両親とお墓参りに行き、昼食に冷やし中華を食べた後、あまりの暑さに柊は市民プールにでも行こうと思い立った。

「お母さん、プール行ってくる」

 海水パンツとバスタオルと、濡れたそれらを入れる大きめのビニールをバックパックに収め、Tシャツに膝丈の短パン、ビーチサンダルの軽装で柊は家を出た。

 図書館と市民体育館の隣にある市民プールに着くと、生憎のお盆休みで休館だった。

「そうか、忘れてた。失敗したな」

 せっかくだから城址公園でも散歩しようかと思ったが、痛いほどに照りつける容赦ない夏の太陽と痺れるほどに耳に響く蝉の声に、やめておこうと諦めた。

 こんな軽装だから、カフェに入るのも気が引ける。しょうがないので柊は、駅前のファーストフード店でアイスコーヒーをテイクアウェイすると、それを飲みながら家へ帰ることにした。朝のジョギング後、シャワーを浴びたというのに、もうすっかり汗だくだ。


 駅前から市役所通りに入り帰る道すがら、柊は日傘を差した着物姿の女性が前を歩いているのに気がついた。オフホワイトの地にグリーンの濃淡がグラデーションを描く縞柄の着物、帯は黒地できりりとメリハリをつけているが、帯柄はトンボで大人かわいい印象だ。着物姿というだけでも昨今めずらしいのに若い女性らしく、どこの良家のお嬢さんだろうと柊は思った。

 そろりと品良く歩く女性に、短パンで軽装の柊はすぐに追いつく形になった。そしてその周りだけ涼感が漂っているような女性を大股で追い越しがてら、ふと横顔を覗き込んで柊は驚いた。

「え、繭里?」

 そう呼ばれた女性の方も立ち止まって、いま追い越されたばかりの相手をまじまじと見る。

「柊ちゃん?」

 そう言った途端に繭里は、ふっと笑った。

「やだ、その恰好、小学生みたい」

 繭里に笑われて、柊はあらためて自分の服装のいい加減さと、繭里の驚くばかりの夏の清涼な装いを見比べ恥じ入った。

「いや、夏休みだから。にしても、繭里は…見違えたよ」

「そう?」

 嬉しそうに繭里はそう言って、自分の着物姿をまんざらでもない様子で確かめた。

「でも、久しぶりね。柊ちゃん、えっと…変わらないね」

 まだ可笑しそうに繭里がそう言うので、柊は照れながらも言った。

「あんまり暑いから市民プールに行こうと思ったんだけど、お盆休みで休館だったよ」

「やぁだ。柊ちゃんたら頭いいのに、抜けてることがあるのは相変わらずね。確かめてから行けばよかったのに」

 幼い頃から知っている繭里に、抜けているところがあるなんて思われていることを柊は知らなかった。もしかしたら、灯里もそう思っているのだろうか。

「抜けてるって、そうだっけ?」

 くす、と繭里は笑って答えないが、その仕草もこれまで知っている繭里にはない色っぽさだ。


「繭里は、もう立派な『北賀楼』の若女将だね」

「やあね、料亭でお客様を迎えるときは、こんな洒落着は着ないわ。今日は、気晴らしに街へ出掛けたから…」

 繭里の言う着物のTPOの違いなどわからない柊は、それでももしかしたらこの姿は灯里だったかもしれないと思い、急に胸が苦しくなった。

 着物姿の清楚で美しい灯里の姿は容易に想像できて、甘い痛みに襲われる。この凛と乱れのない姿をもしかしたら灯里は望んでいたかもしれないのに、いまは僕の隣でしどけなく快楽に溺れている。

 ああ、灯里は幸せなんだろうか。僕は灯里に何もしてやれないどころか、堕落させているだけじゃないのか?離れていても、せつなく灯里のことばかり考えてしまう自分は、相当重症だと思う。


