第36話 その一撃に全てを懸けて(9)
「……俺の名を知ってるとはね」
覚悟を決めたのか、チャンが腰の得物を抜いた。
刃がくの字に曲がった、東南諸島独特の刀だ。
刀身こそ短いものの、その鈍く光る分厚い刃の一撃は、なまくらな剣では受けたと同時に粉砕されてしまうだろう。
(私の杖では、とても受けきれないですね)
さらにチャンは同じ得物をもうひと振り、腰に差している。
こちらも厄介だ。
(大丈夫、研究はしてきました)
この一年間、傭兵として数々の修羅場を踏む中で、東南系の武術の遣い手とも渡り合ってきた。
その独特の体術もある程度は目にしてきている。
リサと戦わざるをえない、と覚悟を決めたのだろう。
チャンの双眸が強烈な殺気を放ってきた。
実戦経験の浅い者であれば、この殺気だけで身体がすくんでしまうはずだ。
だがリサも、この一年間で数々の修羅場をかいくぐってきた。
道場では学ぶことのできない、命がけの闘いの場の呼吸。
それを己の身体に刻み込んできていた。
「ダンマリかよ、お姉ちゃん。勇ましいことを言ってやがったか、ここにきてビビッたわけじゃあるまいな?」
「そういう貴方は、随分とお喋りなのですね。臆病な犬ほどよく吠えるというけれど?」
相手の心を少しでも乱そうという挑発にも、リサは冷静に対処していた。
「抜かせ、小娘が。てめえは何者だ? 俺は見覚えがねえんだがなぁ」
「……草壁島」
「あん?」
ぼそりと呟くと、チャンは眉毛をピクンと上げ、頬を引きつらせた。
「お粗末な貴方の頭では、覚えていないかもしれないですけれどね。私はあの島の出身です」
「あの貧乏くせえ島がどうしたってんだ? ……ああ、ハハ、なるほどね」
不敵な表情で乾いた笑い声をあげる。
今すぐにでも叩きのめしたくなるような、銅貨一枚分の価値もない笑顔だ。
もちろん、平常心を失ってはいけないことは重々承知している。
「その杖……。そうか、お前、あの爺の縁者か」
「そう、私の父、私の師よ」
一言一言を、噛み締める。
肩に力が入りそうになるのを堪え、息を大きく吐く。
「フン、仇討ちってわけか。随分と泣かせる話じゃねえの。まさかそのためにわざわざ……」
「そうですよ。わざわざ海を渡り、一年もの間貴方を探し続けて、貴方たちにわざと捕らえられて、ようやくここまでたどり着けました」
「そいつはご苦労なこった。しかし哀れだね。そこまで頑張ったのに、最期は俺様にぶった斬られちまうんだからな」
「哀れなのは貴方の方ですよ。ここまできて、未だに自分の最期がどうなるのかすら呑み込めていないのですから」
杖を下段に構え、態勢を低くした。
顔はチャンに向けたまま、目線だけ素早く動かして足場を確認する。
綺麗に刈り込まれた芝生は、立ち回りを演じるには絶好の舞台だ。
チャンが一歩、間合いを詰めてきた。
兇暴な気を全身から放っている。
他の誘拐師どもとは、やはり格が違う。
不意討ちとはいえ、父を斬った男だ。気を抜いてはいけない。
リサは左に少しずつ動き、チャンとの間合いを空けた。
「改めて名乗らせてもらうわ。私はタケガミ・シドの娘、リサ。草壁島のリサよ。チャン・ヴァン・クオン、貴様の凶刃に斃れた父の無念、晴らさせてもらうわ!」
「けっ! 芝居小屋じゃあるまいし、カッコつけてんじゃねえ!」
リサの口上に、チャンが忌々しげに唾を吐く。
実に悪役らしい品のなさだ。
東の空が、かすかに紫色に染まりつつある。
夜明けまでは、あと一時間ほどだろう。
冷たい笑みを浮かべたチャンの、得物を持った右手がゆらゆらと前後に揺れている。
この距離であれば、場合によっては不意に投げつけてくる可能性もあった。
