幕間一 脈打つ狂気
第458話 脈打つ狂気
(……私は……)
御前試合の三十分前。
ホランは一人、庭園を歩いていた。
少し館から離れた場所。
近くには人の気配もなく、庭園というよりも林に近い一角だ。
林道の再現を意図しているのだろう。
林の中には道があり、その奥は再び庭園へと繋がっていた。
ホランは林道に入った。
試合の直前でありながら、彼女がここに訪れたのは精神を少しでも整えるためだった。
(…………)
グッと拳を固める。
あの男に命じられるがままに交渉して。
自分の意志でもなく、試合に出ることになった。
交渉の中、ゴルド=バイク上級騎士はずっと怪訝な眼差しを向けていた。
だが、それでも交代を認めてくれたのは、きっと、ホランのどうしようもない心の裡を何か察してくれたのだろう。
そう思うと、ますますもって自分が惨めになってくる。
(……私は……)
自分は一体何なのか。
少なくとも、すでに騎士ではない。
(……私は……)
何者か。
いや、実のところ、もう分かっている。
自分はあの男の操り人形だ。
奴隷であり、都合の良い情婦。
ただ、それだけの存在だ。
あの男には逆らえない。
戦う意志が折れてしまった以上、自分はただの――。
……ギリ、と。
ホランは強く歯を軋ませた。
唇の端から血が零れるが、彼女は気にもかけず歩き続ける。
――騎士になろうと努力していた。
――誇らしく生きてきたつもりだった。
――強くなれると思っていた。
だけど、今の自分は――。
「……私はッ!」
思わず彼女は声を張り上げていた。
「なんでッ! なんで私がッ!」
涙も零れてくる。
彼女は徐々に早足になって林道を歩いた。
頭の中はグチャグチャだった。
怒り、憎しみ、哀しみ。
一体、どの感情が渦巻いているのか自分でも分からなかった。
「なんで私がこんな目に遭うのッ!」
再び叫ぶ!
ややあって、
「……………」
視界が大きく開ける。林道を抜けた。
ホランは涙を零したまま、茫然と前を向いた。
少し離れた場所に屋敷が見える。
「………あ」
ふと気付く。
屋敷の廊下。そこに姫さまの姿があることに。
何故か襖の間から顔を覗かせて左右を確認しているようだ。
「……ひめ、さま」
自分が主君と仰ぐ御方。
誇り高き姫騎士。
生涯お仕えしようと心に決めた御方だ。
「……ミュリエルさま」
ホランは、ふらふらと引き寄せられるように歩き出すが、
「……ッ!」
不意に姫さまが振り返り、部屋から誰かを呼んだようだ。
出てきたのは一人の少年だった。
そしてその少年にホランの大切な主君は自ら身を寄せた。
遠目ではあるが、姫さまが少年に口付けをしているのが分かった。
さらに少年は、自分の女だと示すように姫さまを抱きしめた。
――ぞわり、と。
ホランの背筋が強く震える。
この湧きあがる感情は分かる。
――静かな怒り。憎悪だ。
やはり、あの少年はミュリエルさまを……。
ギリギリギリ……。
歯を軋ませる。
拳を血が出るほどに握りしめた。
あまりにも激しい怒りに、淀んでいた精神が一気にクリアになった。
虚ろだった感情にも熱が入る。
明確な意志が、ホランの心奥に生まれた。
黒い、黒い意志だ。
ガリッ、と。
ホランは親指の爪を噛んだ。
ガリガリガリッ!
貪るように一心不乱に噛み続ける。
……許さない。
あの少年だけは。
絶対に、許さない。
そして、
「……殺してやる」
闇よりも深い。
一切の光のない眼差しを見せて、ホランは背を向けた。
ただ小さな声で、
「あいつだけは殺してやる」
そう呟いて。
彼女は、再び林道の奥へと消えていった。
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