カルネアデスの方程式

寝る犬

第1話「地球到着まで398日」

「定時連絡。カリロエⅥ、全て問題なし。地球到着まで398日。地球での再会が待ち遠しい。以上、通信を終わる」


 レーザー通信による定時連絡を送信し、計器の電源を落とす。

 本日の仕事はこれで終了。あとは変わり映えの無い宇宙空間を見て過ごすか、軽い運動をするか、映像バンクを検索して古い映画でも見て過ごすか……。

 とにかく無為な一日が今日も始まる。


 宇宙貨物船カリロエⅥは、2日ほど前に木星の衛星エウロパにある国際共同宇宙基地から飛び立った。

 積み荷はエウロパの分厚い氷の下に存在する原初の海から採取されたバクテリアの一種で、現在地球で猛威を振るう死に至る病に対するプロバイオティクス治療において、人類唯一の希望とされていた。


 最初に採集されたほんの少量のバクテリアは、単なる学術的興味から集められたものだった。

 しかし同じ研究機関で調べられていた病原菌のバイオハザードが起こった際、このバクテリアを研究していたチームのメンバーだけが死を免れた。

 その後、このバクテリアの病原体に対する強い抵抗力が正式に認められ、次々と死んでゆく人間を治療する唯一の薬として認可された。


 現在地球でもこのバクテリアを利用した特効薬の研究が進んではいるが、完成にはまだ時間がかかる。

 定期的にバクテリアを採集し、地球へ運ぶこの船の存在が、地球人類すべての命運を握っていると言っても過言ではなかった。


 第6回目の輸送。

 カリロエⅤより1.5倍以上のバクテリアの量。その総重量100kg。

 この輸送が成功すれば、人類の滅亡の脅威は少なくとも2年は先送りされる。


 自分自身、この仕事には誇りを持っていた。


 しかし、それと暇なのは話は別だ。


 宇宙船はほぼ自動運転で、目視検査と定時連絡、緊急時のマニュアル対応くらいしかやることはないのだ。

 まぁだからこそ半引きこもりのような俺にも、宇宙飛行士などと言う立派な仕事がこなせる訳だが。


 俺は映像バンクの中から、昨日見つけたエロい映画をチョイスして再生する。

 軽い運動は推奨されている。運動を行わないと、低重力化における筋肉の劣化が起こるからだ。


 つまりこれも仕事の一部だともいえる。そう自分に言い聞かせてパンツの中に手を入れた瞬間、宇宙船に衝撃が走り、緊急警報が鳴り響いた。


『外部エアロック解放、与圧室、気圧低下』


 その艦内放送に俺は血の気が一気に引いた。

 使うことはないだろうと思っていた緊急マニュアルを開く。コンピュータがイかれた時のために、緊急マニュアルは紙製だ。

 ぱらぱらとページをめくり、エアロック故障のページを開く。

 計器の前にTシャツにパンツ一枚の姿で座ると、①の項目に指を這わせた。


『外部エアロック閉鎖完了。与圧開始します』


 ……何もしていないのにエアロックが閉じた。


 与圧完了の表示が画面に映し出されると同時に、目の前の内部エアロックが「ぷしゅう」と言うガスの抜けるような音とともに開いた。


「助……けて」


 銀色に輝く旧式の緊急宇宙服。

 そのヘルメットを外し、長いプラチナブロンドを溢れ出させた少女は、崩れ落ちるように俺の腕の中に倒れこんだ。

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