第39回【TL】今の関係から卒業します

 三月だといってもまだまだ寒い日はある。あたしはしゃりしゃりと音を立てて崩れる霜柱を踏みながら、蒼生あおい兄様と一緒の帰り道を楽しんでいた。彼とこうして並んで帰れるのは、今日がおそらく最後になる。明日は高校の卒業式だから、一つ年上の彼とはもう同じ帰路につくことはないのだろう。

 兄様と呼んで慕っているが、彼は実の兄ではない。幼なじみというやつで、彼の母親とあたしの母親が仲良しだったから物心つく頃からずっと一緒にいた。

 一緒にいるのが当たり前すぎて、蒼生が中学受験をして私立に進んだときにも追いかけた。学年でも勉強ができると評判だった彼のあとを、平凡な成績だったあたしが追うのは大変なことだったのだけど、補欠で入学できたのは本当に嬉しかったっけ。中高一貫だったおかげで、今まで時間さえ合えば一緒に登下校をした。幸せな時間だった。

「――卒業する前に、もう一度兄様と一緒に帰りたかったんだー。ありがとうね」

「いえ。僕も同じ気持ちでしたから、待っていてくださって嬉しかったです」

 蒼生兄様はそう告げて恥ずかしそうに笑んだ。彼は明日の卒業式で答辞を告げる。練習のために他の卒業生たちよりも遅くまで残っていたのだった。

「良かった。迷惑かなって思ったんだけどさ、一緒に帰れるのは最後だなって考えたらしんみりしちゃって」

「そうですね」

 彼は肯定し、あたしの手を握った。これまでそんなことはしていないから、反射的にビクッとしてしまう。

「……兄様? 手なんて繋いでいたら、誤解されちゃうよ」

 蒼生兄様にはファンが多い。今朝も告白されたらしいことを風の噂で知っている。そんな話を耳にするたびにどこか誇らしく思っていたのだが、そういえば誰かにオーケイの返事をしたとは聞いたことがなかったことに今さら気付く。

「されても構いませんよ」

「え?」

「これからウチに寄っていきませんか? お渡ししたいものがあるのです」

 改まって言われると、なぜか緊張する。

「う、うん……」

 頷いて了承するが、嫌な予感しかしなかった。



 蒼生兄様の家はこの辺では広くて目立つ。あたしの家の前を通り過ぎてやってきたこの場所は、ずいぶん振りだった。

 いつが最後だったのかと思うと、中学に合格したことを知らせにいった日以来であることに気付く。あれからもう五年も経ったのか。

「どうぞ」

 通された彼の部屋に入るのは小学校低学年の頃以来だ。

「お邪魔します……」

 男の子の部屋に入ることなんて久しいので、妙にそわそわする。几帳面な彼らしく、すべてがモデルルームのようにきっちり片付けられていて、清潔感はあるが生活感がない。

「渡したいものってなぁに?」

 早くその場から離れたくて促すと、背後にいた彼に押し倒された。

「きゃっ!?」

 倒れた先にはベッドがあって、スプリングの軋む音が響く。

「兄様――んっ!?」

 仰向けになって彼の姿を確認しようとした瞬間、唇を塞がれていた。

 ファーストキス。

 軽く触れるだけだったのに、次にされた口付けは舌を差し込まれた。

「んっふぅ……やめて」

 押しのけようと手を伸ばすと、両手を拘束されてしまった。彼はネクタイを片手で器用に解くと、それを使ってあたしの手首を縛った。

「や、何考えているのよっ!」

 暴れているのだが、さっぱり抵抗になっていない。

「あなたを思うから僕はこうするのです」

 彼の手がリボンを解いて、ブレザーのボタンを外していく。

「ものごとには順序があるでしょうがっ!」

深紅みく、あなた忘れているのですか?」

「……何を?」

 あたしは彼が手を止めたのに合わせておとなしくすると問う。

「約束したではありませんか。僕が大人になったら、あなたをもらうと」

 言われて記憶を遡る。確かにそんな話をしたことがあった。保育園にいた頃の、もうとっくに忘れ去られた記憶だ。

「――ちょっと待って、あったにはあったけど、この状況とは繋がらない!」

 半ばパニックになりながら言うと、彼は再び口付けをした。

「わかっていませんね」

 切なげな表情にどきりとする。

「僕の影がなくなれば、あなたはきっと誰かに告白をされて付き合うことになるでしょう。自分がどれほど魅力的な女性に成長したのか、ご存知ないのですか?」

「……まさか」

「少なくとも僕は、あなたに心を乱されるほどに魅力的に映っているのです。他の誰にも渡したくない」

 壊れ物を扱うように頬をなぞる指先がかすかに震えている。

「でも、あたしにはあなたが兄にしか思えない」

 彼を慕う気持ちは兄への尊敬に近い。

 これは恋愛じゃない。

 情熱と冷静の両方を兼ね備えた瞳が見下ろしてきた。

「大丈夫、きっとあなたは僕を好きになれますから」

 ぞくっとする。

 その日、あたしは炎舞うかのように激しく求められ、純潔を散らした。



 あたしの恋はこれからだ。


《了》

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