(ほんのわずかな挙動も、見逃してはダメよ)
チャンが動きを止めた。
それに合わせて、リサも静かにその場に留まる。
リサはそれまで以上に神経を研ぎ澄まし、動きを窺った。
攻撃を繰り出す前には、必ず前兆がある。
その微妙な身体の動きを捉え、それに呼応して技を繰り出すのだ。
当然ながら、いちいち頭で考えていては間に合わない。
何度も繰り返し稽古をし、さらに実戦で呼吸を掴むことで、その状況に最も適した技を選択するのだ。
二人とも、呼吸は静かだった。
少しでも気息を乱せば、その瞬間に相手につけ入る隙を与えてしまうことを互いに熟知している。
(さあ、来なさい。私はいくらでも待ちませす)
長丁場になれば、体力的に不利なのは自分の方だ。
この一日の間に、相当な量の疲労が蓄積している。
あり余る気力で補っているとはいえ、それにも限界というものがある。
だが、実際にこのまま対峙し続ければ、状況が不利になるのはチャンの方だ。
あのアジトにいた誘拐師どもは、全て保安隊によって捕縛されている。
奴に援軍は来ない。
それに加え、ロッテの案内によって、アーシュラの配下がこの別宅を目指している。
そもそも今ここにアーシュラがいる時点で、チャンに逃げ場はない。
(でも、アーシュラ樣に頼ってはダメよ)
リサは実戦心理を心得ていた。
このような一対一の戦いにおいて、「誰かが助けてくれる」という安堵感はかえって敗北を招く。
むしろ、それこそ捨て鉢になった方が思わぬ力を発揮することも多い。
呼吸に合わせて、両者の肩がわずかに上下する。
そのリズムは今、完全にシンクロしていた。
それが崩れた瞬間が、この闘いの転機だ。
二人が動きを止めてから、かれこれ十分近く経過しただろうか。
まだ、どちらも動こうとしない。
ここから一歩でも前に出れば、もう勝敗を決する生死の間合いになる。
迂闊には踏み込めない。
リサの頬を、一筋の汗が伝い落ちる。
動きこそないものの、身も心も決着の時に備えて常に臨戦態勢にあった。
緊張で喉がヒリヒリと渇く。唾を呑み込んだ。
落ち着け、耐えろ、と自分に言い聞かせる。
一方のチャンもまた、額に大粒の汗を浮かび上がらせている。
先程までの冷ややかな笑みは消えていた。完全に感情を押し殺した顔だ。
アーシュラは微動だにせず、マオの姉を抱いたまま馬の背に立ち続けている。
もし人間であれば驚異的なバランス感覚の持ち主であるが、何しろ彼女は空を自由に飛び回る吸血鬼だ。この程度は造作もなかろう。
むしろリサは、先刻からずっと生きた心地がしていないであろう馬に同情した。
歓楽街の方角から、カラスの鳴き声が届いてきた。
庭園に植えられた木々の狭間で、小鳥がさえずっている。
対峙する二人の足元から、虫の声が絶え間なく続いていた。
まるで何事も起きていないかのような、ごくごく平凡な夏の夜明け前。
(世はこともなし、ですか……)
そんな言葉がふと脳裏をかすめた。
今、リサは命を賭けた闘いに身を置いている。
対するチャンも必死だ。
だが、こうしている間にも普段と全く変わることなく時は刻まれている。
どこかで誰かが生を授かり、別の誰かが死を迎えていることだろう。
愛を確かめ合う二人もいれば、みっともない痴話喧嘩の真っ最中という二人もいるはずだ。
(そしてここには、憎み殺し合う二人ですか)
そう思うと、リサの肩からふっと力が抜けた。
背負っていた荷物が、急に軽くなったように感じた。
今の自分は、別に世界の命運を握っているわけではない。
もしここでチャンに斬られようと、失うのは己の命だけだ。
それはもちろん、親しい人たちは悲しむだろう。
