第431話 終焉なる世界④

 窓から差し込む暖かな光。

 小鳥の囀りが室内にまで届く。

 その声に、彼女はゆっくりと瞼を開いた。

 彼女の朝はとても早い。

 しかし、特に朝に強いという訳ではない。

 長年の修練の習慣で同じ時間に起きてしまうのだ。

 そのため、起きてもしばらくの間は思考が停止していた。


「…………」


 大きなベッドの上で、ポーっとする。

 が、十数秒も経てば脳もスイッチが入った。

 目を瞬かせて周囲を見渡す。 

 天蓋付きの大きなベッド。誰が入れたかも分からない紅茶の乗った丸テーブル。天井近くまであるクローゼット。バルコニーの外には森が広がっている。

 見覚えのある場所だった。彼女の寝室である。

 それを理解して、彼女は不満そうに頬を膨らませた。

 昨日、最後にいた場所ではない。

 きっと、彼女の主人・・が寝落ちした自分を運んだのだろう。

 寝間着ネグリジェ姿の彼女は、大きなベッドの上から降りた。

 香り立つ紅茶は無視して、まずは奥の部屋にある浴場で湯浴びをするつもりだ。

 これは、昔からの習慣ではない。

 ここ最近の習慣――というよりも心構えだった。

 彼女の責務だと言い換えてもいい。

 常に清潔かつ健康的にこの体を維持しておかねばらないのだ。

 ――そう。それが管理者・・・としての責務だった。


 服を一切脱ぎ捨てて、裸体となる。

 そうして、ここに来たと時はなかったはずの、いつ備え付けられたのかも分からないシャワーの蛇口を掴む。やや冷たい水が噴き出した。

 水滴が褐色の肌で弾かれ、滑らかな肢体や桜色ピンクゴールドの髪を伝って落ちる。

 水滴に打たれながら、彼女は自分の腕を見た。

 生まれた時から共にある褐色の右腕。

 しかし、この右腕はすでに自分のモノではなかった。

 いや、この腕だけではない。

 唇に触れ、首筋に沿って降ろし、胸元に手を当てる。

 この瞳も唇も。胸も腰も両足も。

 すべてが、もう自分のモノではなかった。

 そのすべてを奪われていた。


「…………」


 双眸を細める。

 ――幾度となく主人・・に挑んだ。

 だが、その力量の前に悉く敗れてしまった。

 容赦なく。圧倒的に。

 敗北の度に屈辱の涙を流し、代償として体を少しずつ奪われた。

 すべてを奪われるのに一週間もかからなかった。

 それでも、せめて心だけは奪わせない。

 そんなふうに考えていた時があった。

 けれど、それもあの夜に……。


「………ん」


 彼女は、蛇口を締めた。

 コツン、と強めに壁に額を当てる。

 前髪で顔を隠す彼女の頬から、水滴が流れ落ちた。

 彼女は、誰かが備え付けた浴場のタオルで体を拭いた。

 次いで裸体のまま、クローゼットに向かう。

 開けると、そこには無数の衣装があった。

 昨日よりも増えているような気がする。いや、事実増えているのだろう。

 毎朝用意される紅茶といい、相変わらず、ここは不可解な場所だった。

 ともあれ、彼女は下の下着だけ履くと、服を一つ取り出した。

 見覚えがある衣装だった。

 確か、西方大陸エルサガの民族衣装の一つである。

 以前、エルサガの行商人が、母や自分によく似合うということで勧めてきたことを覚えている。結局、母も自分も購入はしなかったが。


 彼女は無言のまま、その衣装を手に取った。

 滑らかな白い絹糸の布地だった。

 通常の服とは趣が違うが、着衣方法は直感で分かった。

 首に布を回し、交差させるように胸元を覆う。そのまま腰にも巻き付け、足元へと落とした。何となく大蛇に巻き付かれているような服だなと思った。

 着てみると大腿部、背中、腹部はほぼ剥き出しだった。

 かなり大胆な衣装である。彼女は微かに頬を朱に染めた。

 が、すぐに、ブンブンとかぶりを振った。

 今さら、これぐらいで恥ずかしがってどうするのか。

 自分のすべてはもう主人・・のモノだというのに。

 彼女は、服とセットらしき籠手や拗ね当てのような装飾具も身に着けてみた。

 それからクローゼットの隣にあるスタンドミラーの前に立った。


 姿を確認しながら、何度か回転した。

 確かにあの行商人の言う通りかもしれない。自分に似合っている気がする。

 緊張を解くように小さな呼気を吐いた後、彼女は部屋を出た。

 高い天井の廊下が続く。長い廊下だ。窓の外には森の光景が広がっていた。

 彼女の目的地は、地下修練場だった。

 この時間。そこに彼女の所有者はいるはずだからだ。

 朝の挨拶をしなければならない。

 それも所有物としての責務である。

 少し早足で進む。

 三階、二階と階段を降りて地下へと向かう。ここの地下には牢もあるのだが、そこには向かわず修練場へと進んだ。

 そうして、解放された大きな門をくぐったところで主人・・がいた。


 ――黒髪の少年である。

 片手には切っ先が小さな斧のようになっている黒い長剣。ここに来た時とは少しデザインの違う黒を基調にした騎士服を纏っていた。

 彼女の気配に気付いた彼が、こちらに振り向いた。

 少年が微笑み、口元が動く。

「おはよう」と言っている。

 途端、彼女の胸の奥がきゅうっと鳴り、気付けば走り出していた。

 高まる鼓動が止まらない。

 そして、


「――コウタっ!」


 ――心も。騎士の誇りも。この体も。

 彼女は、自分のすべてを奪い尽くした主人・・に抱き着くのだった。

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