bread-20 前を向いて
仕事が手につかないなんて入社以来初めての経験で、どうしていいのか全くわからなかった。
デスク上の書類を何枚か捲ったが、新作のランニングシューズでさえも心を揺らさない。
――俺は故障した。
「……さん!」
「菊地さんっ!!」
呼ばれていたことにも気づけなかった。
内線を取った新人の子は、戸惑った様子で声を張り上げる。
「受付にお客様だそうです。」
「今日……誰とも約束いれてないけど。誰?」
「森口様という方です」
聞き覚えのない名前に悩みながら、1階エントランスまで向かう。
今日は来客が少ないのか、暇そうにしている受付にどの人がそうか確認した。
「あの、窓際にいらっしゃる女性です」
こちらに背中を向けて座る、その後ろ姿。
エントランスの大きな窓ガラスから注がれる太陽の光に包まれ白んでいるが、その後ろ姿が誰か一目でわかった。
肩までの髪を揺らしながらゆっくり振り向いた彼女は、俺の姿を確認するとにっこり笑って右手を振った。
「晃……」
突然の来客は、12年前に別れた彼女――西村晃だった。
ソファから立ち上がった彼女は近づく俺を見上げて『久しぶり』と笑い、そして唐突に言った。
「和浩くん、仲直りしにきたよ」
――と。
今日は朝から天気がいい。
木々の隙間から溢れる陽射しはキラキラ輝き綺麗だった。
『ちょっと外、出れない?』
彼女にそう言われて連れ出された近くの公園には、すでに昼休み中の会社員がいたるところに座っていた。
空いているベンチに並んで腰掛けると、彼女はニコニコ笑って空を見上げた。
ベンチに置かれた彼女の左手。
薬指に光るリングに、すぐ気がついた。
「あいつと結婚したのか?」
「うん。もう3年になるよ」
晃の顔を見た途端、翔の名字が『森口』だったと思い出した。
「おめでとう」
「ありがとう」
彼女は幸せそうだった。
昔とちっとも変わっていないが、昔より表情が明るくなった気がする。
「幸せそうだな。良かった」
自然とそう言えた。
心からそう思った。
けれど、そんな俺の顔をじっと見つめた彼女は軽く息をはいたあと困り顔で言った。
「和浩くんは昔と変わらずいい男なのに、何だか寂しそうな顔してる」
「え?」
「私、和浩くんのこと酷い奴だなんて思ってないよ?」
「……でも」
「確かに、浮気されて傷付いたけど……」
「うん……」
下を向いた俺の顔を彼女は覗き込む。
「時間が経つと楽しかったことばっかり思い出さない?私はそうなんだけどなぁ」
そして、嬉しそうに話し出す。
二人で歩いた河川敷の景色。
ココアをこぼして汚れた制服。
駅前に置かれたクリスマスツリーのオーナメントにこっそり二人の名前を書いたこと。
どれもこれも、心の奥深くに無理矢理沈めた思い出だった。
「右京くんを覚えてる?」
「あ、あぁ」
「今、東で先生してるんだけど」
「そうなの?」
「うん、彼から連絡が来たの。『菊地を解放してやれ』って。翔も来る予定だったんだけど、仕事で……ごめんね?」
そして彼女はもう1度微笑む。
俺の目をまっすぐ見つめるその瞳は、強くて温かだった。
「和浩くんを悪者にしたまま卒業してごめん」
そして冗談っぽく笑う。
「元彼はもっと格好いい方がいいんだけど!惜しいことしたーって思わせてよ」
「何だよ、それ」
つられて笑った俺を見て、彼女はハニかんだ。
最寄りの駅まで送ると、晃はスッキリした顔で『年内にはあの街に引っ越すから』と言い、ゆっくりとお腹を擦った。
「もしかして」
驚く俺に気付いた彼女はイタズラな顔をした。
「もし翔が私の妊娠中に浮気でもしたら、和浩くんにボコボコにしてもらおっと」
「なんだよ、それ」
二人で笑い合っただけなのに、なんだか肩の力が抜けた。
……なんだ。
俺、ちゃんと向き合えるじゃないか。
晃はちゃんと過去になっていて、こうしてる間も頭に浮かぶのは別の人じゃないか。
晃はそれを教えに来てくれたみたいだ。
彼女は大きく手を振ったあと人混みに消えていった。
背中を押してくれたのは君。
これから前に進むのは自分。
止まっていた時間をちゃんと進めようと俺は思った。
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