ⅳ
「灯里ちゃん…」
高校生のとき以来、本当に久方ぶりに見る灯里に、母の瞳がそう言って絶句する。後の言葉が続かないのは、幼い頃から知っている灯里への様々な思いが渦巻いているからで、それを表現する言葉が見つからないのは柊にもよくわかった。
「お母さん、いろいろごめん。でも灯里、本当は誰にも会いたくなかったんだ」
瞳は灯里の顔を切なげに見て、うんうんと頷いたが、柊には至極もっともな言葉を囁いた。
「だって、通夜と告別式なのよ。家族親戚はもちろん、近所の人も取引先の人も、お得意さまだって…」
「わかってる、だからそれまでは…」
心配そうに居間から様子を窺う父の健や、兄夫婦の眼を気にしながら柊は瞳にそう言った。
そんな息子に大きく頷くと、瞳はひと際明るい声を上げた。
「まあまあ、灯里ちゃん。すっかり綺麗になって。私がリツさんの喪服を着せてあげるわ。髪もアップにしましょうね。えっと、奥の和室に行きましょうか。ね、灯里ちゃん、柊」
居間の父や兄夫婦に、不自然なほどの笑顔を向けると、瞳は灯里を隠すように庇って和室へ連れて行く。
和室に入ると、瞳は笑顔のままでふたりに訊ねた。
「昼ご飯は食べたの?」
「…」
昼ご飯どころか昨日の朝から、口にしたのはそれぞれ1杯のコーヒーだけだ。しかたがないので、柊は正直に母に答えた。
「ふたりとも食欲がなくて。昨日から…なにも」
途端に瞳の顔が険しくなる。
「そんなっ…。アンタはともかく、灯里ちゃんが倒れちゃうわ。こんな真っ青な顔して」
それから瞳は、灯里を座卓の前の座布団に座らせると、再び優しい笑顔をつくって手を取った。
「ねえ、灯里ちゃん。にゅう麺、好きだったでしょ?それなら食べられるかしら?」
「おばさ…」
灯里が柊の家へ来て、初めて出した声は力なく掠れていた。
「あったかくて、消化にいいものつくるから、ちょっと待っててね」
そう言って灯里の背中をぽんぽんと叩くと瞳は、早速支度をするために和室を出て行った。
「灯里」
柊は灯里の隣に座ると、その頭を抱いた。
素直に柊の肩に頭を乗せて眼を閉じた灯里の髪から、今朝一緒に使ったシャンプーの匂いがする。同じ匂い、いまこうして躰を寄せ合えば、やがて同じ体温。
もう灯里は自分の分身、いや自分の一部だと柊は思った。
灯里が苦しめば、同じくらい自分も苦しい。灯里が血を流せば、同じように自分の躰からも血液が失われていく。それが当然で、もうずっと前から定められていた事実のようだと柊は思う。灯里は誰にも会いたくないと言ったが、柊はこの世界にはもはやふたりしかいないような錯覚すら覚えた。
ふたり分のにゅう麺をお盆に乗せて和室の襖を開けた瞳は、この世の果てに辿り着いた旅人のように身を寄せ合うふたりの姿を見て、軽いショックを覚えた。
やはり灯里ちゃんが消えたのには理由があった、と瞳は今更ながらに思う。
それは世間で噂されている興味本位の話通りなのか、それとももっと真相は別にあるのかはわからなかったが、父親である一史や異母姉妹とはいえあれほど仲の良かった繭里が、灯里の話をすると一様に顔を曇らせることも合点がいかなかった。
そして、いきなり柊と、息子と帰ってくるなんて…。
訊き正したいことは沢山あったが、ふたりの様子にそれをぐっと堪えていまは時期ではないと、瞳は自分に言い訊かせる。
「さ、できたわよー」
殊更に明るい声でそう言うと、瞳はお盆を座卓の上に置いた。
ふぅふぅと熱いにゅう麺を冷ましながら食べる灯里の横顔は、瞳が幼い頃から知るもので、訳がわからないままに胸に込み上げてくるものがある。
結局、灯里は半分ほどしかにゅう麺を食べられなかったけれど、頬に少し精気が宿った様子に瞳はほっとした。息子の方はきっちり食べきって、ふぅと人ごこち着いた様子で安心した。
「通夜に出かけるまでにまだ時間があるから、ゆっくり休みなさい。柊、お布団敷いた方がいいかしら?」
「うん、一応。僕がやるよ」
そう言って和室を出ようとする柊に、灯里が急に不安そうな視線を向けている。
「いいわ、お母さんが運んでくる」
一組の蒲団を和室に運び入れた瞳は、灯里に優しく声をかけた。
「あと2時間くらいしたら、喪服を着つけてあげるわね」
「ありがとうございます、おばさん」
三つ指をついて頭を下げる灯里を見て、瞳はたまらなくなってその華奢な躰を抱きしめた。
「なに言ってるの、そんなこと…。灯里ちゃん、もっと甘えなさい、甘えていいのよ。あなたは子供の頃からそうだった。甘えることが下手な子だった。それは灯里ちゃんのせいじゃないけど…。でも、でもね、これからは、おばさんにもっと甘えて?だって私はこれでも、灯里ちゃんのこと小さいときから娘みたいに思ってるんだからっ」
母の瞳の方が、泣いていた。その涙を右手の甲でぐぃと拭うと、瞳は再び強く灯里を抱きしめた。
「灯里、しっかりしなさい」
最後にそう言って、瞳は和室を出て行った。
「柊ちゃんの家は、温かかった。昔から」
灯里がぽつり、とそんなことを言う。
「あの母親だからね」
いいお母さん…灯里がそう呟いて、自分の両手の爪を見ている。もの思いに沈むときの灯里の癖、そんなことも柊はいつの頃からかよく知っていた。
「灯里、横になろうか」
柊は灯里の手遊びを止めさせて、布団の方へ誘う。そして静かに、灯里の躰をそこへ横たえた。大人しく、つぶらな瞳で天井を見上げる灯里の傍に腰を下ろすと、柊は言った。
「傍にいる、ずっと」
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