第309話 『刃』、頑張る②

 一方その頃。

 ジェシカは、顔にこそ出していなかったが、とても緊張していた。

 庭園内の道を進む足取りも、どこかぎこちない。

 だが、それも仕方がないことだ。

 彼女の隣には今、稀にしか会えない想い人がいるのだから。


(……コ、コウタさん)


 ちらり、と隣に目をやった。

 そこにいるのは、黒髪の少年だ。

 ジェシカが、すべてを捧げると誓った男性である。

 こうして彼と二人きりになるのは、盟主サクヤに命じられて行った試練の夜以来か。


(……うゥ)


 胸元を片手で抑える。

 彼の横顔を見ているだけで、心臓が破裂しそうなぐらい鼓動を打っていた。

 改めて自覚する。

 やはり、自分の心はすでに彼に奪われているのだと。


(お、落ち着け。私)


 小さく息を吐く。

 いかに想い人とはいえ、彼は自分よりもかなり年下の少年だ。醜態を見せるなど情けないことこの上ない。

 何より精神制御の訓練は散々やってきている。

 顔色も変えずに、標的の喉を掻っ切ってきた頃を思い出せ。

 そう自分に言い聞かせるジェシカ。

 しかし、


「あの、ジェシカさん」


 不意にコウタに話しかけられ、「ひゃいっ!」と背筋を真っ直ぐして叫んでしまった。

 コウタが「え?」と目を丸くし、ジェシカの顔はカアアっと赤くなった。

 羞恥で目尻に涙まで溜まってくる。


「あの、ジェシカさん。大丈夫ですか?」


「だ、大丈夫です……」


 本当は羞恥で死にそうだったが、ジェシカはそう答えた。


「その、体調が悪いのなら、少し座りましょうか?」


 言って、コウタは道沿いにある長椅子を指差した。

 ジェシカは一瞬躊躇うが「は、はい……」と頷いた。

 そうして二人は、横に並んで長椅子に座った。

 しかし、その後に続くのは沈黙だった。

 二人とも全く声を発さない。

 まるで互いに緊張した見合い会場のようだ。


 一分、二分と静寂が続く。

 鳥の羽ばたき音だけが響くような中、先に口を開いたのはコウタだった。


「あの、ジェシカさん」


 コウタは、ジェシカの方に顔を向けた。

 ジェシカも振り向き、コウタを見つめる。

 互いの顔が一瞬赤くなるが、コウタは一度息を吐き、言葉を続けた。


「ジェシカさんは――いえ、ジェシカさんも姉さんと同じで《ディノ=バロウス教団》に所属しているんですか?」


「…………」


 コウタの問いかけに、ジェシカは表情を改めた。

 そして一度瞳を閉じてから、


「……はい。そうなります」


 コウタに真実を語る。


「私はサクヤさまの護衛です。すみません。かつて、クライン村の跡地であなたに語った話は、ほとんどが虚偽です。サクヤさまが、私のことを友人のように思ってくださっていること以外は」


「……そうですか」


 コウタは真剣な顔で指を組んだ。

 ジェシカは、申し訳なさそうに視線を伏せた。


「私は、元々は教団とは無関係の暗殺者でした。しかし、とある依頼で窮地に追い込まれたところを、サクヤさまに救われたのです。それ以降は私も教団に入り、恩義を返すためにあの方に仕えているのです」


 これは偽りではない。本当の話だった。

 教団総本山近くの街。そこに住むとある人物の暗殺。それが依頼内容だった。

 結果として、暗殺自体は成功するものの、運悪く巡回中だった騎士団の一部隊と遭遇し、ジェシカは追われることになったのだ。

 ジェシカがその気になれば、騎士団の一部隊程度を潰すのは容易いことが、標的と無関係の人間を殺しては、今後の仕事に支障が来る。

 やむを得ず、ジェシカは逃走した。しかし、騎士団は応援を呼ぶほどに執拗で、地理にも疎かったことも災いし、ジェシカは徐々に追い込まれていった。

 そこを救ってくれたのが、サクヤなのである。


『えっと、もしかしてあなた、追われてるの?』


 今も変わらない優しい笑みで、サクヤは声をかけてきた。

 後で聞いたことだが、お忍びで街を散策していたらしい。

 サクヤと共に教団の総本山に身を隠したジェシカは、元より破滅的な思想を少なからず持っていたことと、何より、天真爛漫な盟主に強い興味を抱いて、そのまま教団に入団することになったのだ。


