第8話 隻腕の声優

 嫌なことを考えたくなくて、ボウルの牛乳にしゃっと砂糖を入れてかき混ぜる。

ミルクプリンを作る予定だ。白い液体が波打って、踊っているみたい。

ホイッパーで泡立てていく。

早く、モア早く腕をぎゅんぎゅん動かしていくとそこらに飛び散った。こぼした。

うつうつとしたローなテンションは幾分マシになったものの、

拭きとる作業の手間が虚しくもあり、苛立たしくもある。

ふにゃああと叫び、猫の手を真似して、手をそれっぽく変えて、

ロックを聴いている映に突っ込んでいってビックリさせてやろうか。

最後の曲だったのか、鳴り終わって静寂が流れる。

あくびをして、映はソファーを倒してベッドにしてゴロンと寝っ転がると、

「もう寝るから、後よろしく」と言って目を閉じた。

うんと答えて、私は出来上がったミルクプリンが冷めるまで

小説を読んで時間をつぶして、ようやく冷めた明日の楽しみを冷蔵庫に入れて、

自室へ戻った。

 眠っているホワを起こさないように、そっーとベッドまで向かう。

暖かいベッドの中、私は不安になっていた。

あっという間に月日は過ぎていくけれど、蒔さんのような女性になれるだろうか?

だんだん運営が立ち行かなくなり、花屋をつぶしてしまったらどうしよう。

望んでいるものがなぜか遠ざかっていく。

大切な人を思い返すと、色で埋め尽くされて、最後に枯れた花が像を結ぶ。

いつも大して踏み込めないまま、面倒を見てもらったりして、

良い人だとわかっているのに、唐突に別れが来てしまう。

拠り所ができては、すぐに消えていく。

時々思い出しては暖かさと虚しさがごちゃ混ぜになる。

当たり前にあった空間が急に見知らぬものに変わって、一人きり。

どうしようもなく逃げ出してばかりだ。

頭が混乱して、考えがまとまらなくなってきた。

延々と枯れた花が浮かび上がっては消える。

いっぱい花はあるのに、何でいつも枯れさせてしまうんだろう。

黒い液体なんか吐かない。ただ、普通に水をあげているのに、ダメなんだ。

私はチャンスをことごとく無駄にしてきたなあ。

捨てていいものはいっぱいあったけど、大事なものまで捨ててしまった。

マイナス方向にずるずる引きずられているのかな。

リラックスした、レイドバックな人は意外と少ない。

おおらかで一度も怒りもせず、くよくよくんな私に笑いかけて、

少女のようなちょっかいをかけて、気さくにさくさく冗談を言って、

いつでも守ってくれた。

どう育ってきたら、そこまで優しくなれるのだろう。

だいたいの人は力で押し通す。

押し通された私は無色の心。

演歌を歌い、コブシを効かせて怒るとか、

怒りの言葉を回文にするとかそういった芸が無い。

常に無色の心でうつむいていた。

but、でも、素敵な夜に舞い降りた天女みたいな

魔術師みたいな蒔さんに出会えたのは不思議なことが起きた感覚だ。

よろしくないことだらけ・まみれ・ばかりのこの世界で魔法に触れて立ち直って、

またよろしくない状態に戻ったけれど、日々をこなしていこう。

後ろ向きになってしまいがちだけど。何にも叶わない気がして、

私は何度でも蒔さんにはかなわないなと思わされる。

灯を消して、閉じた瞼に咲いた花が浮かんだ。


 紅葉した楓が秋の彩りをもたらす。

店先に立っていると、前を歩くサングラスをかけた女性が転倒した。

その拍子に何かが取れ、転がった。女性に視線を向けると、

右腕の肘から先が無い。

事故に巻き込まれたのだろうか。

私は慌てて駆け寄って、助け起こした。

転がった義手を拾った女性はなんとか微笑み、「花見せてくださる?」と言った。

映は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに表情を元に戻した。

ピンクのカランコエを買って、帰ろうとする女性を引き止めた。

力になれるかわかりませんが、話してもらえませんかと言って。お茶を用意して。

「アニメってご存知ですか?」

 左手で湯呑を持って、ほうじ茶をすすりながら彼女が言った。

ふと「まろびあい雪原」のシュールなギャグが浮かんできてしまって困った。

「はい、少しなら」

「声優をやっているの。

隻腕の役をやったことはあるけれど、まさかこんなことになるなんてね。

ファンの前で歌うこともあるから、

義手がバレるかもしれないし、偏見が怖いわ。発表するのも怖いわ」

「降板になって怪しまれているとか?」

「それはないわ。去年は良い役についてたんだけど、

今年は活動のペースを落として、地味な役を選んでいたせいか、

ちょうど事故に遭ったとき何の作品にも参加していない状態だったの。

ある意味助かったかな」

「大変ですよね、声優の仕事の方はこれからどうするつもりで……」

「どうしたらいいのかわからない。それがわかったら苦労しないっていうかね。

共演する子が怖がってしまわないかとか、悪口言われないかとか色々考えてしまう」

「きっとわかってくれる人ばかりですよ」

「人の心の裏側なんてわからないじゃない。

ごめんなさい、あなたは不安を紛らわせようとしてくれてるのに」

 どんな職業に就いている人でも人と接する必要が出て、彼女の場合は声を失わなかっただけでも救いかもしれないが、どこかに障害を抱えるのは辛いことだ。

「そういえば、あなたたちの名前は?」

 彼女に聞かれて、まだ名乗っていないことに気付いた。

名前を教えあう。雉家禎子という彼女の名を知って、私は叫んでしまった。

「あの、まろびあい雪原の妖精の声やってましたよね」

「よく知ってるね。2、3年前の、知る人ぞ知るアニメを」

「熊にさんざん罵る言葉を囁くところ好きでした」

「そうそう。辛子を実際に口にしてアフレコやったら、ひいひい言って1日押しちゃった」

 それにしても、思わぬところで縁がつながるものだ。

唐突に映が、

「猫飼ってるんだけど、禎子さんに見て欲しいな」と明るく言った。

モブと化していたくせに。ええと答える雉家さんに、

さらに映は、

「高野豆腐と木綿豆腐はどっちが好き?」と熊の声色を真似して言ったのだった。

似ていないけど。いつの間に見ていたんだ、お前はまろ雪を。

少し笑って高野豆腐が好きだと妖精の声で答えた。

けれど、涙声気味だったのは声優を続けるかどうかの岐路に立っているからか。

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