「こんばんは」

 そう言ってバーに足を踏みれたのはカオルだ。

「やあ」

 とアレンが気さくに応じて、片手を上げる。

 真っ直ぐカウンターにやってきて座ったカオルに、アレンが訊く。

「今日は、独り?」

「今日も、独り」

 カオルがそう言って、肩を竦めながら舌を出した。

「相棒は?」

「相棒ってどっち?」

「両方だよ」

 カオルがふぅ、とため息をついて言った。

「灯里は今日のレッスン、休んだの。シンジは、いまニューヨーク」

「そう。で、何飲む?」

 オーダーを訊いたアレンに、カオルはシンガポールスリングを頼んだ。それはシンジがよく頼むものだったが、それに気づかないふりをしてアレンはOKと言った。

「食べ物は、何にしようかなぁ」

 カオルがぼそっとそう言ってメニューを手に取る。めずらしく迷いながら、パラパラとページをめくっている。

「鴨のパテとか、新メニューあるけど?あと小海老と夏野菜のスパイシーサラダとかおすすめ」

 いつもなら、アレンの提案に喜んで「それ!」というカオの反応がイマイチだ。

「やっぱ、ごぼうスティックとスズキのカルパッチョにする」

「了解!」

 努めて明るく言ったアレンが、カオルの眼の前にシンガポールスリングを置いた。

 華やかな甘酸っぱさが弾けるそのカクテルをつまらなさそうに、ちょびちょび飲むカオルを眼の端で捉えながら、アレンは別の客のおかわりをつくる。お盆直前の金曜の夜は、いつもより客が少なかった。


 やがて出来上がったごぼうスティックとカルパッチョをカオルの前に置くと、アレンは言った。

「なんか今日、元気ないね」

「そうかな?」

 とカオルは冴えない表情で言って、ごぼうスティックをカリリと齧った。

「夏バテかも」

 違うだろ、とアレンは心の中で言ってカオルに微笑む。

「そうか、じゃあ、気をつけないと」

 優しく話しにつき合ってくれるアレンに、カオルが訊いた。

「ねぇ、アレン。アレンはいつも、あたしに優しいよね?だけど…」

「だけど?」

 オウム返しに訊くアレンに、一瞬沈黙して、それから思い切ったようにカオルが言う。

「なんで、灯里にはいつも冷たいの?」

 傍から見てわかるほどだったか、とアレンは反省しながらそれでもシラを切った。

「冷たい?そうかな?」

「て言うか、皮肉っぽい」

 アレンはとうとう苦笑いをした。

「お客に対して、それは失礼だったよな。これから気をつけるよ」

「でもなんで?だって灯里は、アレンの親友の恋人なんでしょ?」

 それはむしろ、アレンが確認したいくらいだった。

「そう彼女が言ったの?恋人だって」

「はっきりは言わないけど…」

 途端に、カオルが口ごもった。

「けど?」

「違うの?」

「訊いてるのは、俺なんだけど」

 カオルはう~んと眉根を寄せて考え込む。

「でも、あれ見たら…」

 そう言った途端に、カオルはしまったという表情をした。

「あれって?」

 明らかにカオルが動揺している。だからアレンは、もう一度訊かずにはいられなかった。

「あれって、何を見たんだ?」

 カオルが唇を噛んで、アレンを上目遣いに見る。

「あたし、友達は売らないから」

「わかってるよ、キミはそんなじゃない」

 アレンは心からそう思っていることを、笑顔で伝えた。でもカオルは、何か迷っているようだった。

「ねぇ、アレン。キスマークをいっぱいつけるってことは、それだけ好きだってことだよね?」

 カオルの問いに、なんて隠し事が出来ないなんだとアレンは微笑ましく思いながら言った。

「まぁ、普通はそうだろうね」

 アレンの答えに、カオルはやっと安心したようにその日初めての明るい笑顔を見せた。

「だよね。なら、いいんだ。忘れて」

 だけど、アレンは思った。普通はそうだけど、そうじゃない場合だってある。こじれた愛憎とか、歪んだ執着とか。そして柊と灯里に関しては、むしろそっちの面をアレンは危惧している。


 そんなアレンの心配をよそに、少し元気になったカオルが言う。

「やっぱ、シンジの振付じゃないと面白くなんだよね」

「そう」

「もう、あれは才能だね。シンジの振付はさ、踊っていると躰中が、ううん細胞の一つ一つが喜ぶの。魂がビートを刻み出す感じがするの」

 やっと本来のカオルらしく、目を輝かせながら言う。

「そんなに違うんだ?」

「もう、ぜんっぜん違う。あたしだけじゃないよ。だってシンジがいないと、急にレッスン受けに来る人の数が減るんだもの」

「そうか。アイツ、そんなに凄いんだ」

「うんっ」

 と嬉しそうに言ったカオルの表情が、今度はいきなり曇る。忙しいだ、正直でいいけどとアレンは可笑しくなる。

「はぁ、ニューヨーク行きたかったなぁ」

「なんで、一緒に行かなかったの?」

「だって、シンジが来るなって。行くんなら独りで行けって言うんだもん」

 キミはそれを素直に訊いたんだ、とアレンはカオルを可愛いと思った。

「でも、帰ってくるんだろ?」

「うん、一ヶ月後くらいだけど」

 再び悄気たカオルを、けしかけるようにアレンは言った。

「追いかけて行っちゃえば?」

 ダメだよ、とカオルが頭を振る。

「シンジの邪魔になる。わかってるんだ、だから待つの」

 キミは本当に可愛い女だな、とアレンは心の中で思った。

「ドリンク、奢るよ。何がいい?」

 ちょっと小首を傾げて、カオルが考えた。

「シンガポールスリング!今日はそれしか飲まないっ」

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