第六章 ヴァイオレンスブルー&サイレントレッド PART5
5.
……また駄目だ。
溜息をつきながらも、意識を集中する。
テンポが遅れる、強弱の幅が小さい、次の音の予測ができない。もっと正確に曲のイメージを捉えなければ。
……よし、もう一度だ。
鍵盤に再び両手を重ねる。深呼吸を行い、水のイメージを膨らませる。息を吐くのと同時に鍵盤を撫でた。
……まだまだ練習が足りない。
このままでは本番を迎える前にお互いの人格が入れ替わってしまう。もっと練習しなければ。
火蓮と話し合ってから一週間が経っていた。
ざるのように消えていく記憶を楽譜を読み漁ることで抑え、触りたくもない鍵盤を何時間も叩き、頭の中で回っているヴァイオリンのメロディやワイン、煙草の味覚を打ち消した。それは拷問ともいえる作業で苦痛の連続だった。
酒の匂いを感じると体が強制的に冷蔵庫に向かい、煙草の匂いを嗅ぐと火蓮の部屋のドアをぶち壊して箱ごと火を点けたくなる。テレビでヴァイオリンの音が流れると発狂せずにはいられない。
日々の欲求を満たすためには蕎麦だ。食べたくもない蕎麦を口にし無理やり飲み込むのだ。食後には不味いコーヒーを啜るが、何度飲んでも舌が拒絶した。体が人格を否定した。
……しかしこの苦行も来週までだ。
消えかかっている魂の灯火を燃やすのは来週まででいい。体内時計はすでに崩れていたが、そこまで踏ん張ればいいということはわかっていた。
明日から東京に入り、翌日にはオーケストラを交えての予行練習が始まる。本来なら協奏曲を演奏するだけなのだが、水樹にはその前に独奏が待っている。
曲の編成は決めていなかったが、一つは確実に決めていた。全力で挑める曲。それは『革命』しかない。当初は『革命』ではなく『バラード第三番』などの優しい曲を合わせていこうと考えていた。しかし火蓮にあれだけの演奏をされたら心を抑えることはできない。自分の思いをありったけぶつけたい。
……今なら、彼女のような『革命』が弾けそうだ。
三次予選で弾いていたヤン・ミンの顔が思い浮かぶ。火蓮のように身を焦がしながら弾いたのだろうか、それとも感情を抑え冷静に弾いたのだろうか?
今となっては答えは出ない。
火蓮とはあれからほとんど口を聞かなかった、自分とは逆のことで苦しんでいたからだ。飲みたくもないワインを飲み、咳き込みながら煙草を吸い、食べたくもないうどんを食事にする。こんな状況で一緒に食事などできるはずがない。争いが起こるのは目に見えている。
火蓮は劇団の指揮を終えており、年末のコンサートの楽譜に自分なりの解釈を書いていた。家の中ではピアノの音が響くため、近くの図書館にでも行っているのだろう。少しでもいい演奏をしようと努力しているようだった。
火蓮の机には父親の海が指揮を執ったビデオテープがあった。ちょうど10年前に海が協奏曲『第一番』を指揮したものだ。この映像は二人にとって夢であり、恐ろしい絶望でもあった。
自分にとってはピアノの演奏が夢であり、指揮者の海を見ることが絶望に繋がった。きっと火蓮にとっては逆になるのだろう。この映像を見ると、ピアノのイメージが膨らむが、それとは別になぜ自分が指揮を取れないのかという焦燥感を覚えてしまう。
……だがこれを見なければピアノを弾くことができない。
テープを巻き戻した後、ビデオの再生ボタンを押した。
海の指揮は神山先生のいう通り、海の底に連れ込むようなイメージだった。
穏やかな渚から浅瀬へ、漣が流れる浜辺へ行っては戻ることの繰り返しから始まっているのだ。いきなり連れ込む感じではない。海に入るまでの過程があり、物語に入り込みやすい序章を作っているのだ。
そこから彼は大胆に全てを飲み込むような津波を作っていく。何かを期待させるような音の連結が構築され、水が波紋を広げ、徐々に物語の核心に触れていくのだ。クライマックスに近づくと共に、自分の体は海の底へ潜っていく。まるでそこには目指していた宝物があるかのように。
海の指揮から鮮明な色がイメージされていく。藍染めのように、薄い透明感のある
メロディが同じでも全く同じパートがない。それは彼が微妙な強弱をつけているからに他ならない。演奏者もそれを汲んでいるようだった。
ラストでは、彼は全てのメロディを紡ぐよう穏やかに右拳を結ぶ。海は左利きなので、指揮棒を左手に持っているのだ。全ての演奏者がなだらかに演奏を終えると同時に再び波が起こる。それは観客の拍手だ。規則正しい拍手の波が原点に返してくれる。
この映像を見る度、ピアノの演奏は頭に入らなかった。海の指揮ばかりが気になるのだ。これを見て初めて水のイメージが沸くので再びピアノを弾くことができる。その繰り返しだった。
もう一度ピアノを弾こうと思っていると、突如携帯電話が鳴った。風花からだった。
近くの公園で会うことを約束して、着信を切った。
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