第五章 嵐の予感

第311話 嵐の予感①

 その日。


 ――静かに。

 とても静かに、二人は対峙していた。


 場所は、クライン工房の隣にある大広場。

 街外れでもあることもあって、人通りもなく、二人以外には人の姿もない。

 それが、さらに静寂を深くしていた。

 互いの呼吸が分かるほどに、沈黙が続く。

 そして――。


「――ふっ!」


 二人の内の一人――コウタが地面を駆けた。

 数セージルの距離をほぼ一歩で詰めて。順突きを繰り出した。

 まるで槍のように突き進む右拳。

 同年代で、これを防げる人間は少ない。

 しかし、もう一人の人物――コウタの兄であるアッシュは、あっさりと払いのけた。

 それも弾かれたのではない。すべての力を受け流されたのだ。

 拳の軌道を変えられ、重心を崩すコウタ。

 だが、そこから体を鋭く反転。左腕で裏拳を放つ――が、


「甘えよ」


 兄は、それもあっさりと受け止めた。

 次いで、今度はアッシュが右の拳を打ち込んできた。


「――くっ!」


 コウタは咄嗟に右手で拳撃を受け止めた。

 しかし、


(うわっ!?)


 思わず目を見開いた。

 衝撃が桁違いだ。拳を受け止めた感触ではない。

 振り下ろされたハンマーを受け止めたらこんな感じだろうか。


(ま、まずい!)


 このままでは、右手ごと撃ち抜かれる。

 そう感じたコウタは、自分から後ろに跳んだ。

 拳撃の威力も合わさって、コウタは三セージル以上も間合いを取ることになった。


(……とんでもないよ、兄さん)


 ビリビリと痺れる右手を何度も閉じて開きつつ、コウタは息を呑む。


 ――一撃の重さがまるで違う。


 兄は決して大男ではない。筋肉質ではあるが、どちらかと言えば痩身だ。

 体格だけならば、ジェイクやロックの方が大きい。

 だというのに、この威力とは――。


(腕力も凄いんだけど、多分、兄さんは力の伝え方が抜群に巧いんだ)


 油断なく兄を見据えて、コウタはそう判断する。


 ――《七星》最強。

 それは、鎧機兵戦だけではないということだ。


(まあ、兄さんは村にいた頃から、すでに喧嘩が恐ろしく強かったけど…‥)


 なにせ、数人規模とはいえ、傭兵団まで一掃したことがある。

 あの時の光景は、今でも強く記憶に残っていた。

 当時から、兄が怪物じみて強かったのは間違いない。

 昔のことを少し思い出し、コウタは内心で苦笑を零した。

 すると、兄は、


「なんか楽しそうだな。コウタ」


 無造作に立ったまま、そう声をかけてきた。


「……うん」


 コウタは拳を構えて頷く。


「兄さんに対人戦の稽古を受ける日が来るなんて思ってなかったなって」


「はは、確かにな」


 アッシュは朗らかに笑う。


「まあ、あの頃、俺らは農民だったしな。喧嘩の仕方も教えたことはなかったか」


「うん。その必要もなかったし。そもそも参考になったのかも怪しいし」


 人をボールのように吹き飛ばす。

 正直、兄の喧嘩は人間の戦闘に見えなかったのが事実だ。

 当時のコウタには、きっと参考にもなかっただろう。

 しかし、今なら――。


「……兄さん」


 コウタは、すっと拳を上げた。


「よろしくお願いします」


「おう。来な」


 兄は、クイクイと手を動かした。

 コウタは無言のまま、拳をグッと固めた。

 そして――走り出す!


