第三章 藍の静寂と茜の鼓動 夢視点 PART3

  ◇.


 目を開けると、背の高いショートカットの女性が目の前に立っていた。彼女の眉間には皺が寄っており怒りの表情が満ちていた。


「全然駄目よ、もう一回」


 背筋を丸めて自分の意思を見せると、容赦なくそこに張り手を喰らう。今すぐにでも泣き叫びたいくらいの痛みを伴う。


「早くしなさい、練習時間は限られているのよ」


 涙で視界がぼやけているが、ここでやらないわけにはいかないようだ。だがどのペダルを踏んでいいのかすらわからない。それほどまで極限状態に置かれている。


 そのまま母親の顔を見ると、再び怒鳴り声が響いた。


「音の強弱に気をつけなさい。同じ音でも印象は変わるのよ。ピアノは音を出す機械じゃないの。思いを表す生き物なのよ」


 少年は涙を拭いてから尋ねた。


「……どういうこと?」


「今扱っているピアノはね、ウミハさんというの」


彼女は鍵盤の上に書かれた文字を指で差した。


「ウミハさんはね、優しい音を出すのが得意なのよ。優しい音を出すためにはピアノと仲良くならないといけない。鍵盤を乱暴に扱ったら駄目。ウミハさんと会話をするように心を込めなさい」


 ……ピアノが生き物?


 少年は怖くなって鍵盤から咄嗟に手を離した。生き物と聞いて逆にどうしたらいいかわからなくなった。


「お母さんはさ……どんなピアノが好きなの?」


 なるべく母の気を反らせるよう穏やかな口調でいった。このまま別の話題に変え練習から逃れたい。


「私が好きなピアノはストーンウェイね。とっても気難しいんだけど、繊細な表現ができるの。だけどあなたにはまだ早いわ。さあさあ、続きをやってちょうだい」


 ……やっぱり無理か。


 少年は気を引き締めて取り組むしかなかった。肩の力を抜き鍵盤の上に両手を載せた。


 生き物に触る感覚に集中する。近所で飼われているチワワを触る感覚でいこうと決めた。それなら優しい音が出せそうだ。



 どれくらい時間が流れたかわからなかったが、母親が満足する音が出せたようだった。彼女はピンと伸ばしていた背中を曲げて、自分の頭をくしゃくしゃとかき混ぜた。それは彼女の機嫌がいい時にする仕草だった。


「偉いわね、よく頑張りました。今日はあなたの好きなハンバーグを作りましょうね。お父さんもほら、感動して言葉が出ないみたいよ」


 少年はそのまま大声で母親の胸で泣いた。張り裂けそうな緊張からくる涙ではなく、母親に認められたことが嬉しかったのだ。


 涙が止まるまで少年は母親の背中で泣き続けた。

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