だが、世は何も変わりはしない。
それでいい。それで構わない。
囚われの身となった少女たちは救われた。
非道な誘拐師一味は首領のリオネルを筆頭に捕縛され、処刑台に送られるはずだ。
それだけで世の悪が全て駆逐されたわけではないし、恐らくそんな日は永遠に訪れないだろう。
だが、少なくともリサが奔走したこの一日は無駄ではなかった。
もう、それで十分ではないか。
リサの心中が、一瞬だけではあるが、完全に無の境地に至った。
その顔が、まるで闘いが終わったかのように自然に綻ぶ。
あまりにも無防備にも見えるリサの様子に、チャンの顔に戸惑いの色が浮かんだ。
ほんの一瞬の、隙――。
リサが踏み込んだ。
下段に構えた杖を突き出し、チャンの手にしている得物を狙う。
チャンが真後ろに大きく跳んだ。
芝生に着地すると同時に前に踏み込み、大きく曲刀を振って杖を薙ぎ払おうとしてくる。
それを回避したリサが、杖を上段に構え直して上から叩きつけた。
狙いは、またしてもチャンの得物だ。
チャンが今度は横に跳び、すぐに間合いを詰める。
「死ねっ!」
チャンが叫んだ。
右手で曲刀を大きく上段に振りかぶり、襲いかかってくる。
だが同時に――チャンの左手が、腰に差したもう一つの得物に伸びていた。
(来たかっ!)
攻防の最中、リサは冷静に相手の動きを観察していた。
腰の得物は、右手の武器を失った時のための予備などではない。
左右同時に攻撃を繰り出し、相手を一撃で沈めるための武器であることを、リサは見抜いていた。
最初から両刀で闘う流派もあるが、よほどの達人でもない限り左右の手に持った武器を有効に使いこなすのは至難の技だ。
しかも、もし回避された時には隙だらけになる。
だからチャンは、ギリギリまで待った。
右手の曲刀で上段から力任せに叩き斬る――と同時に、左手で抜いた曲刀で横から胴を薙ぎ払う――必殺の一撃だ。
この間合いでは、二刀を同時に防ぎきることはできない。
リサは態勢を崩しながらも杖を振るい、襲いかかるチャンの右手を払った。
手首に衝撃を与えられ、曲刀が虚しく地面に落ちていく。
だが、同時に繰り出された左手の曲刀をかわす余裕は無かった。
リサの身体がバランスを崩していたため、チャンが狙っていた胴ではなく右肩口に肉厚な刃が打ち込まれた。
この瞬間――。
チャンは勝利を確信したことだろう。
リサが身につけている皮鎧程度では、この分厚い刃を防ぎきれるはずはない。
「何っ!?」
チャンが目を見開き、短く叫んだ。
その左手には、リサの肉を斬り、骨を潰す感触は伝わってこなかった。
代わりに腕を走ったのは、頑丈な鋼鉄を叩いた衝撃だった。
(グイード様、本当に感謝致しますわ)
リサの命を紙一重で救ったのは、あらかじめ仕込んでおいた鉄扇であった。
隙を作ってチャンの両刀による攻撃を誘発したのも――。
態勢を故意に崩したのも――。
全ては、この一瞬のためだった。
「はっ!」
気魄を込め、チャンの首筋めがけて杖を叩きつける。
紫電流表芸の十・熊手斬が、鮮やかに決まっていた。
急所を強かに打たれたチャンが白目を剥き、芝生にだらしなく崩れ伏す。
「お見事っ!」
ご満悦の表情で拍手するアーシュラに、リサは居住いを正して礼を送った。
正直な話をすれば、もう芝生にへたりこんでしまいたいぐらい疲弊していたが、
(お芝居のフィナーレがそれじゃあ、あまりに格好がつかないですものね)
主演女優を務めきるのも、なかなか大変なのであった。
(続く)
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