 小細工はしない。

 兄は、自分よりも遥かに格上だ。

 小細工などしたところで意味がない。

 ただ、真っ直ぐに走り抜けた。

 そうして――……。



 数分後。

 コウタは、大広場で大の字に横たわっていた。

 大きく胸を動かして、荒い息を繰り返している。


「なかなか頑張ったじゃねえか」


 兄が、コウタの顔を覗き込んでニカっと笑った。

 コウタは苦笑いを浮かべた。


「ぜ、全然、敵わなかったけどね……」


 兄に頼んだ対人の模擬戦闘。

 結局、一撃さえ加えることも出来ずに終わってしまった。

 鎧機兵戦でも敵わなかったが、こっちはもっと酷い。実のところ、兄は対人戦の方が得意なのではないかと思うぐらいの情けない結果だ。


「まあ、お前の歳なら大したもんだ」


 と、兄は言ってくれるが、コウタは不満顔だった。


「……けどさ」


 コウタは、疲労でまだ重い上半身を無理やり起こした。

 両足だけは地面に延ばしたまま、兄に尋ねる。


「こうも一方的だと流石に悔しいよ」


「はは、悔しがれるんなら、それで充分さ」


 兄は、くしゃくしゃとコウタの頭を片手で掻いた。


「素直に言っとくが、結構驚いたんだぞ。あの小さなガキだったコウタが、ここまで強くなってるなんてな。ロックやエロ僧よりも間違いなく強えぞ。アリシアでも敵わねえだろうな。まあ、メットさんなら少しは食い下がれるかもしんねえが……」


「……え?」


 コウタは兄の顔を見て、目を丸くした。


「メットさんってサーシャさんのことだよね? サーシャさんってそんなに強いの?」


 いつもヘルムとブレストプレートを着装する少女。

 兄の愛弟子でもあり、優しい性格で、ルカによく似たおっとりした女性だ。

 正直に言って、あまり強いイメージがない。

 加え、そこまでの重圧を感じたこともなかった。


「ああ、あの子は結構強いぞ」


 けれど、兄は言う。


「メットさんは優しいからな。時々暴走もすっけど、普段はとても温和な子だから、強いってイメージはしにくいかもな。ただ、あの子の場合は……」


 兄は、あごに手をやって苦笑を零した。


「技量においてはお前には遠く及ばねえ。技だけならアリシアの方が上だ。けど、あの子は身体能力が凄げえんだよ。蹴りなんて驚くぐらい重いぞ。オトと同じで体は折れそうなぐらい華奢で、派手な筋肉なんて全然付いてねえんだが、二人とも多分、量ってよりも質が違うんだろうなあ……」


「へえ~」


 コウタは素直に感心する。

 どうして兄が、二人の下着姿か水着姿、もしくは裸体でも見ない限り分からない筋肉の付き方まで知っているのかは気になったが、そこは聞かないことにした。

 兄は話を続けた。


「まっ、高い身体能力前提の強さだから、鎧機兵戦はまだまだだけどな。けど、対人戦の訓練なら一度メットさんとも試合をしてみるのもいいぞ。技量で戦うお前とはタイプが違う相手だし、いい経験になるはずだ」


「うん。分かったよ」


 コウタは頷いた。

 確かに、純粋に身体能力が高い相手は侮れない。

 メルティアなど、あのグータラぶりで、いざとなればとんでもない動きをする。

 サーシャもおっとりしているが、きっとそんなタイプなのだろう。


「きっと、メットさんの方もいい経験が出来るだろうしな」


 兄はおもむろに、あごに手をやった。


「あとは、オトに訓練を受けんのもいいかもな。あいつは完全にお前と同じ技巧タイプの戦士だ。それも、今のお前よりも技量が上だしな。自分が進むべきスタイルってのが、掴めるかもしんねえぞ」


 ……まあ、お前と訓練すれば、オトも気晴らしになるかも知んねえしな。

 と、小さな声で呟くが、それは、コウタには聞こえなかった。


「うん。分かった。オトハさんにも頼んでみるよ」


「おう。そうだな。さて」


 兄はおもむろにそう呟くと、ドスンとその場に腰を下ろした。

 次いで、胡坐をかく。


「……兄さん?」


 コウタは眉根を寄せた。

 すると、


「コウタ」


 兄が、コウタの名を呼んだ。

 そして、こう告げるのだった。


「そろそろ本題に入ろうぜ。お前、俺に話があってここに来たんだろ?」


 ――トウヤ兄さんには敵わないな。

 両手を背後に置き、素直にそう思うコウタだった。

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