第四章 夏期研修

第10話 夏期研修①

 その日、朝早くからコウタは収穫の手伝いをしていた。

 まだ七歳とはいえ、この小さな村では貴重な労働力。十五歳の兄には及ばないが、それでも一生懸命働いていた。

 そして昼を少し過ぎて、収穫も大体終えた頃だった。

 畑の近くに座り、一人で昼食を取っていたコウタの元に訪問者が現れた。


「あら、コウちゃん。もう仕事は終わったの?」


「……ん?」


 手に持っていた握り飯を一気に食べてから、コウタは振り向いた。

 そこにいたのは、一人の少女だった。

 年齢は十六歳。豊かな胸と華奢な肢体を持ち、腰まで伸ばした艶やかな黒髪と、柔らかな笑顔が印象的な美しい少女だ。

 兄の幼馴染であり、恋人でもある女性。

 コウタにとっては、もはや義姉になることが確定しているような人だった。


「ああ、姉さんか。うん、さっき終わったよ……ってどうしたの? その服?」


 コウタは首を傾げた。

 何故なら目の前に佇む彼女の姿が、普段とまるで違っていたからだ。

 その細い肢体に纏うのは純白の巫女装束。

 東方の大陸アロンに伝わる装束で、収穫祭の時のみ着る特別な服だ。

 少女の鮮やかな姿に、コウタは少しだけ見惚れてしまった。


「ふふっ、似合うかしら?」


 そう言って、柔らかに微笑む姉に対し、コウタは慌ててコクコク頷いた。


「う、うん、よく似合うよ。けど、その服って明日の収穫祭用でしょう? 試着だとしてもなんでこんな場所にまで着て――」


 と、そこで気付いた。


「あっ、そっか。兄さんに見せに来たんだ」


 兄と姉は、とても仲がいい。

 きっと兄に褒めて欲しくて、ここに来たのだとコウタは悟った。

 すると、姉は視線をわずかに逸らし、頬を染めて。


「ま、まあ、そうなんだけど、あなたのお兄さんはどうも鈍感で、少しぐらいの服装の変化じゃ気付きもしないから……」


 それが不満で姉はこの服を着てやって来たらしい。


「ははっ、兄さんは鈍感だからね」


 コウタは笑う。と、


「あら。コウちゃんもその血を引いているのよ。きっと鈍感になるわ」


 姉がクスクスと口元を押さえて笑った。


「……鈍感って遺伝なの?」


 眉をしかめて呟くコウタだったが、


「けど、大丈夫だよ。ボクは兄さんみたいにモテないし」


 すぐに苦笑を浮かべて、そう告げた。

 兄は幼いコウタの目で見ても、とにかく異性にモテる人間だった。

 婚約者同然の恋人がいて、それを公言しているのにも拘わらず、兄にアピールしてくる女性は多い。恐らくこの村に若い男が少ないということもあるのだろうが、それを踏まえても兄のモテっぷりは圧倒的だ。