「でも、ほんと久しぶり。柊ちゃんが大学に入って東京に行ってから、どんどん会う機会はなくなっちゃって。そうだ、暑いからどこか涼しいところでお茶でも飲む?」

 繭里が、たもとから取り出したハンカチで額をそっと抑えた。

「いや、僕、この格好だから」

 短パンにビーチサンダル姿の自分と、優雅に麻の着物を着こなした繭里ではさすがにあまりにも釣り合わない。

「そう、じゃあ、また今度。夏休みだから、まだいるんでしょ?」

「いや、それが。今回はお盆の1週間だけ。東京に帰ったら、すぐに筑波の研究所へ泊まり込み実験に行くんだ。産学協同プロジェクトっていうのに参加しているから」

「なんだ、残念」

 繭里はそれほど残念そうでもなく、そう言って笑った。


 繭里と再び並んで、帰り道を歩く。容赦なく照りつける午後の陽射しに、アスファルトから立ち上る熱気が見えるようで、今年も猛暑だなと柊は思った。

「ねえ、柊ちゃん、東京は楽しい?」

 突然、繭里がそんなことを訊く。

「うーん、どうかな。人も車も多くて、いろんなことのスピードが速いよ。どうして?」

「なんとなく。あたしは故郷ここから出たことがないから」

 繭里のうなじにうっすら汗が浮かんで、頬が少し火照って見える。

「出てみたいの?」

 そう訊いた柊に、意外にも繭里はきっぱりと言った。

「ううん、あたしの居場所は此処だと思うから。ただ…」

「ただ?」

 繭里が柊を見上げて、言葉をつないだ。

「どうして、みんな、東京へ行きたがるのかなって思って」

 みんな? そう言えば東京へ進学した同級生は、地元で就職するよりそのまま東京に残っている方が多いかもしれない。しかし繭里が言ったみんなは、案に灯里を指しているような気が柊はした。


 遠くで、小さく雷鳴がする。

「夕立になるかもしれないわね」

「うん、ひと雨来たら、少しは涼しくなるよ」

「そうだ、明日は灯篭流しよ」

 繭里が思い出したように言う。

 

 『北賀楼』と柊の家から歩いて10分ほどのところに情趣ある二級河川があり、毎年お盆の頃には灯篭流しが行われるのだ。

 灯篭流しの夜は『北賀楼』が予約客でいっぱいになり大人たちはみな忙しいため、子供だった灯里と繭里は柊たち家族と揃って出掛けたものだ。

 遠くの街灯りだけが頼りの薄暗い河岸にたくさんの人が集まってきていて、灯篭が流れてくるのをいまかいまかと待っている。彼方にぽつんと小さな灯りが見えると、「見えた」「はじまった」という声が暗闇のあちこちから上がる。

 やがて小さな一つの灯りはだんだんと大きくなって、その後に連なって追い越し、追い抜かれながら灯篭の儚げに揺らめく灯りがふえていく。

 幼いながらもその美しくもの悲しい、荘厳な光景になにか侵しがたい神聖さを感じたものだ。

「繭里は、見に行けるの?」

 料亭があるから無理だろうと思いながら柊は訊いたが、やはり繭里は首を振った。


 少しずつ少しずつ、でも確実に子供の頃とは、違っていくのだ。灯里と繭里と柊の関係も、そして何もかもいろんなことが。その中で変わらないものは、どれだけあるのだろう。変わらないもの、変わらぬ大切な想い。


「そう言えば、お祖母様はまだ?」

 突然そんなことを訊いた自分に柊自身が驚いていたが、繭里はもっと驚いた顔をした。

「…相変わらず、入院しているけど…」

 繭里の顔が少し曇る。

「そう、郊外のあの療養病院だっけ?」

「うん。でもあまりね、お見舞いに行けてないの」

 祖母をどちらかと言えば苦手だった繭里は、そう申し訳なさそうに言った。

「忙しいものね、若女将だし。でも、繭里が頑張っているのを知ったら喜ぶよ」

 急に元気がなくなった繭里に、柊はそう言わずにはいられなかった。

「ありがと、柊ちゃん。相変わらず優しいね」

 繭里がそう言って、少し淋しげに笑う。だから柊は、思わず訊いてしまった。

「繭里は…繭里はいま、幸せ?」

 一瞬、子供の頃のようなきょとんとした表情で柊を見上げた繭里は、やがてふわりと大人の表情をまとうと言った。

「うん。柊ちゃん、あたしは幸せにならなければいけないの。みんなのために、幸せでいなければならないのよ」


 みんなのために? 幸せでいなければいけない?


 繭里の覚悟めいた言い方が気になったが、柊は気づかないふりを装って言った。

「そうか、それなら良かった」

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