前向きで後ろ向きなファザコンへ
公開授業は終わった。
撮影と配信を行っていた丙姫さんが、感無量と言いたげな表情で、カメラの電源を切っている。
中止になった『鬼ごっこ』の余波は大きく、特にマスコミが男女交流センターの外で騒いでいるらしい。
その喧騒が収まるまで、セミナー室の男女は外に出ることを禁じられた。
彼ら彼女らにはちょうど良い機会だろう。ゆっくり話し合って欲しい。
先生役の俺は邪魔にならないよう廊下に出ておくか……と、紅華の存在を思い出す。ずっと床に寝かしっぱなしだった。
「紅華さん、もう起きていいです――よ?」
と目線を床に落としたところで、紅華の姿がないことに気付く。
あいつ、いつの間に消えたんだ? すでに廊下に出たのか?
セミナー室を後にしたところで。
「お疲れさまでした、タクマさん。まさしく世界を変える授業でございましたよ。感服です」
メイドさんが静かに待っていた。
「ありがとうございます。えと、紅華は?」
「意識を失っていましたから、私の方でこっそり回収しました」
「意識を? 失神は演技のはずじゃ……」
まさか、演技にのめり込み過ぎて、本当に失神したと言うのか。すげぇな紅華、俺の理解を超越してやがる。
「それで、あいつはどこに?」
「セミナー室の前で介抱しては生徒様方の邪魔になりかねません。あちらの角に運びました。ちょうど目を覚ましたところでございますよ」
「良かった……あの、会いに行って大丈夫ですか? お礼を言いたくて」
「ええ、是非に。紅華様もお喜びになりますよ。うぷぷ」
うぷぷ? なぜ含み笑いを?
くっ、臆するな。今の俺は無敵だ。世界公開授業をこなした輝かしき実績がある。メイドさんの悪しき笑みくらいでビビったりしないのだ。
廊下を進んだ先に紅華はいた――いた、のだが。
こ、これは……っ!?
「あーあー、うーうー」
紅華は、俺の知らない紅華になっていた。
赤ん坊である。
紅華は勝ち気だった面影を捨て、あどけない顔に文字で表せない声を上げていた。
「あー!」
俺を見ると、紅華は嬉しそうに寄ってくる。立つことが出来ないのか、ハイハイしながら。
「メイドさん! 紅華はどうしてしまったんですか!?」
「見ての通り、幼児退行でございます」
「幼児退行!?」
精神的に追いつめられたり、ストレスが原因でなるっていうアレか。
信じられない……と思いたいが、「あーあー」俺の膝にすがり付く紅華は、紛れもなく幼児であった。
「俺のせいだ。紅華は俺を嫌っていたのに、無理に恋人みたいなことをさせたから。それがストレスになって……」
「違います。ご自分を責めないでください」
「けど」
「よろしいですか、タクマさん。これは『
「………………はい?」
なんだそのポジティブなのかネガティブなのか分からん言葉は?
「紅華様は根っからのファザコンでございます。それはタクマさんもご承知ですね?」
「とてもよく」
「そんな紅華様はミスター様に一方的な好意を向けていました。親子ほど歳の離れた男性しか紅華様のストライクゾーンには入らないのでございます」
随分高めのストライクゾーンだ。
「ですが悲しいかな、ミスター様の正体は同年代のタクマさん。これでは禁断の父娘関係が成立しません」
なぜ人は禁忌を犯そうとするのか。
「由々しき事態でございます。紅華様はタクマさんを恨みました。しかし、同時にタクマさんの魅力が紅華様のファザ魂を
今の俺は無敵だ、というのは気のせいだった。心労に押し潰されりゅうう。
「模擬デートの最中、紅華様の苦悩は頂点に達し、精神が限界を迎えました。その時でございます。紅華様は名案を思いついたのです。それこそが『幼児退行』」
「うーうー」
紅華が俺の服を引っ張り始めた。遊んで遊んでとせがんでいるようだ。
「歳の近い二人では父娘関係が成立しない。ならば、タクマさんの娘でも不思議ではない年齢まで、自分が退行すれば良い」
うん……うん?
