ⅷ
オーボエ奏者だったアレンの父親と、チェロ奏者だった母親が出逢ったのはカナダのオーケストラの楽団員としてだった。国際的な交響楽団の一員として海外を演奏旅行で回るうちに、自然に恋が芽生えた。
父親が31歳、母親が29歳のときに、ふたりは演奏旅行で訪れたニューヨークで結婚式を挙げた。それから約1年後に妊娠して、母親は出産と子育てのためにオーケストラを辞めなければならなくなった。初めての出産ということもあり、海外よりは両親や知人がいる母国がいいだろうということで、ふたりは生活の拠点を日本に構えた。それがいまのこのマンションだという。
「母親は、落ち着いたらまたオーケストラに戻るつもりだったんだ」
とアレンは言った。
しかし初めての子育てはそれほど簡単ではなく、父親は相変わらず海外での演奏旅行のために不在がち。淋しさが募った母親は、少し情緒不安定になったのだと言う。その頃はまだ強い愛情で結ばれていたふたりは、やっと1歳になったアレンを連れてともに海外を旅する道を選んだ。
それから約1年後に、母親は再び身ごもった。最初と同じように日本で出産したが、3歳と生まれたばかりの赤ん坊を連れて演奏旅行へついていくのは無理だ。
父親が国際的にさらに評価の高いオーケストラに移籍した頃から、母親の様子が眼に見えて不安定になった。
音楽の才能をいっそう開花させて国際舞台で活躍していく夫、同じ夢を追いかけていたはずがどんどん取り残されていく自分。子供たちはこれから幼稚園や小学校に通わせなければならないし、演奏旅行についていくこともままならない。ふたりの子育てが一段落する頃には、もう自分は音楽の道へは復帰できないのではないか。
最初に幼い妹を母から守ったのは、アレンだった。陽の高いうちからお酒を飲み、タバコを吸うようになった母親は、酔うといっそう情緒不安定になり取り乱すようになっていた。
暑い夏の日だった。タオルケットをかけて昼寝をさせられていた妹の横に、幽霊のように真っ青な顔でぺたりと座り込む母親がいた。手にはタバコを持っていて、お酒の入ったグラスが倒れている。中身は床にこぼれ、小さな水溜りをつくっていた。
「どうしたの、ママ?」
アレンは嫌な予感がして、朦朧としている様子の母の背中に声をかけた。その声は母には訊こえなかったようで、ゆっくりと母親の手が妹のタオルケットを剥がすのが見えた。
咄嗟にアレンは母親に走り寄り、彼女の手からタバコを奪うと、床に出来ていた水溜りに捨てた。焦点の合わない眼をした母親の顔が、スローモーションのようにアレンを覗き見て、それからゆっくり視線を外すと、床の水溜りに投げ捨てられたタバコに向けられた。
「私…」
はっとした母親がひと言そういうと、アレンの両肩を掴んだ。
「ママ、大丈夫。なにも起こっていないよ」
アレンは、そう言わなければいけない気がした。その言葉を訊いて、母親は突然号泣した。
「ごめんなさい、ごめんなさい。私、なんてことを。ああ、ごめんなさい。私、いま…っ」
混乱して泣き崩れる母親の背中をアレンは、撫でた。
「ママ、大丈夫だよ。僕がいるから。僕がいるから」
それから数日して、母親の狂気の行為は突然はじまった。
「お前がいるから、お前がいるから…っ」
そう言って、母親はアレンの尻にタバコを押しつけたのだ。
「エレンを守るためでもあったんだ。母は正気でなくなっても、それでもまだほんのひと握りの理性はあったんだろうね。タバコを押しつけるのは、いつも簡単には見えないお尻と決まっていた」
けれども、それが発見を遅らせた。
父親が気づいたときは、すでに母親の狂気は誰の眼にも明らかだった。子供への仕打ちが許せない父親は、離婚してふたりの子供を引き取ると言った。
その父親にアレンは言ったのだという。
「僕が、ママの傍にいる」
「親父はそれでも年に1度は会いに来てくれたし、手紙や電話も頻繁にくれて愛情を示してくれたよ。でも18歳になったとき、俺は日本国籍を正式に選んだ」
柊は、言うべき言葉が見つからなかった。薄々想像してはいたけれど、それを本人の口から詳細に訊くのは思った以上の衝撃だった。
「だから、傍にいたい気持ちは俺にはわかる。だけど、心が弱い者は結局救えない。最後に自分を救えるのは、自分自身なんだ。なぁ、柊。Miss幼なじみは弱い女じゃないのか?俺は、それが心配なんだ」
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