みを浮かべ、まるで悪びれる様子もない。
当然だろう。
彼にとっては、ごく日常の仕事の一部なのだから。
それにしても、やはりバドの弟子入りという情報はすっかり把握しているようだ。傭兵仲間であれだけ噂になっているのだから、驚くほどのことでもないが。
「利息はいくらですか?」
「夜が明けて教会の鐘が鳴ったら一割です。もちろん、今朝の時点で最初の利息はかかっていますよ。それと、彼に渡したのは銀貨十枚ですが、書面上は銀貨十二枚となっています。ええ、そうしないとこちらも商売になりませんからね」
表情にこそ出さなかったが、バドの無謀さに腸が煮えくり返る思いだった。
なぜ、師匠である自分に相談することなく金を借りてしまったのか――。
事前に一言あれば、それで万事解決したはずであったのに――。
(いや……もしかしたら、ヤン様の方から……)
バドの噂を聞きつけ、言葉巧みに金を貸したのではないか。
その線の方が濃厚なように思えた。
単純なバドを言いくるめることなど、世故長けた彼にとっては赤子の手をひねるようなものだ。
お師匠様や他の方にこの件は伝えない方が良いですよ、余計なご心配をかけてしまいますからね――そんなことも言ったかもしれない。
それならば、今朝の稽古の時にバドが話をしなかったことも納得できる。
他人の言葉を素直に受け止めてしまう男なのだ。
いずれにせよ、今のバドに支払える金額ではない。
仮にキリールの下で荷役士として働いたとしても、返せる見込みはないだろう。
利子を払うだけでも精一杯になる。
最初からヤンは、バドを借金で潰すために貸し付けたのだ。
(だけど、一体何のために? あっ……まさか!?)
先日、ロッテから得た不穏な情報がすぐさま脳裏をよぎった。
目的は不明だが、グイードが兵隊を集めているという情報だ。
借金漬けにし、がんじがらめにした上でバドを使おうということだろう。
それ以外に、彼がバドに金を貸す理由が思い当たらなかった。
「お待ちください。彼の借りた金は、私が支払います」
「え? はは、いきなりそう言われても困りますねえ。私たちも仕事ですからきっちり書面にしておかないといけませんし。それに、彼がここにいないのにリサさんと私の独断で決めるわけにもいかないでしょう? 私の部下を付け馬にしていますから、また別の機会にお話するとしましょう」
付け馬とは、借り手が逃げ出さないようにするための見張りのことだ。
朝の稽古の折には気配すら感じられなかったが、恐らくはどこからか監視していたに違いない。
ともあれ、これ以上ヤンと話しても平行線を辿るだけだろう。
今、何より優先すべきは、バドを捕まえてきっちり話をつけることだ。
リサは挨拶を済ませると、不詳の弟子の行方を追うことにした。
(続く)
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