 しかし、その攻勢を兄は生まれながらの鈍感さで意識もせず回避しているのだ。

 自分ならきっとオドオドしてしまうだけだ。とても真似できそうもない。

 まあ、そんな状況自体が、まずあり得ないだろうが。


「鈍感が遺伝だとしても、ボクには関係ないよ」


 と、堂々と告げるコウタに、姉は深い溜息をついた。


「……コウちゃん。多分すでに鈍感さが発露しているわよ」


「へ? どういうこと?」


 言って、首を傾げるコウタに、姉はジト目で尋ねてくる。


「ねぇコウちゃん、この後、何か用事があるんじゃない?」


「うん、あるよ」


 今日の仕事は午前中で終わりだ。

 コウタは、この後はもう遊んでもいいと父から許可をもらっていた。


「えっとね、リンとカエデとサキから遊ぼうって誘われているんだ」


「………見事なまでに女の子ばかりね」


 と、姉がコウタには聞こえない小さな声で呟く。

 そして再び嘆息してから、コウタをじいっと見やり、


「……鈍感というのは、本人に全く自覚がないのが卑怯なのよね。私が一体どれだけヤキモキしてきたことか……」


 と、自身の体験談を独白する。


「……? どうしたの姉さん?」


 不意に黙り込み始めた姉に、コウタは首を傾げた。

 すると、姉はかぶりを振って――。


「まぁいいわ。コウちゃん。今は無邪気に楽しみなさい。多分本格的になってくるのは十三、四歳ぐらいからだろうしね」


 そんな台詞を、何かを悟った聖女のような笑みで告げてくる。

 コウタは何のことか分からなかったが、「うん、分かった」と答えた。

 その返答に姉は満足げに頷くと、「それじゃあ、私は行くね」と告げてコウタの実家の方へ向かっていた。兄に会いに行くのだろう。


「姉さんと兄さんは本当に仲がいいや」


 この国では、十六歳から成人扱いになる。

 きっと、あと一年後には兄と姉は結婚するに違いない。


「そしたら家族が増えるのか」


 ふふっと楽しげに笑うコウタ。

 少し気が早いかもしれないが、それは確実な未来だ。

 コウタが姉も交えた家庭を想像したその時、


「コウタ~、遊びに行こう!」


 遠くからそう呼びかけられた。

 振り向くと、幼馴染でもある三人の少女がいた。

 何故か少しだけ険悪な雰囲気だ。

 ともあれ、コウタは立ち上がると、


「うん、今行くよ!」


 言って、少女達の元へと駆け出した。

 これがコウタの『昔』の日常。

 ――そう。あの『炎の日』を迎えるまでの日常だった。


 

       ◆



「……コウタ、オキロ」


 どこからかそんな呼び声がする。

 コウタはぴくりと眉を動かして重い瞼をゆっくりと開いた。

 それから寝ぼけた頭で考える。

 はて、今の声は……。


「……コウタ、オキロ」


 今度は、はっきりと声を聞きとれた。

 コウタはハッとして、完全に目を覚ました。

 そして視界に映ったのは、ベッド際に立つ一機のゴーレムの姿だ。


(……あれ? ここは?)


 コウタは眉をしかめ、上半身を起こして周りを見渡す。

 どうやらここは大きなベッドの上のようだ。周囲には本や道具が重なって出来た山があちこちとあり、壁際に数機のゴーレム達が待機していた。

 どう見ても、アシュレイ家本邸にある自分の部屋ではない。


(あっ、そっか)


 そこでコウタは気付いた。

 ここはメルティアの寝室だ。昨日の晩、ベッドの上でメルティアとチェスで遊んでいた記憶がある。恐らくそのまま寝落ちしてしまったらしい。

 その証拠に、ベッドの上には途中で放棄したチェス盤。そしてその向かい側には小さな寝息を立てて眠るメルティアの姿があった。


「久しぶりに寝落ちしたな……」


 コウタはふっと笑った。

 これまでこういった事は何度かあったので慌てることでもない。

 コウタはちらりとメルティアの様子を窺った。

 今、彼女は身体を屈めて眠っていた。その姿はまるで子猫のようだ。

 思わず頬を緩めてしまうほど愛らしい姿である。


(ふふっ、起こしたら可哀そうか)


 コウタは音を立てないように、ゆっくりとベッドから移動しようとした。

 が、その時、


「……コウタ」


 不意に呼び止められた。

 唯一起動し、ベッド際に佇んでいたゴーレムだ。


「……メルサマ、オコサナイ。イイノカ?」


 と、円らな瞳でゴーレムが尋ねてくる。

 それに対し、コウタはしいっと口元に指を立てて、


「……うん。ぐっすり寝ているみたいだしね」


 そう答える。すると、ゴーレムは不思議そうに首を傾げた。


「……ヤクソク、カワッタノカ?」


「え? 約束って?」


 ゴーレムにそう言われ、今度はコウタが首を傾げた。

 そして徐々に思考が動き始める。


「……え? や、約束? そっか! 今日だった!」


 コウタはその場で立ち上がった。

 それから時計の類を探すが、見渡す限りそれらしき物はない……と言うより、道具に埋もれて探し出せない。


「じ、時間! 今何時!?」


 とりあえずコウタは起こしてくれたゴーレムに尋ねた。


「……ハチジ、サンジュウ、ナナフン」


 いきなりの問いかけにも、ゴーレムは正確に答えてくれた。

 そして唖然とするコウタに、


「……ヤクソク、クジ。フンスイマエ。ダイジョウブカ?」


 と、きっちり補足までしてくれた。

 少年の顔がみるみると青ざめていく。

 慌ててコウタはメルティアの傍に寄った。


「メ、メル! 起きて! まずいよ!」


 そう叫ぶが、少女はむにむにと口元を動かして、


「……あと五分……」


「そんなお約束な台詞はいらないよ!? 五分も寝てたら間に合わなくなるよ! メル起きて! 今すぐ起きるんだ!」


 言って、コウタはメルティアの肩を揺らすが、少女は起きない。


「……ノコリ、ニジュウ、イップン」


 そして淡々とカウントダウンを開始するゴーレム。


「残り時間のお知らせ!? 焦るだけだから変に気を遣わないで!?」


 コウタはひたすら焦り、メルティアを起こそうとする。

 しかし、少女は一向に起きようとしない。「……コウタ、くすぐったいです」と呟き、幸せそうに笑うだけだった。


「メルっ! 起きて! 起きてよッ!」


 切羽詰まった少年の声が魔窟館に響く。

 これがコウタの『今』の日常。

 失われた日と同じぐらい大切な日々。

 そうして彼らの騒がしい朝が、今日も始まった。

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