腕喰い(下)
身柄確保時、男はひどい敗血症に全身を冒されており、意識は譫妄状態にあった。
そして、逮捕後すぐに収容された警察病院で供述を取る間もなく危篤に陥り、数日ともたずにショック症状を起こしてあっけなく死んでしまった。
うつくしい手がほしかった。
男は犯行についてそう語ったという。
男を搬送する際に付き添った看護士が聞いた言葉を又聞きしたもので、正式な記録として残るものではない。
司法解剖によれば、被害者から奪われた腕は縫合で男の体に固定されていた跡があったが、またその内部で、まるで脱臼した関節を嵌めるように肩甲骨へ上腕骨が——生きた肉の中へ死んだ骨が組みつけられていた痕跡があったという。
死者の肉体が自分に癒着すると本気で思っていたのか。
そして自分の肉が膿み腐れればこそげ落とし、骨を切り外して、さらに大きく奪った次の死者の体を接ぎ木したと。
そんな動機は通らない。それは狂気だ。
はじめは別の目的があったのか。腐敗の毒に侵されて思考が狂いはじめたのか。それとも。
はじめから狂っていたのか。
「そうとも限らない」
非常勤の監察医である
蝋人形のように
「そいつは女の腕を欲しがっていたんだろう? 存外、貴金属のようにおのれに添えつけるだけでも満足だったんじゃないか。自分の体までバラしはじめたのは、自分の体と女の体を置き換えているうちにもっともっとと欲が出たのかもしれないぞ」
そう
桐生の吸う銘柄の煙草は臭い。俺がいやな顔をするので奴は煙を顔を横にそむけて吹く。
「親からもらった大事な体、なんて健全なアタマでいるからおかしく見えるんだ。肌に彫りものをするのと同じ心理といえば分かるか。自分をキラキラさせたいから、痛くとも体に悪くとも根性見せる。正気だ、正気」
俺には理解できないものらしいのは分かった。
あの男も、この男も。
***
こうして、事件が終わった。
あの捕り物以降、俺の胃袋は固形物を受けつけなくなっており、日中はヨーグルト、夜は仕事場なら栄養剤を、帰宅できる日は冷奴で酒を飲む生活を続けていた。
固形の有機物を口に含んで噛もうとすると、あのぐにゃりとした感覚が脳裏によみがえり、反射的に胃が引きしぼられて吐いてしまうのだ。
死体に触れた経験はもちろんある。しかし、生きていると思って死者を掴んだことは初めてだった。
驚いただけではないのか、何が違うのかと
ますます喫煙室から出てこなくなった俺を見かねて、真島がある日、馬の逸物のようなどでかい保温ポットにあつい中華粥を詰めて持ってきた。
俺は肉がトラウマだってのにこんなトリくさい飯が食えるかと怒鳴りつけたが、紙皿に盛ったそれを匙で突ついているうちにポットが空っぽになっており、さすがに少し元気が出た。
真島は真島で、包丁で受けた傷はなまくらゆえに
そんな状態でよく料理ができるものだと思ったら実は片手が使えないどころか、真島は真島で事件後まだ刃物に触れることが出来ずにおり、下ごしらえ済みの食材とあとは手さばきであの飯を作ったのだという。
男のくせに器用な奴だ。
ただ、あの事件については俺と真島がこうして個人的に引きずっているだけではない。
俺は事件後、捜査資料にあったカルテを書いた医師に会っていた。
男が小指を失ったというあの事故。その当時の治療から聴取を始めて、その予後、また悪化について聞き進める。男の最初の怪我が不自然に治らなかったこと、そのうえ何度言い聞かせても開放部を不潔にするために避けえず最悪の化膿をしたこと、休職に至る前、すでに広範囲の切除を要する
やはりそれは、腐乱した肉片を傷口にあてがい続けたためと考えられますか。
話が途切れた時に俺がそう訊ねると、医師は曖昧な笑顔のまま、乾燥した冬の時期ですし、小指一本なら腐らず
確信を得られたと言ってよいのだろう。
春の死体を第一回の殺人とするなら、ゼロ回にあたる犯行がある。
ガチ吉良は[小指]を取るために人を殺している。
あいつが、もっとも意識が鮮明で体力を消耗する前で——警戒心も張りつめていた時期。最初の殺人。その時に、隠された死者がいるのだ。
俺たちは、その体を見つけてやらなければならない。
——真島に話すと、うんざりした顔を隠さなかった。
事件は終わった。
しかし、俺たちの仕事は終わらない。
いつものことだ。
——ただ、
見つけてどうなる。
大きな事件が終わったあと必ず訪れる虚無感に、自分がもう取り憑かれているのを感じた。
警察の仕事は、基本的に手遅れだ。
俺たちがどんなに急いで現場に駆けつけても、いつも被害者はとっくに殺されているし、よもや生きていても血まみれになっているし、その全てがとり戻しようもなく人生から大切なものを奪われている。
遺体をみごと見つけたとしよう。いや、今回も俺はきっと見つけるだろう。
それを遺族に伝え、変わりはてた家族を届ける。
「無事でまた会えるだなんてことは、とっくに諦めていた」「体だけでも帰ってきてくれてよかった」「警察には、感謝しています」。
みな大体、真摯にそう述べる。強ばった顔で、割れ窓のような目で。行儀のよいことだ。ひりひりするような緊張の
俺に掴みかかり、役立たずと罵る遺族もいる。しかし周りの者に止められるまでもなく、たいてい
俺は、その前で自分が誰も救えないことに打ちのめされる。それは小さなことだ。俺はいつだって、すべてが起きてしまった後でのこのこ現れる間抜けでしかないのだ。
死体は今ごろ、土に埋められていれば夏の地熱に茹でられ、泡立つ緑色のシチューになっているだろう。
刑事になってから数え切れぬほど嗅いだ、生命の尊厳をまるごと負へと裏返したような、あのひどいにおいを湧き立たせて。
ここからの仕事の先には、どうせ何もない。
好きこのんであの臭気にたどり着くために、また何日も俺はくそ暑いなかを
くそったれ、これが俺の今年の夏だ。
うす
「先輩、灰」
不意の呼びかけにふと我に帰る。
焦点の交わった視界に、俺の顔のそばへ無遠慮に灰皿を突き出す真島の姿が結ばれ、思わずアァ? と怪訝な声が漏れる。
その途端、糸が切れたように唇が軽くなり、手元の書類へばさりと煙草の長い灰が落ちた。
「らぁ、もう」
真島は、包帯でぐるぐる巻きの手の上へ灰皿を器用に載せると、机の端につけ、手ぼうきで散った灰塵を灰皿のなかへ掃き落とす。
それを見下ろす俺の口元で、煙草のフィルターがヂヂ、と焦げる音がして——石油系の樹脂が灼ける鼻をつくにおいに、思わず顔をしかめた。
「なんて顔してんですか。ほら——夏ですよ!」
真島が顎で窓を示して屈託なく笑う。
笑いながら、また俺の方へ包帯の手のまま灰皿を差し出してくる。
俺が唇の吸い差しをぷっとそこへ吐き出すと、綺麗に灰皿の真ん中へ飛んで軽く跳ね、転がり止まった。
真島が、ナイスショッ! と大袈裟に親指を立てて見せる。
——何なんだ。
くだらねえ。
自然と俺の口の端が上がる。
ああ、そうだ。
俺には、のんきに
俺はこの半人前の小僧の面倒を、まだ当分は見ていてやらねばならないのだから。
やれやれ――
おれは少し腰を浮かせて、ソファーに座り直す。
こいつが――俺の今年の夏だ。
腕喰い ラブテスター @lovetester
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