短い冬休みが終わって、大学がまたはじまった。

「明けましておめでとうございます」

「今年もよろしくお願いします」

 新しい年は、事務職員同士のそんな挨拶からはじまった。

「仁科さん、明けましておめでとうございます。今年もよろしくね」

「ああ…よろしくお願いします」

 灯里の挨拶に、由紀子は人が変わったような態度とぶっきらぼうな言葉で答えた。眼を合わせようともしない、表情の強張った由紀子に、灯里は戸惑う。

 どうしたんだろう、新年早々、なにか嫌なことでもあったんだろうか?

 そう思いながら由紀子を見ていると、彼女はほかの職員には朗らかに新年の挨拶をしている。ますます訳がわからなくなったが、灯里は気にせず仕事をすることにした。

 もうすぐ後期試験期間がはじまる。4年生にとっては卒業がかかる大事な試験だ。教職員もその準備や監督補助、風邪や急病で試験を受けられない学生のケア、追試受け付け、採点登録などで慌ただしくなる。

 同時に入試や卒業式の準備、それが済めば入学式、ガイダンスとやらなければいけないことが山ほどある。

 

 そして昼になって、久しぶりにいっしょにお弁当を食べようと思って由紀子に声を掛けようとした灯里は、彼女の睨むような視線とぶつかって、一瞬息を飲んだ。

 由紀子は、驚いて固まった灯里からゆっくりと視線を外すと、すくっと席を立った。

「須藤さぁ~ん、お昼一緒に行きませんかぁ?」

 由紀子が学生課の方へ行って、そう声を掛けているのが聞えた。そう言えば、灯里が食欲がなくて独りで昼ご飯を食べている間、由紀子は須藤と昼休みを過ごしていたのだろう。なんだか、悪かったなと考えている灯里に、須藤と由紀子の話し声が聞えた。

「北川さん、誘わなくていいの?」

「え~、いいんじゃないですかぁ。最近、独りがいいみたいだし」

「でも、そろそろ…」

「行きましょうよ、須藤さん。あ、それから私、ナイショの相談があるんですよぉ」

 須藤と由紀子が出ていってから、灯里はゆっくりとお弁当を持つと席を立った。


 由紀子のそんな態度がずっと続くと思っていなかった灯里は、自分の甘さを日に日に思い知るようになった。

 さらに由紀子だけでなく、教務課や学生課など事務フロアにいる人たち全員の態度が、自分を避けていると感じはじめるのに、そう時間はかからなかった。

 わずか1週間ほどで、灯里は針のむしろにいるような居心地の悪さを痛感するようになった。なにが原因か全くわからない。

 胃が痛くなるような毎日を過ごす灯里を、ある日、次長が呼んだ。

「そこ、座って」

 応接室に入ると、簡素な応接セットを指し示された。

「はい」

 次長自身も灯里の眼の前の椅子に腰かけると、しばらく思案顔をしていたが、やがてゆっくりと口を開いた。

「来年度の契約のことなんだけれど…」

「はい」

 約1年前、灯里は契約社員扱いで採用された。灯里にこの仕事を紹介し、おそらく後押ししてくれたであろう夏目老人は「2年務めて勤務態度が良ければ、正社員として採用してくれる」と言っていた。だから、来年度はまた契約社員ということになる。

 契約のことだと思って耳を傾けている灯里に、次長は思わぬことを言った。

「…実は、よくない噂があってね」

「よくない噂、ですか?」

「うん、北川さんの素行についてなんだけれど…」

 素行、と言われてまず、脳裏に浮かんだのは柊のことだ。柊ちゃんに迷惑をかけることだけは避けなければ、と灯里は咄嗟に身構えた。

 そんな灯里に、次長は言いにくそうな顔をして続ける。

「キミが、その…男性関係が派手だというような…まぁ、噂なんだけれどね」

 男性関係が派手?

「前の会社の上司と不倫関係にあるだとか、うちの男性事務員の気を引くような態度をしているとか…」

 灯里は唖然とした。

「男性職員の気を引くって…次長、毎日の勤務態度をご覧になっていますよね?そんな風に見えますか?」

「い、いや。僕は四六時中、見ているわけじゃないからね」

 でも、同じフロアにいるのだからわかりそうなものだと灯里は思った。それに、前の会社の上司と言えば三宅さんのことだろうけど、それは誤解だといくらでも申し開きができる。

「それだけじゃなくて、ね」

「え?」

「一番問題なのは、キミがうちの大学院の学生を…その、つまり」

 灯里は、そこで初めてはっと息を飲んだ。

たぶらかしている、と言うんだけど。身に覚えがある?」

 誑かしている…灯里は、自分が青ざめていくのを感じた。

 柊との関係は、少なくとも普通の恋人同士ではないからだ。とくに最初は、そう言われても仕方ないほど身勝手だったと、灯里は嫌と言うほどわかっている。

「まあ、すべては噂だから、キミにも言い分はあるだろう。ただね、マズイことに…」

 灯里は息をつめて、次長の次の言葉を待った。

「その噂が、大学の理事の一人の耳に入っていてね。違うというのなら、事実関係を明らかにして証明しろというんだ」

 理事…話はそこまで大きくなっているのか、と灯里は思った。三宅や同僚、おそらく高橋のことだと思うが、そのふたりのことだったら、灯里はいくらでも申し開きができる。けれども柊ちゃんは、その将来のことを考えても、巻き込むわけにはいかない。

「わかりました」

 そう言った灯里に、次長が探るような眼で問うてきた。

「証明できるということ?」

「証明しなければ、どうなるのでしょう?」

 わかりきったことだと思いながらも、灯里は訊ねた。

「もし異論があるのなら、理事は当事者全員からの話を訊けと言っているんだけど。それ、可能なのかな?」

 追い込むように言われて、灯里はこれはもう決定事項なのだと漠然と悟った。

「つまり、来年度の契約はないということですね?」

「まあキミだけでなく、この大学に関係のない人や、同僚や、ましてや学生までも巻き込むというのはねぇ…。それに、理事の耳に入ったというのはねぇ、簡単には済まされないことだし…」

 次長が感情をなくした顔でそう言った。

「わかりました。ご迷惑をおかけしました」

 灯里は観念した。灯里としても、周りに迷惑をかけるのは本意ではない。なにより、柊を守りたかった。

「ああ、そうだ。キミも次の就職先を探さないといけないだろうから、春休みに入ったらもう大学に出てこなくていいから。もちろん今年度の契約は3月31日までだから、その分の給料はきちんと払うと理事も言ってくれているから」

 その言葉で、初めから申し開きなど訊くつもりはなかったのだと、灯里は思い知った。


 春休み前、灯里は誰にも退職の挨拶をせずに、大学を後にした。

「皆さんには、来年度になってから、辞めたことを伝えてもらえますか?」

 灯里が次長に最期したお願いは、それだった。

 事務職員の誰もが、まるで腫れ物に触るように灯里を見ているこの状況で、送別会や退職のなにやかやの余計な気遣いをさせたくなかった。そして、おそらく誰もしたくはないだろうと思えたし。

「そうだね、それがいいかもしれない」

 次長は明らかにほっとした表情で、灯里の願いに答えた。

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