第七章 闇の先の未来
第288話 闇の先の未来①
――《黒陽》の娘。
リノ=エヴァンシードは、閉鎖的な少女だった。
森の中の広大な館。
それが、幼かったリノの世界のすべてだ。
出会う人物も少ない。
屋敷を管理するメイド達。リノの家庭教師。そして母と義母達ぐらいだ。
当然ながら、友人はいない。
そもそも同年代がいないのだ。
ゆえに、朝から晩まで帝王学や訓練に勤しむ日々だった。
そして、リノはとても優秀だった。
大抵のことは一度で憶える。
それが、閉鎖的な環境に拍車をかけることになった。
同時に酷く億劫な退屈さにも。
彼女は一人、ベッドの上に腰をかけて医学書を読み続ける。と、
「……また、家庭教師を追い出したのですか?」
リノに声を掛けたのは、母――エルクレアだった。
腰まで伸ばした長い菫色の髪。蒼いドレスを纏う絶世の美女である。まだ二十代と若いこともあり、八歳のリノと一緒にいると親娘ではなく、姉妹のように見える。
だが、彼女は間違いなくリノの母だった。
「これで何度目です」
エルクレアが呆れたように告げる。
リノは視線を母に向けた。
「ふん。そうは言ってもな」
分厚い医学書を閉じて、ふんと鼻を鳴らす。
「あやつらはつまらん。知識の底が浅すぎる」
と、天才は言う。
エルクレアは嘆息した。
「それで一人で読書ですか」
リノは、ムッとした表情を母に向けた。
「仕方あるまい。こちらの方が効率がよいからの」
リノは医学書を両手で掲げて、そのままベッドの上に倒れ込んだ。
エルクレアは双眸を細めた。
「退屈そうですね。リノ」
「当然じゃ」
リノは、ベッドの上から母を睨みつける。
「わらわは、いつまでこの屋敷にいればよいのじゃ」
「それは貴方が一人前になるまでです」
エルクレアは言う。
「お父さまのお役に立てるよう一流の力と教養を得るまでです」
「……ふん」
上半身を起こして、リノは不本意そうに頬を膨らませる。
「果たして父上がそれを望んでいるかは甚だ疑問じゃがのう」
リノの知る父親は、一言でいうとウザイ。
多忙ゆえに会う機会は少ないが、一度会うとデレデレだ。
やたらと抱っこをしたがることには、本当に霹靂している。
(恐らく父上は……)
ただ、リノを手放したくないだけなのだ。
だからこそ、館の中に彼女を隔離する。
リノは母に目をやった。
美しい母。
父は独占欲も強い。
欲しいと思った相手のすべてを奪おうとする。
かつての母は、父の敵だったと聞く。
リノが生まれた頃は、まだその残滓もあったそうだが今は違う。
今や、母は身も心も父の女だ。
完全に父の『黒色』に染められてしまった。
母は常に父のことを第一に考えている。
実の娘のリノの現状や、その将来よりもだ。
「……リノ」
すると、母はおもむろに溜息をついた。
「何となく貴方の考えていることは分かります。これでも母ですからね。しかし、わらわはそこまで貴方の人生を軽視している訳ではありませんよ」
「……そうかの」
この館の看守とも呼べる母を睨みつけるリノ。
母は「そうですよ」と答える。
「ただ、今のわらわは……」
エルクレアは頬に片手を当てた。
「あの人へのデレが一〇〇%なのです」
「……おい」
リノは、ジト目で母を睨みつけた。
エルクレアは、くねくねと腰を震わせた。
「だって、最近のあの人は本当に凄いのです。会うたびに寝かせてくれません。明らかに貴方の妹か、弟を生産するつもりです」
「……おい。母上よ」
リノが、冷めきった眼差しを母に向ける。
流石に気まずさを感じたか、母はコホンと喉を鳴らした。
「まあ、それはさておき、リノ」
真剣な眼差しでリノを見やる。
「貴方にとってこの館は確かに牢獄のようなものでしょう。退屈なのは分かります。ですが、この館には貴方が自分を磨くためのすべてがあります」
「……それもすべて父上のためじゃろう」
「ええ。そうです」
母は、はっきりと告げた。
しかし、その後に別の意見も言う。
「ですが、貴方のためでもあります。別にお父さまのために頑張る必要はありません。あの人には組織。九つの《妖星》。何より、わらわと、わらわの同胞たちがいるのです。力としては過剰なぐらいです。貴方は貴方のために自分を磨きなさい」
「……いつかこの館から解放された時のためにかの?」
リノは訝しげな眼差しで母を見つめた。
エルクレアは、微笑みながら頷く。
「ここで得た力は貴方の支えとなるでしょう。ただ、力だけではなく、美貌もまた磨くことも忘れてはいけませんよ」
「……美貌じゃと?」
リノは眉をしかめた。
すると、母は両手でリノの頬を押さえた。
「貴方には恐らく――いえ。間違いなく『傾国』の素質がありますから」
「……随分と物騒な素質を言うのう」
リノは、ぶすっとした。
「わらわに男たらしになれと? ふん。弄ぶのは楽しそうじゃが、好きでもない男に抱かれるのは御免じゃな」
「あら。意外と純情」
「まだ八歳児じゃぞ。わらわは」
リノは両手で母の腕を掴んでのけた。
エルクレアは苦笑を浮かべた。
「まあ、いいでしょう。貞操観念は大切です。わらわもそのおかげで純潔を死守し、あの人にも喜んで頂けましたから。リノ。よく聞くのです」
そこで、すっと双眸を細めた。
「その美貌も。その知恵も。力も技も純潔も。自分を磨き、いつの日か、貴方の愛する殿方に捧げるのです。そう――」
エルクレアは、自分の豊かな胸に片手を当てた。
「このわらわのように」
「結局そこか」
リノは、呆れるように嘆息した。
父に娶られて十年。
出会った直後は嫌悪。
一か月後には女に。二年後には出産。
五年目は思慕六割、自分の境遇に腹立ち四割。
そうして現在。
母の色ボケは本人の言う通りピークに至ったようだ。
「ええい。分かった分かった」
八歳の娘は、プラプラと手を振った。
「今は勉学に励む。暇じゃしの。母上は出ていってくれ」
「そうですか。やる気になったようで良いことです」
言って、母はあっさりと部屋から出ていった。
何だかんだでリノのやる気を引き出したのだから、流石は実母といったところか。
ただ、リノとしては少し不愉快だ。
特に最後の母の言い分。
あれは気にくわない。
「わらわのすべてを捧げる者じゃと? ふん……」
再び医学書を手に取りつつ、リノは鼻を鳴らした。
「下らん。そんな者、一体どこにおるというのじゃ」
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