「タクマさんくらいの年齢でしたら、赤ん坊がいてもおかしくはありません。そして、今の紅華様は精神年齢は一、二歳ほど。父娘関係が成り立ちますね。第一子、おめでとうございます」
「ぱーぱー、ぱーぱー」
「ああ! 紅華様が初めてパパと呼びましたよ。感動でございます」
「……お、おうふ」
超絶悲報。ファザコンさん、想像以上に頭おかしい。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
それからしばらく、俺は幼児化した紅華をあやした。こいつには授業を手伝ってもらった恩がある。思うことは多々あれど
メイドさんは、と言うと。
「●REC」
親バカのように喜々とハンディカメラで撮影に励んでいる。
「ぱーぱー!」
「はいはいよしよし……はぁ、紅華ってずっとこのままなんですかね?」
「おそらく一時的なショック症状でございましょう。紅華様の精神力でしたら、一晩寝れば元に戻りますよ。その時が実に楽しみでございます」
ああ、そうっすね。紅華の痴態はバッチリ録画されているからね。幼児化していた時の事をあいつが覚えていようが、忘れていようが、残酷な上映会からは逃げられないのか。不憫だ。
俺に執着する紅華は、なぜか膝に並々ならぬ興味を示した。試しに膝枕の体勢を取ると、「きゃきゃ!」嬉しそうに自分の頭を俺の膝に載せる。
そうなれば「zzz」となるのは時間の問題だ。
紅華は可愛らしい寝息を上げ始めた。
「――ここまででございますね」
満足したメイドさんが撮影を止めて、ハンディカメラを俺に差し出す。
「カメラはタクマさんにお贈りします」
「えっ、なんで?」
「これには、ミスター様の正体がタクマさんだという証拠が映っております。私と紅華様は、これから男性施設への不法侵入で捕まる身。カメラが押収されれば、タクマさんはお困りになるでしょう?」
「そうですけど、なら、どうして撮影していたんですか? 自分の手から離れることが分かっているのに」
「決まっているではありませんか」
メイドさんは陰り一つなく微笑した。
「愛憎の対象であるタクマさんに、自分の痴態データを握られている。それを知った際の紅華様のお気持ちは察するに余りあります……うぷぷ、まさに極上の愉悦ですね」
やだ、このメイドさん。歪みすぎだろ。
「では、失礼します」
メイドさんは俺の膝にいる紅華を抱き起こすと、背中に回しおんぶした。紅華が覚めないよう最小限の衝撃しか与えずに。器用なもんだ。それに見た目よりもずっと力が強い。
「まったく、大きくなっても手のかかる子です……昔を思い出します」
「むかし?」
「ふふ、ご多忙な先代様たちに代わり、私が紅華様や祈里様の世話をしていましたから。懐かしゅうございますよ」
天道家の者が産休を取るのは僅かな間。それ以外は常に芸能界の最前線にいると言う。
現天道姉妹の育ての親はメイドさんだったのか。愉悦を求める危険人物なのに、不覚にもその顔に母性を感じてしまう。
――ん? ってことはメイドさん、何歳なんだ?
見た目は二十代後半くらいだけど、紅華たちが小さい頃から世話をしていたのなら……
「禁則事項です」
「えっ?」
「タクマさんが抱いている疑問の答え、禁則事項でございます」
「あっはい」
「それでは私と紅華様は出頭します。タクマさんにはご迷惑をかけてばかりで……今度、お礼をさせてくださいませ」
「いえ、結構です! ほんと結構ですから」
「ツレないですね。そういう所も素敵でございますよ」
一礼してメイドさんが去っていく。紅華を大切におんぶし、ゆっくりと、
不思議な人だ。歪んでいるが、変人の一言では表せない何かを持っている。
まっ、それを解き明かす気はサラサラないけどな。
「あらぁん、タクマくんったらぁ、こんなところにいたのねん」
メイドさんたちの姿が消えた直後、丙姫さんがやって来た。今まで生放送の機材を片づけていたようだ。
「放送と配信を手伝っていただき、ありがとうございました。丙姫さんがいなかったら、授業が出来ませんでしたよ」
「いいのよん、水くさい。男の子と女の子の仲を取り持てて、わたぁしも嬉しいわぁ」
癒しだ。俺に優しくない人物ばかりの中で、丙姫さんは貴重な癒し枠だ。外見は筋肉オカマで一番不審なのに。
「トム君たちの様子はどうでした?」
「落ち着いて話しあっているわぁ。どんな結論を出すのかぁ、楽しみねん」
そうか、俺がやった事は無駄ではなかったんだ。
急にまぶたが重くなる。気が抜けて、疲れがどっと押し寄せてきた。
昨晩は、まともに寝てなかったからな。その前は過労でぶっ倒れていたし、思い返せば東山院に来て無茶続きだ。
「みんなの話し合いが終わるまで、保健室のベッドを使わせてもらえませんか?」
「もちろぉん、おっけーよ!」
籠城事件は幕を閉じた。が、多くの問題はまだ残っている。
後始末は大変になるだろう。南無瀬組を裏切った陽南子さんの件は気が重いし……音無さん、椿さん、真矢さんたちにも心配かけたと謝らないといけない。
でも、今だけは、今だけは休ませてくれ。俺、頑張ったからさ。本当に頑張ったからさ。これくらいのワガママは許してくれよ。
俺は、丙姫さんに連れられ保健室を目指した。
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