第61回【文学】傘の花

 高層階のこの部屋から眺める都会の喧騒は、雨が降る今は小さな傘の花束みたいに映る。これだけの人間がいて、それぞれがバラバラの人生を歩んでいるのが不思議だ。

 風水を気にして間取りにこだわったこの家だけれど、俺には何の幸運も呼んではくれなかった。一緒に暮らす彼女は、今荷物をまとめているところである。三年も一緒に住んでいたのに。



 真夜中の秘密の電話に気が付いたのはひと月ほど前のことだ。

 俺が眠ったのを確認するとそっと外出し、俺が起きる前に黙って帰ってきた。そんなことを、俺が知ったあともほぼ毎日のように繰り返した。

 最初は仕事のトラブルで呼び出されたのではと思った。彼女はシステムエンジニアで、サーバーの管理などもやっていたから、緊急呼び出しはあってもおかしくはない。

 だが、毎日はさすがに奇妙だ。仕事で出るときは必ず連絡してくれていたのだから。



 俺は昨夜、出掛けようとする彼女を引き止めた。これまでの行動を知っていると告げると、彼女は顔色を変えた。何かを言い掛けて、でも俯いただけで弁解してこない。

「ごめんなさい……」

 結局彼女はそれだけを告げて、深夜の街へと出掛けて行った。



「お世話になりました」

 彼女は頭を下げる。荷物はボストンバッグ一つだけ。もともと彼女は荷物が少ない女だった。

「どうしても、出て行くのか?」

 強く引き止めなかったのは、彼女の自立を促したい気持ちもあったからだ。仲良くしてくれるのはありがたかったが、いつかこういう場面も来るだろうと覚悟していたつもりだった。

 想定外だったのは、彼女が何の説明もしてくれなかったこと。あの時言い淀んだことが気になる。何を隠しているのだろうか。そんなに俺は信用できない相手なのか。

 彼女はしっかりと頷いた。

「いつまでもお父さんのところに世話になるのもいけないかなって。会社から近いし、お母さんから離れるのに都合が良かったから一緒にいただけだもの」

 告げる声には少し寂しさが滲む。

 彼女は俺が離婚したときに妻の方に引き取られた愛娘だ。思春期に離婚して、てっきり俺は嫌われ者になっていると思っていた。ずっと会ってくれなかったのだから。

 ところが三年前、偶然に営業活動中の娘と再会した。一緒に暮らしていたときと同じように慕ってくれて、すぐに打ち解けた。実家を出たいという彼女のためにこの部屋を借り、今に至る。

「行くあてはあるのか?」

「うん……まぁ」

 こういうやり取りに妻の面影を感じる。妻に出会った頃に今の娘はずいぶんと似ていた。

「何かあれば、連絡しなさい」

「うん。じゃあね」

 ぺこりと頭を下げて、娘は家を出て行く。

 寂しさで胸が押し潰されそうだった。離婚したあのとき、どうせなら嫌ってほしかった。再び訪れた別れがこんなにつらくなるなんて思わなかったから。

 俺から直接娘に連絡するのは止められている。もう二度と彼女に会えないのかも知れない。

 娘の傘はどれだろうか。

 俺は高層階のリビングの窓から小さな傘の花を探す。


《了》

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