 そうして今や、サクヤの腹心となっているのである。


「すみません。虚偽ばかりを話して」


 ジェシカは、改めてコウタに謝罪した。

 対し、コウタは「いいえ」とかぶりを振った。


「一番大切なところだけは本当でしたから、いいです。それよりも……」


 コウタは真剣な顔で尋ねた。


「ジェシカさんは、やはり教団に忠誠を誓っているんですか?」


「忠誠、ですか?」


 ジェシカはコウタの顔を見つめた。

 そして一拍の間を空けてから、首を横に振った。


「いいえ。確かに《ディノ=バロウス教》の教義は私の思想と合致していましたが、私が入団した決め手はサクヤさまです。ですが……」


 そこでジェシカは苦笑を浮かべた。


「恐らく、サクヤさまは教団を退団なされるおつもりでしょう」


「……え」


 コウタは目を剥いた。

 長くサクヤの傍にいるジェシカは語る。


「サクヤさまにとって最も大切な方が、サクヤさまを必要とされているのです。それをはっきりと確認なされたのでしょう。サクヤさまの瞳には迷いはありませんでした。まあ、どういう形の退団になるかはまだ分かりませんが」


 ――教団の象徴たる盟主の退団。

 そんなことを、教団が簡単に承諾するとは思えない。

 特に、幹部達と一波乱あることは間違いないことだろう。


「……そうですか」


 コウタが呟くと、ジェシカは再び苦笑いを見せた。


「多少のトラブルはあるでしょうが、問題はありません。そして、サクヤさまが居なくなるのでしたら、私も教団に所属している意味がありません。私も退団するつもりです。再びフリーに戻る訳です」


「……退団するんですね」


 コウタは、ホッとするように嘆息した。


「安心しました」


「そうですね」ジェシカは頷く。「サクヤさまが悪名高い教団の盟主では、コウタさんも気が気でなかったでしょう」


「あ、いえ。実はそっちはあまり心配してなかったんですよ」


 コウタは、パタパタと手を振った。


「……え?」


 ジェシカは目を丸くする。と、コウタはポリポリと頬をかき、


「サクヤ姉さんのことは、兄さんがどうにかするって信じてましたから。サクヤ姉さんが兄さんにすでに会ったのなら当然の結果ですし」


 自信満々にそう告げる。


「そ、そうですか……」


 ジェシカは少し困惑するが、コウタは構わず「はい」と頷く。

 さっぱりとした朗らかな笑み。

 一方、ジェシカは、さらに困惑した顔を見せた。


「しかし、なら、何に安心されたのですか?」


 サクヤの進退を心配していないとしたら、何に気をかけていたのか。

 ジェシカが尋ねると、コウタは「へ?」と何を今さらといった顔をして答えた。


「そんなの、ジェシカさんのことに決まっているじゃないですか」


「え……」


「ジェシカさんが教団の人間なら、どうやってジェシカさんを退団させようかと、ずっと考えていたんです」


 ジェシカは、目を見開いた。

 コウタはさらに言葉を続ける。


「だから安心しました。ジェシカさん自身に退団の気持ちがあることが聞けて」


「ど、どうして……」


 ジェシカは唖然とした様子で口を開いた。


「どうして、サクヤさまより私のことを?」


「いや、だって、サクヤ姉さんには兄さんがいるし。兄さんなら、絶対にサクヤ姉さんを救ってくれるから心配なんて無用ですよ」


 コウタは笑う。が、すぐに真剣な表情をして。


「けど、あなたは違う」


「え……」


「あなたは、きっと一人だと思った。あなたが築いた偽りの世界を見て、より強く確信していました。だからボクは――」


 一拍おいて、コウタは手を差し伸べた。


「あなたを助けようと決めていたんです」


「…………」


 ジェシカは言葉もなく、目を剥いた。

 すると、その時だった。


(え……)


 突如、ジェシカは、少年の背後に魔竜の幻影を見たのだ。

 ――真紅の鱗を持つ巨大な竜。

 一時ではあるが、彼女が信仰した力の象徴だ。

 その優しくも傲慢なる竜は、大きなアギトをゆっくり開いていく。


(……あ)


 ジェシカは、動けなくなった。

 あまりの雄々しさに、逃げる気も、抵抗する気も起らない。

 それどころか――。


(どうか、私を……)


 心の中で、自ら魔竜に両手を伸ばす。

 心から、それを望む。

 そして、


「ボクはあなたを救いたい」


 優しい少年の声と共に。

 彼女の心は、アギトの中に包まれた。

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